1. Home
  2. 生き方
  3. 往復書簡 恋愛と未熟
  4. 「未熟な恋が好き」その混沌とエネルギーが...

往復書簡 恋愛と未熟

2025.08.08 公開 ポスト

「未熟な恋が好き」その混沌とエネルギーが“今の自分”を作っているひらりさ(文筆家)

8月2日に開催された、本連載の鈴木綾さんとひらりささんによる読書会のアーカイブ動画が発売中です。詳細は記事一番下をご覧ください。

Dear 綾

美容クリニックから帰ってきた。今週末にある綾との「美容」読書会イベントに備えて、久しぶりに自分磨きをしようと思い立ったのだ。水流で毛穴を吸引して汚れを落とす「ハイドラフェイシャル」と、マイクロニードルと高周波電流を用いて肌のターンオーバーを促す「VIVACE」を受けた。VIVACEは針を刺すので強烈に痛い。麻酔クリームの効果が解けて、肌の表面にぱちぱち弾けるような刺激がある。顔面をサイダーに浸したようだ。

 

先日、36歳になった。今日、美容クリニックのマシンで計測してもらった肌年齢も36歳だった。年相応(笑)。綾、メッセージをくれてありがとう! 当日は自分で企画した「誕生日スナックイベント」をワンオペで回すのに必死で、返信が遅れてごめんね。とってもとってもうれしかった。

スナックイベントでは「7月25日の残骸」という特典ペーパーを作って配った。7年前からちまちま書いていた日記のうち、誕生日当日の内容だけを抜粋してきて、振り返るというものだ。だいたいはそのとき好きだった人間からバースデーメッセージがきたかどうかを記録し、一喜一憂していた。そんなことを気にせずに過ごした誕生日は今年がひさしぶりだったんじゃないかな。ちょっとずつだけど、進歩はしている。成熟はしてないけど。

綾の前回の手紙、英語の“relationship”と、日本語の「恋愛」という言葉のずれの話を通じて、綾自身のrelationshipと、恋愛についての考え方が見えて、とてもよかった。「花様年華」、私も大好きな映画だよ! 食べ物の湯気や、外気の蒸れが感じられるような湿度の高い映画で、東アジアでしか作れない手触りだよね。ロンドン滞在中、綾の職場で、綾の家から持って行った生野菜を一緒に食べたじゃない? あのとき「日本では夏場に生野菜をそのまま持ってくと傷んじゃう気がしてやらないなあ。こういう食生活の違いが創作物の違いにもあらわれてるのかも」なんて考えてた! 

さて、「花様年華」をめぐる綾の言葉と、綾自身のrelationshipの話を読んで、私と綾のあらたな違いに気づいた。綾は「恋」よりも「愛」について考え、「未熟」よりも「成熟」について考えている。だから私に「成熟した愛の定義」を問う。
でもそれを問われて、私は気づいた。私は「愛」よりも「恋」について考えているし、「成熟」ではなく「未熟」そのものを切実なテーマとしているということだ。

私も映画の話をしよう。ウォン・カーウァイも大好きだけれど、私の知っている「恋愛」をよく描いてくれているのは、エドワード・ヤンだと思う。彼は、愛になれなかった恋を、成熟し損ねた未熟を撮る。実は誕生日に実施したスナックの名前を「A Brighter Summer Day」としていたのも、彼の傑作にして出世作「牯嶺街少年殺人事件」の英題《A Brighter Summer Day》からとったのだ。めんどくさいオタクでしょう(笑)。

今回話したいのは、「カップルズ」という作品。4月にデジタルリマスター版が上映されていて、新宿の映画館で見たのだけど、すっかり圧倒されて言葉をうしなって、そのあとは新宿御苑で呆然とした。

90年代半ば、経済成長期の台北でギャング団として活動する4人の青年、レッドフィッシュ、ホンコン、トゥースペイスト、ルンルンが主人公。詐欺まがいの方法でお金を稼いだり、一人がひっかけてきた女の子を「共有」したり……。無鉄砲な生活を送る彼らが、イギリス人の恋人を追って身一つ台北にやってきたフランス人少女・マルトとの出会いをきっかけに、取り返しのつかない流れに巻き込まれていく群像劇だ。「花様年華」に出てくるのは大人ばかりだが、こちらに出てくるのは所在なげな子供ばかり。リーダー格のレッドフィッシュは、悪徳実業家である父親を憎んでいるようで、父が不倫相手と心中すると激しいアイデンティティ崩壊にさいなまれる。女をとっかえひっかえコマして「共有」を主導していた色男・ホンコンは、自分より何枚も上手な中年女性アンジェラに彼女の友人たちと「共有」されそうになった途端、嘔吐する。

