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『栄光のバックホーム』(試し読み)

2025.11.30 公開 ポスト

#1 もうひとつの『奇跡のバックホーム』中井由梨子(劇作家・演出家)

脳腫瘍の後遺症に苦しむ中、引退試合で見せた「奇跡のバックホーム」。伝説のプレーから4年後、横田慎太郎さんは28歳でこの世を去った。人々に愛され希望となった青年の生涯を、母親の目線で描いた、感涙のノンフィクションストーリー『栄光のバックホーム』。

横田さんの自伝『奇跡のバックホーム』と『栄光のバックホーム』を原作とした、映画『栄光のバックホーム』が、2025年11月28日に全国で公開。

映画の公開に合わせて、『栄光のバックホーム』の試し読みを全6回でお届けします。

*   *   *

プロローグ 甲子園の空

 

満天の星でした。

 

「お母さん」

 

ふいに声がしました。

悲しみと疲れで動けなかったは、空耳かと思い、目を開きませんでした。

真夜中のことでした。息子が生涯を終えた神戸の葬儀場で、私は、息子の棺に寄りかかるように座っていました。明日の早朝、故郷の鹿児島に帰るための飛行機の便を手配し終え、眠る気力すら残っていないほどに疲れ果てていました。ただじっと目を閉じたまま、体を棺に預けていました。

 

「お母さん」

 

もう一度、はっきりと呼ぶ声がしました。

私は重いを上げました。

息子が、棺の上に座っていました。

「え?」

瞼を押し開いて、よくよく見ました。やはり本当に、棺の中で、永遠の眠りについているはずの息子が、暗闇の中、棺の上に座って、こちらを見ていました。

「お母さん、ちょっと行ってくるね」

彼は、はっきりと言いました。

「どこに?」

事態をよく飲み込めないままに聞き返していました。夫も娘も眠っていて、辺りには誰もいません。暗がりに目が慣れてくると、息子の姿はますますはっきりと輪郭を露わにしていきました。

「甲子園」

息子は立ち上がりました。その声は、明るく弾んでいました。

「甲子園?」

「うん。ちょっと、行ってくる」

立ち上がった彼の姿を私は目を凝らして見つめました。

息子は泥だらけのユニフォームを着ていました。しかしそれは、プロ野球選手として活躍していた頃の阪神タイガースのタテジマではありません。

母校の鹿児島実業高校野球部のものです。よく見ると、頭も丸坊主でした。

「じゃあね」

「慎太郎!」

息子は振り返らず、扉を開けて出ていきました。

土にまみれたユニフォーム。

使い込んだスパイク。

マウンドに立った時の、とした背中。

息子はあの頃の、高校生の姿のまま、どこへともなく消えてしまいました。

 

「待って、慎太郎!」

 

追いかけなきゃ。また失ってしまう。

夢中で走り出すと、景色はぐにゃぐにゃと曲がっていました。待って、待って。追いかけたいのに、足は重く絡まって上手く前に進みません。

甲子園。

その言葉だけが、頭に響きます。お母さんも一緒に行くよ、だから待って!

次の瞬間、急に視界が開けました。

目の前が真っ白になり、しい光に目を開けることができませんでした。気がつくと、私は球場の入口に立っていました。

見覚えがあります。阪神甲子園球場。阪神タイガースの本拠地であり、日本の高校球児たちの聖地。その正面入口に私は立っていたのです。

辺りには誰もいません。

見上げると、満天の星です。

「慎太郎!」

呼んでも返事がありません。

どうやったら中に入れるのだろう。私は開いている扉を探して球場の周囲を歩きました。どの扉も固く閉ざされています。

「慎太郎!」

返事はありません。

「慎太郎、お母さんも中に入れてよ」

途方に暮れて歩いていると、ぼんやりと光る場所を見つけました。駆け寄ると、そこは正面入口のちょうど真裏に位置する関係者専用の入口でした。

その扉がうっすらと開き、細く光の筋が漏れています。私は迷わず駆け寄り、ドアに手をかけました。と、手が触れた瞬間にドアは消滅し、次に気がついた時にはグラウンドの中、ちょうどホームベースの後ろに立っていました。

「お母さん!」

 

正面から息子の声が響きました。

「投げるから、どいて。危ないよ!」

よく見ると、息子はマウンドに立っています。鹿児島実業高校の帽子を目深に被り、愛用のグローブを右手にはめ、左手にボールを握っていました。

「何してるの!?」

「いいから、どいて!」

息子は笑って、ボールをグローブにパンパン、と打ちつけたので、私は慌ててベンチのほうへと逃げました。息子はスッと背筋を正すとバッターボッ クスを見つめ、構えました。

ああ、この姿。好きだったな。

高校生の頃、彼はピッチャーとバッターの二刀流で、チームの期待を一身に背負い闘っていました。高校3年の最後の夏も。

ヒュン!

