
三重県の津駅に降りたのは、初めてだった。
明日から友人二人と共に伊勢観光に行く予定で、関西での仕事を終えた僕は、東京へは戻らずに三重で二人を待つことにしたのだ。
「つ」
と、ついつい口に出してみたくなってしまう、そんなかわいらしさがある。
読みが一文字の駅は、日本ではこの駅だけだそう。
ただし、”日本語の読みとして”の一文字。
ローマ字だと「Tsu」と三文字になってしまうから、例えば「大井駅」は「Oi」、「頴娃駅」は「Ei」と、残念ながら「日本語で2文字以上」の駅にさえ負けてしまうわけだ。
そんな中、「津」のアルファベット表記を「Z」の一文字にして、世界一短い駅の名前としてギネスに申請しようとした動きがあったらしい。
さすがに無理があったのか(笑)、今も津駅の駅名表示は「Tsu」のままだ。
津市は三重県の県庁所在地だが、県内でいちばん人口が多いのは四日市市。だから、行政の中心ではあっても”最大の都市”というわけではない。
たしかに僕も、三重県で泊まったことがあるのは伊勢市だけだ。過去にサミットが開催された志摩や、水族館のある鳥羽、サーキットのある鈴鹿、桑名の焼き蛤……と、三重県についてあれこれ思い出してみても、「津市」の印象は恥ずかしながらあまり思い浮かばなかった。

かつては日本有数のうなぎの名産地
津に向かう電車の中で、ひたすらグルメを調べていた。
このときの熱情は相当なものだと思う。もともとが少食なので、旅先の1食に失敗することへの抵抗がそうさせるのだ。
その日は多分もう他にほとんど食べられないので、容量の小さな胃に、くだらないものを入れたくない。
孤独のグルメの井之頭五郎は、スマホを使わず、勘と運命を信じつつ店を探しているが、それは彼が強靭な胃袋の持ち主だからなし得ること。たとえ一食に失敗しても、また別の店で口直しができるくらいの大食漢だから成立している。
僕の場合は逆だ。胃に自信が無いからこそ、スマホを駆使して「絶対の正解」を導き出すことに時間を惜しまない。
気づいたら特急に乗っている1時間半のほとんどを、その作業に費やしていた。
調べてみると、津市にはうなぎ屋がたくさんあることにすぐ気づいた。
なんでも戦前は200以上の養鰻業者がいたそうで、戦後になり九州や四国でうなぎの大規模な養殖が行われるようになったことと、伊勢湾台風の被害で養鰻は衰退したそうだ。食文化だけが残り続けた結果、津市にはうなぎ屋が多いのだという。
津市内にある、うなぎのお店を一軒一軒調べる。
この電車が津に到着するのは15時過ぎの予定だが、通し営業をしているお店はほとんどなかった。
そんな中、津駅から歩いてすぐのところに、通し営業のうなぎ屋があることに気づいた。「お」と思ったのも束の間で、スマホを操作する手が止まる。胸の奥に「こういう店は危ないのでは……」という、いぶかしみが芽生えたのだ。
思い出したのは、自分の中で「築地ショック」と呼んでいるあの事件。
ナレーションや声優さんによるボイスドラマを収録する専用スタジオが築地にあり、僕とスタッフ二人による三人は、13時からのレコーディング前に「せっかくだから築地でご飯を食べよう」と、少し早めに現地へ向かった。
お店を吟味するほどの時間はなく、目についた海鮮丼の店に入ったのだが……これがびっくりするほど美味しくなかったのだ。
僕だけの感想ではない。スタッフ二人との楽しい会話がピタッと途切れ、函館出身の女性スタッフが戸惑ったように僕を見て首を細かく振り、もうひとりの男性スタッフは半分残したまま「もう行きましょっか」と言った。
僕たちは、味について何も言及できないままスタジオへと向かった。
誰も「失敗した」と言いだせなかったのだ。
「築地で”KAISENDON”のノボリを出しておけば、適当でもみんな喜んで食うだろ」
__そんな店に当たってしまったのかもしれない。
だから、津駅前のうなぎ屋に気づいた瞬間も、同じ警戒心が働いた。
「駅の目の前でうなぎ屋をやっていれば、うなぎが名物という情報を得た観光客が、延髄反応で勝手に入ってくる。どうせ適当な料理を出してもそれなりに満足するだろ」みたいな店だったらどうしよう、と。
頭の中には、最悪のシナリオがよぎる。
たとえば今後、津出身の人と出会って、「駅前の、あのうなぎ屋に行ったんです!」なんて言ったときに、「あー……」とため息まじりに「その店、市民から嫌われてんだよね。急に店出して、さも老舗みたいな顔しててさ。津の人、誰も行かないよ? よりによって、なんでそこ入ったの(笑)」
なんて反応が返ってくるような店だったらヤバい。
(ちなみに札幌出身の僕にも、スープカレー店の中に、似たような感情を抱く店が、“ないといったら、嘘になる”。)
結論。全部、僕の考えすぎでした。
すみませんでした。
大観亭支店 西口店