「カップルズ」の英題は《Mahjong》。つまり、麻雀のことだ。作中、ルンルンの実家で下宿者たちとルンルンの父親が麻雀するシーンが出てくる。でも、ギャング団の4人が麻雀をすることはない。彼らはまだ子供同士だから、自分たちのコミュニケーションを盤上に仮託できない。というか、コミュニケーション自体が、ゲームをできるほど成立していない。台北という街で「遊んで」いるようで、彼らはどんどん、自分達の遊びに絡めとられていく。金や異性や名声を手に入れようとして、本当に欲しいものがそれではなかったことに気づく。絶望して暴走して手遅れになったりもする。こうやって書くと、救いがないね!(笑) でもまさに「恋う」という感情、人間の未熟さが生むドラマのいとしさを描いた映画だ。ちなみにデジタルリマスター上映時のキャッチコピーは「それでも、愛は存在できる?」。この作品全体の、欲望が定められずにゆらいでいる感じ を見事にあらわしていて、良いキャッチコピーだと思った。

こんなに熱く語ったのにはもうひとつ、理由がある。ギャング団の新入りでありマルトに恋するルンルンの横顔にどうしても惹かれた。正面から見ると大して似てないのだが、横顔になった途端、付き合ってきた人たちによく似る。通った鼻筋と喉仏。世界に対する不安と期待がないまぜの表情。勝手に具合が悪くなった。たぶん私のなかで、別れた人たちが迷える青年の結晶体みたいになっていて、そういうキャラクターについつい重ねているところがある。それは、成就し損ねて消えた恋の結晶体でもある。「カップルズ」を見た日、私はiPhoneのホーム画面を、ルンルンとマルトの写真に変えた。終盤、マルトを救おうと頑張るルンルンはマルトを危ない目に合わせ、一旦愛想を尽かされる。でも、マルトは、ルンルンのもとに戻ってくる。SNSの存在しない時代の二人が、台北の街をめちゃくちゃに走って、奇跡的に鉢合わせる場面が、この映画のクライマックスだ。

私は、未熟な恋がもたらす運動が好きだ。混沌が好きだ。恋に駆動させられて、現在の私がいる。 みっともなくて失敗して、でもやっぱり恋が好き 。己のあまりの愚かさに吐きそうになることもあるけれど、己の愚かさと正面から向き合うために、そんな恋をしているようなところがある。だって、日常生活じゃ、そこまでみっともないことできないでしょ? 私たち、もうboyでもgirlでもないから。

そう考えると私の恋は、「成熟した愛」に達したことはないのだと思う。相手の気持ちがわかったことなんて一度もない。恋破れて、原因や結果を咀嚼して、己の未熟さを飲み込んでいる時に多少成長はしているのかもしれない。でも新しい恋を始めたら、それはいつもリセットされている。そうそう。私は「好き」って言うけど、「愛してる」って言わない。私にとって異性愛の対象者に感じる気持ちは「愛する」よりも「好き」や「いとしい」なのだ。

ただ。同性との友情関係に関しては「愛してる」としか言うほかない気持ちだって思ってる。この10年でずいぶんと成熟できた領域でもある。線を引くこと、相手を尊重すること、大切にしているものが噛み合っていない時には去ること。そうして、二者間の密室に閉じこもらないように、ネットワークを作っておくこと。言葉を尽くすこと。時に早急な言葉を保留にすること。失敗はまだあるけれど、そういったことができるようになった。

綾は成熟した恋愛関係(relationship)について、「言葉と行動、これら全ての要素と愛の表現がともなう」と書いてくれた。私も、成熟した友情関係には、それらが伴っていると感じる。友情でそれを感じているからこそだろうか、セックスや身体的絆がそれほど重要だとは思わない。身体の快楽は、むしろ成熟や尊重から、人間を遠ざけることもあるんじゃないかな? そう思うのはたぶん、セックスが私にとって――というかある種の人間にとって――ロールプレイであって、真意のコミュニケーションではないからだ。

