
軽井沢……ホテル旅に目覚める前から、ここだけは特別な場所で、頭の中の地図帳にひそかに印をつけていた。行けば、日々の暮らしで知らず知らずのうちに溜まってしまった疲れが洗われていく。そんな気がして、かの地へと向かった。東京から新幹線で1時間20分。軽井沢駅に降り立ち感じたのは、空気がとてつもなくおいしいということ。「さわやか」とも「すずやか」とも違う。とにかく「おいしい」のだ。モータリゼーションの発達でさびれゆく宿場町を訪れたとき、避暑地としての可能性を見出したといわれる宣教師アレクサンダー・ショー。彼がこの地を「屋根のない病院のようだ」と称したというのもうなずける。澄んだ空気が五臓六腑に染みわたる心地よさは、なるほどどんな薬よりも効く。

目指すは軽井沢の象徴ともいうべき万平ホテル。タクシーが旧軽井沢の白樺木立を抜けていく。車窓の緑は深さを増し、木漏れ日がゆらめく。常盤色のトンネルの向こうに茜色の三角屋根が見えてきた。ハーフティンバー様式のこの建物はしばしばスイスの山小屋にたとえられるが、実は信州・佐久地方の養蚕農家をモデルにしたそうだ。タクシーがポーチ脇へと静かにすべりこむ。午後3時。三角屋根の影が石畳に斜めにさしこむ時間だ。ベルボーイが軽やかに近づいてきて、荷物を受け取ってくれた。深い庇の下には創業時から変わらぬ「MANPEI HOTEL」の木製プレートが。両開き扉では真鍮のレバーが光っている。脇にはまあるく赤いポスト。写真で見て憧れていた光景が今まさに自分のものとなる。



深紅のカーペットの先のフロントでチェックイン。ペンケースには軽井沢彫りの桜が施されている。木軸ペンの懐かしい質感にレセプションのサインの文字までのびやかに。「こちらです」。物腰の柔らかなホテルマンが宿泊棟、アルプス館へと案内してくれる。ちなみにこの「アルプス」は本場スイスではなく日本アルプスをイメージしたもの。階段をあがっていると、踊り場の深紅のカーペットに淡い影模様が。見上げると、木枠の中で二匹の亀が色ガラスの長い尾をきらめかせながら泳いでいる。でも、なぜ亀?「万平ホテルの前身が亀屋という旅館だったからなんですよ」 。ホテルマンが笑顔で教えてくれたのをしおに、さっきから気になっていたことをたずねてみた。「あの、きょう泊まる128号室ってもしかして……?」ホテルマンはふたたび笑顔でうなずく。「はい、ジョン・レノンご一家がひと夏を過ごされていたお部屋です」。「やったね」と心の中でガッツポーズ!

128号室のドアをあけると、ガラス障子で仕切られたベッドルームの先にリビングスペースが配されていた。これがジョン・レノンがひと夏を暮らしていた部屋か。ほどよい広さと木のぬくもりが温かくて懐かしい。「それではよい一日をお過ごしください」。ホテルマンが立ち去ると、テレビをつけYouTubeにログイン。「イマジン」を流して、深紅のソファーに寝転がる。ソファーは座るもの、寝るものにはあらず……わかっちゃいるが、抗えない心地よさ。ほどよい硬さのクッションが身体をまるごと包み込んでくれる。わずかに開いた窓から、清涼でおいしい風がすべりこむ。果実を想わせる天井灯の房飾りがかすかに揺れ、障子にはめこまれた擦りガラスがきらめく。つい今しがたこの部屋の住人になったばかりなのに、たゆたう光の中でまどろみが訪れる。あ~、このまま一歩も動きたくない。




朝がきた。ホテル旅の大きな楽しみのひとつである朝食はメインダイニングで。赤、白、緑の板をランダムに貼り合わせた組天井、壁一面に配されたステンドグラスを見ながら、奥のサンルームへと向かう。こちらは菫色の椅子に山吹色のテーブルクロスという軽やかな雰囲気。テーブルにはよく磨かれたカトラリーとともに高原の花々が繊細なタッチで描かれたメニュー表が。目の前に広がる中庭の緑は朝日に照らされ瑞々しく光っている。BGMは鳥のさえずり。そこに健やかな風が……。いや、窓はしまっているから無風なのだけど、たしかに風を感じるサンルーム。ほどなくして、アメリカンブレイクファーストが運ばれてくる。スズランの絵がついた皿のうえでは見目麗しいオムレツが。ナイフを入れるとこの黄金色の衣がいかに薄く繊細なのかがわかる。温野菜、ジューシーで肉厚なハム、信州野菜のサラダ、季節のジュース、フルーツ&ヨーグルト、三種のブレッドとオリジナルジャムにコーヒーがついていて、このうえなく満たされる。





食事のあともお愉しみは続く。朝の散策だ。その昔、宣教師たちがハッピーバレーと呼んだ幸福の谷へと向かう。朝の澄み切った光が照らし出す苔むした石垣と石畳。年輪を刻んできた木々が醸し出す空気はひときわ澄んでいる。ただ歩いているだけなのに、幸せ。天然のデザートよろしくおいしい空気を吸って、身体のすみずみまで満たされてゆく。さてと……。木漏れ日の向こうに三角屋根のわがホテルが見えてきた。時計を見ればチェックアウトまでわずか30分しか残っていない。それでも笑顔で「ただいま」と言わずにはいられない。これぞ万平ホテルマジック!
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暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。