
本連載の鈴木綾さんとひらりささんによる読書会アーカイブを発売中です。詳細は記事一番下をご覧ください。
親愛なるひらりさへ、
ひらりさの家、居心地良い本の巣のような場所を出た後、私は金沢へと向かった。15年以上の付き合いになる古い友人に会うために。私たちは年に一度、つまり私の毎年の日本巡礼の時に会い、マイナーな博物館・美術館を巡り、私たちをふだん夢中にするスマホの存在を忘れさせてくれるディープな居酒屋で飲む。
今回は小さな飲み屋でたっぷりと飲み食いした。飲み物を置く場所もろくにないほど狭く、大将は近所の酒屋に3、4回電話して、売り切れたビールや日本酒を配達してもらっていた。その夜のオープンからいたお客さんと深夜の騒がしいお客さんの入れ替えがはじまった時、私はそろそろ帰ろうと思った。翌日は仕事があったし、朝は頭をすっきりさせておきたかった。お酒がまだ足りないという友人に一万円札を渡し、「気をつけて」と言って帰った。

瞑想的な気分だったのでタクシーに乗らずに30分かけてホテルまで歩いて帰ることにした。携帯の電源は切れていたので私の思いを邪魔する要素はなかった。街に人影もなく、闇は湿気を帯びて濡れたスポンジのようだった。
兼六園を通り過ぎる時、街灯の下の道路に何かが落ちているのが見えた。近づくと、それは大きなカニだった。動いていなかったが、口と思われる部分から白い泡が噴き出ていた。死んでいるかな? 靴でつついてみると、足がぴくぴく動いた。遠くから流されてきたのかな。その日の朝に確かに激しい雨が降った。
捕まえて川まで連れて行こうかと一瞬思ったが、カバンは小さすぎるし、立派なハサミを持っている動物を手で触りたくなかった。でも、少しは隣にいることにした。私がその場からいなくなったらきっとその立派な生き物は終わりに向かうだろうと思ったから。カニを眺めながら、私たちってホームから遠く離れているところにいるんだなーとぼんやり考えた。死の淵にいるカニと私を、種を超えて共通点として見つけられる唯一のことだった。その瞬間に。
その後、私たちの道は分かれた。私は歩き出した。悲しいけど、前に進まないといけないから。
ひらりさは私の「カオス」について聞いてくれたね。携帯が使えずに酔っ払って夜の金沢を彷徨うことをカオスだと評価する人もいるだろうけど、私が生きてきたカオスの中では軽い方が。最近悩んでいるのはカオスではなくて、迷いだ。カオスはどちらかというと、エントロピーでコントロールを失った状態だけど、今回はコントロールを失っているというより、立ち止まっている気がする。海から遠く離れた街灯の下のカニのように。
去年、ずっと夢だった小説を書くために仕事を辞め、と同時に生活費を稼ぐために金融系の会社とコンサル契約を結んだ。5月に本を書き終え、原稿をエージェントに送った。これまでのところはNOばかりだ。「綾は子供欲しい?」と聞かれるとき、いつも自分の本が「赤ちゃん」のようなものだと言っている。しかし、周りの女性友達が子供を次々と産んでいる一方で、私の赤ちゃんは私のグーグルドックスという子宮に眠ったまま。
本来の計画は、小説を書き終えた後、再び正社員に戻ることだった。5月から多くの仕事に応募し、全部断られている。ある場合は、1100人の応募者の中から最終段階まで残った5人のうちの一人だったが、それでも断られた。
私は拒否されても落ち込まないし、諦めない。それは人生の一部だと思っているから。拒否は才能とかそういうものが足りないことの表れではなく、しばしばアンテナを間違った方向、自分の価値観を認めてくれない方向に向けていることの表れなのだ。特にある程度キャリアを積んできた人たちの場合。拒否は失敗ではなくて、「不一致」――misalignment――と見ればいい。
私が苛立ちを感じるのは拒否ではなくて、次に何をすべきかわからないことだ。方向がわからないと、単なる偶然の出来事の連続に過ぎないこの人生を、自分ではコントロールできないと感じ、無力感で嫌になる。 前に進みたい。カニは振り返って海へと帰ればいい。でも私が元へ戻ろうとしても過去のホームはない。前に進んで自分で新しいホームを作る道しかない。
次のキャリアステップを決めないといけないと焦りを感じる理由がもう一つある。今、私にはパートナーがいる。彼については、ここでは詳しく書かないが、いつかひらりさに紹介したいね。
仕事とキャリアは、私がパートナーとつながる重要な方法だ。相手に自分の仕事に興味を持ってもらいたいし、キャリアについてパートナーからのアドバイスも求める。エッセイを書いたら、これどう思う? プレゼンをしたらこのスライドの組み合わせどう思う? 勤めている投資ファンドがこんな会社に投資したけどどう思う? 専門分野が違っても意見を聞きたい。仕事の話は二人の絆をより強くするファクターであると同時に、私は自分の仕事を持つことで、パートナーと別の、独立したアイデンティティを形成する。
自分の価値を仕事と一緒にするのは資本主義の影響じゃないか、と突っ込まれるだろうか。実際そうかもしれない。あるいは、私より前の世代の女性たちの多くが手に入れられなかった独立性にしがみつこうとしているのかもしれない。どっちの解釈も正しいかもしれない。しかし、私はこの場合、その道徳的側面についてはそれほど気にしていない。
この間日本で話したとき、ひらりさは前付き合っていた彼に自分の仕事の話をしなかったし、パートナーは自分の仕事に興味を持たない方がいい、と言っていたね。今この手紙を書きながら思ったのは、仕事の話をするにしろしないにしろ求めているものは一緒かもしれない。私たちは恋人・パートナーとは別の、自分だけの領域を持ちたいのだ。