私にとってセックスは、普段の自分を忘れて「女性を演じる」「男性を演じる」ためのエンターテイメントだという認識が強い。私はセックスのとき、めちゃくちゃしゃべる。そのことによって「女」を演じる。すごく甘えるし、好き好き言うし、相手がどのようなことを求めているかもよく確認する。どうしてこうなったかは自分でわかっている。私が摂取してきた女性向けマンガ、ボーイズラブ、いわゆるハーレクイン的なコンテンツでは、とにかくセックスのときにめちゃくちゃしゃべるのである(笑)。30代になって、とある男性とセックスしたら「なんでそんなしゃべるの?」と言われて、衝撃を受けたことがある。セックスって、そんなしゃべらないんだ!?と思った。つまり私は脱ぎ捨てるためにセックスをしているのではなく、むしろキャラクターを着るためにセックスをしている、ということにも気づいた。だからこそ、自分はセックスが成熟や相手の内面の理解に結びつくものだとはあまり考えていない。あくまで性嗜好・性指向に関わるアクティビティだと思っている。自分自身はそうではないけれど、アセクシャルの人の「セックスを必要としない」指向にも共感できる。セックスでしか深められない関係はないという立場だ(もちろん綾の体験のようなことが起きるのもわかる!)。

“最近気になっているけれど、セックスがない「恋愛関係」または友人以上の「愛」って、自分にとってあり得ると思う?”

このように私にとって、「愛」は同性の友人たちに対して存在している。本当は友達のことをこそ「友達」と呼ばず、relationshipと呼びたい気持ちがある。ただ、うーん。「恋」ではないかもね。

以前の手紙で私が、「他人の魂とつながりを持つ経験は、女性とさんざんしているのに、なぜ私は男性とパートナーシップを結ぼうとするんだろう?」という問いを投げかけたのを覚えているのだろうか。よく考えたら、答えは明白だった。私の恋は、魂の繋がりとは逆をいく。自分の女性としてちやほやして欲しいという感情とも結びついているからだろう。セックスが介在しない愛情関係はあり得るけど、セックスが介在しない恋愛関係はやはりありえない気がする。でも友達にすごく的確に自分を評された時とか、そういう理解に基づいて思いやる言葉をかけてもらった時に、私は、心の底にある井戸の水を汲み上げてもらったような、清冽な興奮を覚える。友達とそういう会話をしている時の方が、恋や、身体接触より気持ちいいって思うことは多いよ。セックスって私の中ではやっぱり嗜好品で、アルコールみたいなものなんだよね。私、体をあまり重要視していないのかもしれない。体につられて出てくる言葉のことも。信用していない、ともいう。だから私は、男性を男性として見ている時に、信用したことはないかもしれないね。もちろん相手もそうだろう。私は、男性に男性として接するとき、「女性の着ぐるみを着た自分」だけを差し出すから。中身は見せない。それは相手を信用していないのだろうし、私が私自身の女性性と、距離を置いていたいからだろう。「クローゼット・ゲイ」という言葉があるけれど、私も自分の異性愛的人格とそれ以外をクローゼットの扉で隔てておきたい実感がある。どっちがクローゼットの中に当たるかは、シチュエーションによって変わる。

今月は、久しぶりにマッチングアプリで人に会った。楽しくしゃべり楽しく酒を飲んで楽しくなって、初対面にしてはかなり甘えてみたりもした。また恋愛しようと思えばできるんだ、って気がして良かった。でもなんか、もう疲れている自分もいた。表面にぱちぱち刺激をもらって満足するんじゃなくて、心の底から井戸の水を汲み上げるような、そういう関わり方が男性ともできたらいいと思うよ。でもそれには、セックスを介在させない方がいいと思った。

綾は言葉を尽くしに尽くした後のセックスで絆を感じたのだと思う。私には、まだまだ言葉が足りていないのだ。すれ違うというレベルに至るほど、言葉を交わしていない。始まっていない。あるいは表面上同じ言葉を喋っていることに惑わされて、全然違う論理でコミュニケーションしていたことに気づいてなかったのだと思う。『カップルズ』の青年たちもそうだった。