息子の投げた白球がまっすぐにホームベース上に向かいました。そのままボールは空気中に吸い込まれるように消えました。

「ストライク!」

私が思わず叫ぶと、慎太郎は私に向かって親指を立てて笑いました。

「お母さん、次、投げて」

息子が駆け寄ってきました。手には、新聞紙を丸めたボールを握っています。小さい頃、息子はよく、この新聞紙ボールを私に投げさせて竿から干した布団に向かって打ち返すというバッティング練習をしていたものでした。

「何よ、このボールじゃ届かないわよ」

私が笑うと、

「だってお母さん、これしか投げられないでしょ」

と皮肉たっぷりに言い返します。

高校生の姿をした息子は、よく日に焼けた、ちょっとあどけない笑顔をしていました。長い闘病生活での白く透き通った肌を見慣れていた私は、その顔を眩しく見つめました。

そうだった、慎太郎はこんな顔をしていたんだ。

はにかむような笑顔が、私は好きだったのだ。

「大丈夫。届くから、投げて!」

息子はいつの間にかバットを握り、バッターボックスに立っています。

「よーし、分かった」

私は腕まくりをすると、マウンドに向かいました。

「いつでも投げて!」

バッターボックスに立った息子を見て、私はハッとしました。息子の着ているユニフォームは、阪神タイガースのタテジマに変わっていました。頭はツンツンに立てた短髪で、体も大きく太くなっています。

「ヘルメットは?」

「新聞紙だからいらないでしょ。いいから早く投げて!」

息子は筋肉の盛り上がった腕で、ブン! といい音を立ててバットを振りました。プロ野球選手になるという夢を叶え、開幕戦のスタメンとして打席に立った時の、あのたくましい姿でした。

 

背番号、24。

 

「いくよ……!」

私はボールを握りしめると、思いっきり、息子に向かって投げました。

新聞紙のボールはまっすぐに息子に向かって飛んでいきました。息子はぐっと体を引くと、勢いよくバットを振りました。

 

カキーン!

 

「あ!」

新聞紙のボールはその瞬間、白球に変わり、私のはるか頭上を越えました。

「良い当たり! 大きい、大きい!」

息子は自分で実況をしながら一塁を蹴ります。

白球はみるみるうちに外野スタンドへと吸い込まれていきました。

「入ったー、ホームラン!」

二塁を蹴り、三塁を回って息子はガッツポーズしました。

「凄い、ホームラン、ホームラン!」

私はマウンドで飛び上がりました。

息子は腕を高く天に突き上げながらホームベースを踏みました。

 

満天の星でした。

 

「お母さん」

振り返ると、サングラスをかけた息子が、遠く外野の中央に立ってこちらに向かって手を上げていました。

「バックホーム、できるかな」

彼が立っていた位置は、センター。彼が奇跡を起こした場所。

「やってみせてよ!」

「じゃあ、お母さん、キャッチャーやって」

「いいよ」

息子はふたたび、グローブと白球を手にしているようでした。私はキャッチャーボックスへ向かいました。キャッチャーミットもなんにも持っていませんでしたが、受け止める自信がありました。

「来い!」

私は両手を上げて、遠くセンターに立つ息子に叫びました。

「ここだよ、ここ!」

そう、ここだよ。この両手に。

慎太郎、戻っておいで!

「いくよ、お母さん!」

息子はボールを握り、腕を後ろに引きました。大きく足を踏み出し、体をしならせて、私に向かってまっすぐに──

 

「バックホーム!」

 

はっと目が覚めました。

飛行機の機内で、私は深い眠りに落ちていたようでした。隣を見ると、娘の真子が窓枠に頭を預けて眠っています。反対側を見ると、夫の真之いた姿勢で目を閉じています。

窓の外の景色は、どこまでも続く青空。眼下に白い雲が流れています。

腕時計を見ると午前10時12分を指していました。伊丹空港を離陸してから40分ほど。あと30分もすれば鹿児島空港に到着します。

昨日の早朝に息子がってから、遺された家族3人で怒濤の引き揚げをなんとか乗り越えました。多くの方々が、私たちを助けてくださいました。息子が最期までお世話になった阪神タイガース球団の大先輩である川藤幸三さん、現役引退後の息子を支援してくださり、神戸での最後の日々を見届けてくださったA社長。

大阪の葬儀社の手配により、息子の体は私たちよりも早く、早朝の便で鹿児島に到着しているはずです。到着したら、今度は地元の葬儀社で通夜と葬儀の準備をせねば。お世話になった方々にも順次連絡して……。

私は大きく溜息をつき、背中を座席のシートに押し付け、天井を見上げました。あまりに多くのことがありすぎたせいか、離陸してすぐに眠ってしまったようでした。

 

