
Dear Hirarisa,
手紙をありがとう。深夜の東京を自転車で疾走しているひらりさの姿を想像して、心に刺さった。夜の街を彷徨う感覚は独特だね。建物や家のなかにはたくさんの人がいるのに完全に一人でいるように感じる。夜の街は静かで、頭がスッキリするね。
ひらりさが占いに行ったエピソードを読んで、私が数年前に友人の誘いでロンドンの星の占い師を訪れた時のこと思い出した。とんでもないアドバイスをもらった。なんと私のホロスコープからすると、白い食べ物を食べてはいけない、と。白いごはんじゃなくて、サフランライス、リゾット、ソースのかかったライス――色とりどりの米料理を次々と提案された――などの方が私の運勢を上げるんだって。それと、私は前世で女性たちに意地悪をしたので、絶対に女性向けのチャリティに寄付した方がいい、とも。「実は私、女性のチャリティをやっていて、20ポンドいただけませんか?」と占い師に言われるのを待っていたけど、そんなことは言われなかった(笑)。
私たちが恋愛についての連載で占いを語るのは自然なことなのかもしれない。なぜなら「運命」は恋愛話において常に重要な登場人物であり、舞台の袖で待機していたり、登場人物たちの頭上で糸を引いていたりする、目に見えない黒幕だから。最も有名な恋愛話を考えてみて。『ロミオとジュリエット』では、観客は冒頭から、この恋人たちが悲劇的な運命にあることを告げられる:「星に呪われ」「死の烙印を押された」と。
ディズニープリンセスの物語や女性誌の恋愛記事では、今でもその運命論的な考え方が美化されて語られているが、実はその魔法は溶けてしまった。私たちはジュリエットではない。家族の出自のために恋人との結婚を禁じられているわけではないし、強制的に人生を支配されているわけでもない。運命の代わりに、私たちは「選択」を手に入れた。フェミニズムの核心を貫く最も神聖な言葉。選択の自由があってこそ、真の自由と平等が手に入る。
しかし、選択の自由を手に入れた代償は大きい。無数の選択肢に圧倒されてしまうのだ。このヨーグルトでいいのか、どんな仕事を選ぶべきか。そして何より、私たちの選択がアイデンティティを決めるという重圧がある。このヨーグルトを選んだら私について何を物語るのか?この会社で働いたら私はどんな人間に見えるのか??
一方で、選択肢の豊富さはとても楽しいものでもある。人生がお菓子屋さんに入って好きなものを好きなだけ食べられるような感覚になることもよくある。そうすると、ひらりさと同じように、手を広げすぎることになる。
最近、グーグルカレンダーから「ミーティングが多いですね」という趣旨の通知が来た。確かにカレンダーは様々な色のブロックでモザイクのように塗り分けられた芸術作品になっているけど、カレンダーのイベントがすべてミーティングというわけでもない。ピラティス、読書会、友人との映画鑑賞、原稿書き……全部楽しいから何も諦めたくない! 占い師に言われたとおりにしかしていない。単調な白ごはんスケジュールではなく、カラフルで多様な予定で運勢をアップ。疲弊しても、キャパオーバーになっても、それは自分の責任だ。
最近、似たような殺人的スケジュールをこなしている友人とお茶をした時、「どうやって全部やりこなしているの?」と聞いてみた。
彼女は、たった半年で犬を飼い、仕事を変え、家も引っ越した。自分の意欲で。
彼女はウォルト・ホイットマンの詩「私自身の歌」を引用して答えた。
「私は無数の自分を抱えている」(I contain multitudes)
ホイットマンの詩は、一人の人間の中に存在する複雑さと矛盾を讃美していると解釈していつも読んでいた。でも友人の使い方は、その複雑さが外の世界での過剰な活動になって表れると言っているように聞こえた。内なる豊かさと、外での忙しさは全く別物なのに。
私の問題は、「無数の自分」が私の内部に留まっているだけではなく、多くの国境を越えていることだ。15年近く母国の外で暮らしているので、ありとあらゆる国に親友ができている。パリ、イスタンブール、ベルリン、東京、ヘルシンキ、香港。7月末からの6週間で、私は5つの異なる国へ4つの異なる旅行に行った:フィンランド、日本、オランダ、米国、そしてドイツ。ひらりさに手紙を書くたびに違う場所にいるような気がする(今はベルリンにいる)。
ベルリンなんて、30歳になるまで訪れたことがなかった街だ。それでも、今朝ベルリン空港への早朝のタクシーで、UberドライバーのiPhoneから流れるメランコリックなピアノ音楽を聞きながら、ベルリンに記憶に刻まれた場所がたくさんあったことを思い出し、驚いた。
朝6時になっても帰りたがらない友達を無理やり引きずり出したクラブの入口。出張中の6月の晴れた朝に走って渡った橋。裸のダンサーたちの熱で溶けかけているビーガンチーズの山があった、アルコールが飛び交うスタートアップパーティーに行ったビル。LinkedInで知り合った男性から朝6時に出たあの同じクラブへの誘いを断った、ベルリンのテレビ塔が見える橋。
他人の目には、散らばった、断片化された人生の一部に見えるかもしれない。それは真実に近いのかもしれないが、でも私が出張、勉強、仕事、遊び、冒険で足を運んだ無数の場所で経験したことが、私のアイデンティティの 様々な側面を発見させてくれた。イギリスでは自立心旺盛で皮肉屋な私が、日本ではかわいいものとツイッターを愛する私が、ベルリンでは仕事をサボってでもパーティーに繰り出したい私が、次々と掘り起こされている。ひらりさが聞いてくれた「一番譲れないこと」——それは異なる文化との関わりや自分とは違う人との出会いを通じて、常に新しい自分を発見し続けることだ。
そんな散らばった人生を歩んできた私が恋愛で直面する問題は、パートナーとの共有の難しさだった。
私の場合、私はいつもこの国際的なコミュニティを、交際相手とも共有したいと思ってきた。付き合っている時、自分の大切な部分を相手と共有したいと思うでしょう?しかし、日本人男性と付き合っていた時、これは非常に難しかった。なぜかというと、今まで付き合ってきた日本人のほとんどは、英語がそんなに上手じゃなかったからだ。言語の違いという見えない壁に遮られて、自分の本質的な部分を相手に見せられずにいることが、ずっと心の重荷だった。
ビジネススクール時代のパーティーでは、この疎外感を覚えずにはいられなかった。私のクラスには150の異なる国出身の人がいたのに、同級生も、同級生のパートナーのほとんども、英語を流暢に話していた。このような国際的なサークルに努力なしに溶け込める言語的特権を持つカップルが羨ましかった。 彼らは何の苦労もなくすっとどんなシチュエーションでも溶け込めた。パートナーがその場に馴染めるかどうかなんて心配する必要もなく。
もちろん、英語を美しく操る日本人がたくさんいることは否定しない。私のクラスにも何人もいた!