(ひつまぶしの小)
店内に座る地元民らしき老夫婦の表情を見て、すぐに分かった。
張り切っていない。普通うなぎ屋に来たら、目を輝かせたりして張り切るものなのだ。客はみんな、自然体でくつろぎながら、どうでもいい話をしている。
着席して値段を見て、思わず「えっ」と声が出た。うな重特上が、3000円。僕が注文した「ひめまぶし」は、量的にちょうど良かったのだが、それでも2150円。東京なら、こんな値段ではまず食べられない。
うなぎが日常の食として自然に存在していることが、店の空気や食べる人たちの様子で伝わってきた。この店は地元からちゃんと信頼されているのだ。
「この地域周辺では、うなぎに似せて作ったはんぺんのことを『うなぎ』と言う」みたいなオチまで、いちおうギャグで考えていた。が、実際に出てきたのは、香ばしく焼き上げられた、味もしっかり美味しいうなぎだった。
まずはそのまま、次は薬味と一緒に、最後にお茶漬けにして…という、一連のひつまぶしムーブも楽しみつつ、大満足でお店を後にすることができた。
旅行の時はホテルでラジオの選曲をしていた
このエッセイの第2回で、僕がラジオのパーソナリティになることが決まったと書いた。あれが2019年のことだが、今回の話は2024年の出来事になる。その間も、北海道から放送しているラジオ番組はずっと続いていて、頭の中はつねに「翌週の番組でどんな曲を流すか」でいっぱいだった。旅先でも、こうやってホテルに戻ると、翌週の選曲を考えたりしている。
そうだ。あの曲を、来週ラジオで流すことにしよう。僕はパソコンのメモに曲名を打ち込み、イヤフォンを付けて、もう一度聴いた。
「Dear」 Mrs. GREEN APPLE
つい先日発売された最新曲で、北海道出身の大泉洋が主演を務める映画『ディア・ファミリー』の主題歌だ。映画の中では、三重県の伊勢志摩が思い出の旅行場所として登場する。ラジオ局から与えられていた選曲テーマは「Parent (ペアレント=親)」だったから、これ以上ないほどぴったりだろう。
僕でも入るのにためらった居酒屋
夜になり、ホテルから津駅へ向かい、タクシーに乗る。
「どちらまで」と聞かれたが「初めてここに来たので、歓楽街を教えて下さい」と言うと「まあ、大門やろなぁ」との答え。
「タクシーで行くような距離ですかね?」「歩けないほどではないです」「じゃ、ぜひ出してください」
「お客さん、初めて言うてましたけど、お仕事で?」
「いやぁ、一度来てみたかったんですよ」
運転手さんは自嘲気味に笑った。
「なんで、こんななんもないところに……」
「でもお客さん。イオンってありますでしょ。ショッピングセンターの。あれってイオンになる前『ジャスコ』って言ってたでしょ。『ジャスコ』は、三重県発祥なんですよ」
「え、そうなんですか」
「ワシら子供の頃はオカダヤって言ってましたが、ほら、この角のビルですわ。昔ここにあったジャスコが、イオンの始まりの店ですわ」
(※後ほど調べたところ、実際は四日市で創業し、津店は事実上の2号店とされているらしいです)
タクシーを降り、大門の町を歩く。
正直、県庁所在地の歓楽街としてのまぶしさは少なく、かつては賑やかだったであろう様子を想像させる。バブル期に建てられたのだろうか。とがったコンクリートの建物からは明かりが消えていた。

まちなかをさまようこと30分。
いつも知らない町ではこうやって気の済むまで歩き、店の佇まいを精査しながら入るかどうかを決めている。ようやく気になる外見の店を発見し、ドアに手を掛けたがしばし思いとどまる。居酒屋かどうかも、外観からは判別できないほど。こんなに入りにくいと思ったお店は久しぶりだった。
「旅の恥はかき捨て」と心の中でつぶやき、思い切ってドアを開ける。
常連らしい男性3人と、店主とおかみさんが一斉にこちらを見る。
「あ…… 一人なんですが、大丈夫でしょうか」
「あんた、よう入ってこれたねぇ」と、目を見張る大将。
「一見で入ってくる人、ほとんどいないのよ、うちの店」と笑う。本気なのか、冗談なのか。
飲み物を尋ねられ「ハイボールってありますか」と聞くと「ハイボールってのは、なんだったか」と大将が天を仰ぐ。
「ウイスキーの炭酸で割ったやつよ」とおかみさん。「ああ、そうだったな。無いわ。炭酸が無ェ」
マジか。20年前ならまだしも、大手酒販会社の積極的な広告で、今やすっかり馴染んでいるはずのハイボールが、注文できない居酒屋が存在するとは。
「前はね、全部お客さんにお酒持ち込んでもらってたのよ。勝手に好きな酒飲んでもらってたほうが楽だし。だからこの辺に置いてある瓶は、全部お客さんが置いてったやつなのね」
やがて常連3人も帰り、焼酎の水割りに落ち着いた僕に大将が話しかける。
「このあたり初めて来たんだろ?じゃあ、刺身、カラシで食ってくか?」
「カラシですか?」
「この辺はね、魚の種類によってはわさびじゃなくてカラシで食べるの」
「そんなに辛くないから、結構載せちゃっていい。そう。ニンニクも乗せて。そうそう」

なるほど、わさびよりもキレの良い、ほどよい辛味のアクセントが、脂の乗ったカツオにちょうどいい。
気がつけば、また津に来た時は必ず寄りたい店になっていた。
こんどは臆せずに入れるに違いない。
次に来ることがあれば、今度は自分の好きなお酒を買ってから入ろう。
今回お店の名前を書かなかったのは、開けにくいドアを開けた僕の勇気に免じて、ちょっとだけ、許してほしい。
扉の先には
何があるかわからないけど
誰かがきっと貴方を待ってる
目の前の今日へ
踏み出す勇気も無いけど
振り返ってみれば
足跡は続いているから「Dear」(Mrs. GREEN APPLE)
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音楽人の旅メシ日記

その街では、どんな食事が愛されて、どんな音楽が生まれたのか。
土地の味わいと、そこに息づく全てのものには、どこか似通ったメロディが流れている。
旅と食事を愛するミュージシャン事務員Gが、楽譜をなぞるように紐解きます。