私の年齢のこともあって、今回パートナーができたことで、結婚についてめっちゃくちゃ聞かれるようになった。世界で最も嫌いな質問の一つ。友人の一人はすでに、結婚指輪を選ぶときはこのお店に連れて行くよ、綾ならきっとビンテージのダイヤモンドが好きだと思う、と私の将来を勝手に描いている。その話を優しくスルーしているが、何年も私のことを知っている彼女が、私はそういう結婚式チヤホヤにアレルギーがあると分かっていないのは不思議。せっかく素敵な人と出会えたのに、その幸せを味わう間もなく、みんなはその先を急かす。
この件でイライラしていたので、日本への飛行機の中でアメリカ人のジャーナリスト・エッセイストのジア・トレンティーノの「I Thee Dread」というエッセイを読み返した。タイトルは、英語圏のキリスト教儀式で使われている誓いの言葉「I thee wed」(あなたと結婚します)の駄洒落で「 I Thee Dread」(あなたを怖がっています)。
このエッセイが含まれるエッセイ集「Trick Mirror」は2019年に出たとき、私の友人たちの中で大きな反響を呼んだ。彼女が言っていることの全てに同意できないが、信念を込めた議論の仕方と、実践的なアプローチが好き。
前述のエッセイで、トレンティーノは多くの結婚式に出席し楽しんだにもかかわらず、結婚式へ嫌悪感を明かす。彼女は、異性愛の女性たちが結婚式、つまり自分がプリンセスに変身し、注目の中心となり、賞賛を浴びるおとぎ話のような儀式という包装紙に包まれていなかったら、結婚にそれほど興味を持たないだろうと言う。「『伝統的な』結婚式 ――つまり伝統的な異性愛の結婚式は、我々が持つ男女間の公式な結びつきにおける性別不平等の最も重要な再確認の一つであり続けている」と彼女は主張する。
私も結婚式と結婚 ―― それらは確かに別のものだが―― について同じように疑問に思っている。結婚式については、そのイベントが何を祝うのかということに主に疑問を持つ。私は人生で多くの大きな節目を迎えてきたのに、社会は結婚を祝うことに価値を置くね。大きな誕生日や達成はどうなのか。あるいは単に生き延びたという達成は。
未婚の友人がいるけど、彼女は友人たちみんなを集めたいという理由で40歳の時に豪華な誕生日パーティを開いた。誕生日だけだと、人々はお祝いをそれほど真剣に扱わないだろうと分かっていたので、招待する時に「これは私の結婚式だと思ってください。ぜひ来てください」と説明していたらしい。それでも来なかった人は結構いた、と彼女は言った。
結婚については、完全に反対しているわけではないが、上の世代の人々の失敗を見ると、その制度にあまり信頼を置いていない。結婚はパートナーシップの社会的承認の一形態だが、私の考えでは、パートナーシップに深く意味があり、献身的なものであるために社会からの承認は必要ない。むしろ、相手との絆は毎日、静かに、人の目が見えないところで、華々しさを伴わずに、確認し合うものだと思う。
しかし、トレンティーノが指摘するように、結婚にはより良い未来があるかもしれない ――今や多くの国で同性間の結婚が合法になっている。「結婚はあらゆる面でより平等になりつつある」と彼女は書く。
最近、ゲイカップルの結婚15周年記念に出席した。おしゃれなドレスコードに合わせてキラキラの衣装を着た人たちの中で踊りながら、そしてvery very異性愛者である彼氏に「ballroom culture」は70年代前半にニューヨークのLGBTQ+のコミュニティーの間に生まれた、差別から解放された場所でのダンスイベントであることを説明をしながら 、それは単なる立派なパーティではなかったことに気づいた。その日はそのカップルの愛以上のことを祝っていた。過去には公然と祝うことができなかった愛、自分の居場所を見つける幸せ、自己受容を覚える幸せ、そんなものの祝いでもあった。だから希望を持っていいかもしれない。結婚が「一つの形」でなくなると、世の中は豊かになる。
多くの人々はただ伝統と固定概念に流されて、「これでいいのか」と考えない。しかし、一番大切なのは自分らしさと自分の価値観に従って行動することだと思う。最終的に何を選ぶにしても。面白いことに、トレンティーノは結婚している。健康保険の問題で(アメリカでよくある問題)、法的にパートナーシップを結ばざるを得なかった。個人的な見解がどうであれ、残酷な現実が介入することがあるね。彼女はピンク色のワンピースを着て、とても小さな結婚式をあげた。自分らしく祝ったという。
今の「迷い」の時期に、そのことを忘れないようにしている。最終的な決断だけに集中するのではなく、次のステップを決める時に指針となる価値観が何なのかを見つけることに焦点を当てようと思っている。キャリアについては、キャリアコーチと一緒に、私の最重要な価値観のフレームワークを作り、その基準で仕事の機会をランク付けした。
でも、パートナーがいると、自分のフレームワークだけで物事を選ぶことはできない。相手のことも考慮に入れなければならないし、そのために、妥協するか、少なくとも話し合いをしなければならない。それは私を不安にさせるが、同時に人生にこの新しい人がいることにワクワクもする。カニは海に帰る道を一人で見つけなければならなかったが、私の場合は違う。新しいホームへの道は、今度は二人で作っていくものになる。
ひらりさは執筆のキャリアと正社員の仕事を両立しながら、バレエやピラティスに通い、たくさんの興味を持っている。その好奇心を満たす行動力もある。そんなひらりさから見て、妥協ってどういうものだと思う?
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往復書簡 恋愛と未熟

まだ恋愛にじたばたしてる――? 30代半ば、独身。ロンドンと東京で考える、この時代に誰かと関係を紡ぐということ。
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