今となって、英語がネイティブな人と付き合いたいという願いが叶ったけれど、それには別の複雑さが伴う。私の今のパートナーはビジネススクールのパーティーでは居心地よく過ごせるだろうけど、英語以外の言語が話せないので、日本の親しい友人の多くとは会話ができない。また、彼は英語モードの私しか知らない。これは残念なことで、私は異なる言語を話す時に少し異なる人格を持っているから。そうすると、多面体のような私の別の顔が陰に隠れてしまう。
例えば、ある言語で体験したエピソードを別の言語で思い出すのはとても難しい。日本に引っ越した時、記憶は母国語に結びついていた声とともにあり、自分の過去のことが思い出せなくなった。昔の面白い話をしようとしても、言葉と一緒にエピソードが頭から滑り落ちてしまう。まるで記憶喪失になったようだった。
最近、二つの文化に生きる人々は同時に複数の人を愛することがよくあると誰かに言われて、心の底から理解できた。パートナーと共有できない人生の一部があるときの物足りない気持ちと、自分のアイデンティティのすべてを認識してもらっていない不安を、私は身をもってわかっている。
異なる文化で恋をする時、私は微妙に異なるバージョンの自分になる。日本語で恋をしていた私と、英語で恋をしている今の私は、同じ人間でありながら、どこか違う人格を持っている。英語の方の自分はもっとシニカルで、よくブラックジョークを言う。だから、複数の文化を生きる人が同時に複数の人を愛するというのは、実は一人の中にいる複数の自分が、それぞれ違う相手を求めているということなのかもしれない。しかし、自分のアイデンティティと完全に重なる「無数の自分」を持つパートナーや友人は決して持てないことにようやく気づいてきている。頭では分かっていたけれど、本当に腑に落ちるまでには長い時間がかかった。
その理解をもたらしてくれたのは、実は今のパートナーだった。彼は私の日本での体験についてよく質問してくれるし、日本語を教えて欲しいと言ってくれる。新しい言葉を覚えてもらうと本当に嬉しい。今ではいくつかの単語や表現が言える。「まじ」「気をつけて」「おじさん」「禁止」「ダメ」学校では絶対に出ない単語リストだけど実用的かも(笑)。
先月、日本で彼とFaceTimeをしていた時、隣にいた日本人の友達を紹介した。彼が話の最後に「気をつけて」と言ってくれた。友人は驚いて口に手を当てた。彼の発音は、電話の少し悪い音質でも、メッセージがはっきりと伝わるほど上手だった。優秀な生徒を持った教師のような誇らしさで微笑んだ。
その瞬間、私にとって大切な二人が何千マイルも離れた場所からつながっていた。二人を結んでいたのは、共通の言葉ではなく、私という存在。
その瞬間が、パートナーがパーティーに馴染むかどうか、私の外国人の友人と長い会話ができるかどうかを心配すべきではないということに気づかせてくれた。 私を大切にしてくれている人たちは、私のパートナーが日本語を話せようが話せなかろうが、気にしない。それより、私が幸せかどうかの方がずっと大事なのだから。
私たちが同じ過去の経験を共有することは不可能だ。なぜなら私たちは同じ人間ではないから。単純なことだ。でも私たちは価値観を共有することはできる。お互いの異なる部分に好奇心を持つというような価値観を。
誰でも無意識のうちに、友人、恋人、家族、同僚に対して理想や期待を抱えている。相手がその期待に応えてくれない時、相手を遠ざけてしまう。時には、特に恋愛の場合、「運命」を言い訳に使うことさえある。本当は単に、自分が描いた理想像に相手が当てはまらないだけなのに。人間は完璧ではないので、こうした思い込みがあっても仕方ない。大事なのは、自分の偏見で相手を無駄に傷つけないように気をつけることだ。
ひらりさは、最近、恋愛や人生の何かについて、手放した期待や理想はある? 今月のスケジュールはどう? 体に気をつけてね。
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往復書簡 恋愛と未熟

まだ恋愛にじたばたしてる――? 30代半ば、独身。ロンドンと東京で考える、この時代に誰かと関係を紡ぐということ。
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