夢、だったのか。

 

今、見たばかりの光景を何度も頭に思い返しました。とてもリアルな夢で、まだはっきりと目に焼き付いています。

慎太郎、鹿児島に帰る前に、甲子園に行きたかったんだね。

そりゃ、そうか。

あんなに行きたがっていたのだもの。甲子園でもう一度走り回りたくて、苦しい闘病に耐えたんだもの。憧れ続けた聖地を独り占めして、思いっきり駆け回ったって、いいよね。

私はふたたび目を閉じました。

 

この時見た夢のことは、今日まで誰にも話したことはありません。

けれど、こうしてこの本に出会ってくださったあなたには、これまでお話ししてこなかったことをお伝えしたいと思っています。

 

2014年から2019年まで阪神タイガースに在籍していたプロ野球選手、横田慎太郎は、2023年7月18日午前5時42分、神戸のホスピスで静かに息を引き取りました。

享年28。

子どもの頃から目指し続けたプロ野球選手になるという夢を18歳で叶えてから、試合でプレーしたのはほんの2年という短い間でした。彼はプロ野球選手人生の多くをグラウンドではなく、大学病院のベッドで過ごしたからです。

 

息子がこの世界からいなくなってしばらくの間、私は人に会うのも億劫な気持ちになり、一日中家に引きこもってばかりの日々を過ごしていました。息子の看病をするために仕事を辞めていましたので、一日中することがなく、やる気も起きず、ただやることといえば、仏壇に蠟燭を絶やさないこと、いろんな香りのするお線香を選んで買ってきてはせっせといて毎朝下手なお経をあげること、息子の好きだった料理を作って毎晩仏壇に供えること。そればかりでした。

しかしある時、ふと思い立って外に出て、お日様を見上げたのです。

太陽は夏の終わりを告げていましたが、その光の中に、確かに息子を感じました。まるですぐに彼がいるように。

 

お母さん。もうちょっとしっかりしてよ。

線香の匂いなんかどうでもいいから。お経も下手なんだから読んでも読まなくってもどっちでもいいよ。料理も、お母さんの気が済むならそれでいいけど、俺、どうせ食べないからね? そんなことより、もっとやることたくさんあるでしょう。

 

息子の小言が聞こえてきそうでした。

あらまあ、そうですか。確かにその通りですね。物言わぬ箱に向かって、毎日あれこれと世話を焼いていても仕方がない。私はまだこの世に生きていて、世界はまだ続いているのです。

 

お母さんは、お母さんの人生をしっかり生きて。

 

息子の光はそう告げているようでした。

私の人生。野球選手の妻であり、母親であったという以上は何もありません。ですから今、私ができるのは、最後まで「横田慎太郎の母」であることを貫くことだけだと思っています。

そうであるならば──

母親として、彼の一番近くにいた者として、生前彼が伝えたかった、そして伝えきれぬままだった何かをもう一度探してみたいと思いました。引退後の息子は、自分の体験を伝えようと、病を押して講演会のために全国を飛び回っておりました。ですが、元来口下手でしたから、想いをすべてお伝えできていたかといえば、そうではない気もします。

伝えきれなかった息子の想いの落とし物を一つ一つ拾いながら、慎太郎の足跡を辿る私の個人的な旅路を、もしもあなたがご一緒してくださるのであれば、とても心強く、嬉しく思います。

 

お時間が許すならば、どうぞ、次のページをめくってみてください。

一緒に息子の足跡を辿りながら、その旅路があなたの胸の内で光る欠片となるならば、それこそきっと慎太郎の一番望んだことであり、これ以上の幸せはございません。

関連書籍

中井由梨子『栄光のバックホーム 横田慎太郎、永遠の背番号24』

脳腫瘍の後遺症に苦しむ中、引退試合で見せた「奇跡のバックホーム」。伝説のプレーから4年後、横田慎太郎は28歳でこの世を去っ た。阪神はその年に38年ぶりの日本一。歓喜の中心で舞ったのは、横田選手のユニフォームだった。人々に愛され希望となった青年の生涯を、母親の目線で描く。絶望と挑戦、そして絆。感涙のノンフィクションストーリー。

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『栄光のバックホーム』(試し読み)

2025年11月28日に映画『栄光のバックホーム』が、全国上映します。

その原作の試し読みをお届けします!

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中井由梨子 劇作家・演出家

 

一九七七年兵庫県出身。劇作家・演出家・演技指導講師。九六年、神戸で旗揚げされたガールズ劇団・TAKE IT EASY! に座付き作家として入団。二〇〇五年に活動拠点を関西から東京へと移す。一〇年劇団CAC中井組の座付き作家・演出家に就任し、一三年まで活動。一八年二月にmosaqueを結成。映画「20歳のソウル」の脚本・プロデュースを担当。

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