性的関心やセックスから関係を始めてしまうと、信頼が後回しになりやすいっていうのは、たぶん私だけじゃない。世の中に悩んでいる人は多いと思う。
前回、愛する人を傷つけたことがない、って言ったのはちょっと嘘だった。信頼を壊したこと、信頼をうまく築けなかったことはたくさんある。それはもしかしたら、綾の言葉では「傷つける」ということだったかもしれない。

男性を信頼することがうまくできないので、私は男性の信頼を破壊するような振る舞いをとって自己防御しているところがある。本人に不満を吐露できずSNSで書いて、結局それが回り回って本人に見られて破局に至るということが多い(未熟すぎる!)。でもそういうときに本当に100パーセント悪いと思っているかというとそうではなく、「でもあなただって同じくらい信頼できない人間だったじゃん」と反論できる免罪符を10枚くらい持っている。10枚くらい持てるような相手を恋愛対象に選ぶ。信頼できるような人間には恋をしない。恋は疑心にアディクトされた人狼ゲームのようなもので、信頼しているような人間をそんなゲームに差し出すことができないのだ。

マッチングアプリのアポから家に帰ってきて、朝起きた。着ていた服がベッド下にぐるぐるに脱ぎ捨てられ、ベッドシーツの上には、セブンイレブンで買って途中まで食べたらしい苺のミルフィーユパフェが転がって、赤いソースがシミを作っていた。Instagramのストーリーズを見ると、「早く誰だかわからない男との子供を身ごもって、レズビアンと育てたい!」と投稿していた。友人で、「出産はしたくないが子育てをしたいので、シングルマザーとパートナーになりたい」といつも言っているバリキャリのレズビアンがおり、彼女を想定した言葉だ。とはいえ、支離滅裂というか、自暴自棄すぎたので、こっそり消した。

やっぱり私は、私以外の全ての女を愛していて、男と、自分のことを愛したことがないのだと思う。それは、たぶん世間から見たら「未熟」なのだろうけれど、「成熟」して解決できるようなものではない気もする。セクシャリティが発達過程の問題ではないのと一緒だ。私は恋愛がうまくいかないごとに「もう女性と付き合いたい…」「異性愛やめたい」と言って友人たちの不興を買うのだが(まあそれはその通りなのだが)、自分にとって「自分を愛せるようになる」「男性を尊重できるようになる」というのは、セクシャリティを変えるくらいに困難に感じるのだ。私がいわゆる弱者男性やアンチフェミニストを憎みきれないのは、彼らのミソジニー(女性嫌悪)と私のミサンドリー(男性嫌悪)には合わせ鏡なところがあるからでもある。飲まれないようにはしたいけどね。

この、こびりついたミサンドリーと、その奥のミソジニー(自己嫌悪)を、どうしたらいいかといえば、まあ、払拭することは難しくて、これ以上悪化しないように手当をするしかないんだろうなあ。私は実は背骨が曲がっていて、側湾症というやつなのだけど、それも、根治は難しくて、毎日の運動や姿勢で改善を心がけるしかないらしい。全部破壊し尽くしてやる!みたいな内心を暴露したら我に帰って、コツコツやろうという思いが湧いてきた。この会心、人生で何度目か忘れたけど(笑)。
第一歩として、マッチングアプリを全部消した! やっぱり、マッチングアプリは言葉が足りなくなる傾向にある。カジュアルに人と繋がれてしまうから、PDCAが苦手な私のような人間はDDDDを連発してがんじがらめになる。春にダイエットを始めたのは「無駄なアクションをしない」ためだったのを忘れていた!ダイエットの目標を達成するまでは、恋愛的な身動きをとらないようにします……。

さて、未熟な私には考えるべきことが山積みです。それはそれで、残りの人生楽しみではあるね。恋愛において、すでに成熟の過程にある綾はどうだろう? 私はそんな綾の中にある揺らぎの部分や、カオスの部分を、もっと教えてほしいよ。

答えても、答えなくても。
読書会、楽しみにしてるよ! 今度は綾が我が家に泊まれるように、明日ゲストルームを片付けます。

*   *   *

読書会アーカイブ販売のお知らせ

8月2日(土)に開催された、美容と社会、そして私たち~ひらりさ×鈴木綾『美人までの階段1000段あってもう潰れそうだけどこのシートマスクを信じてる』読書会アーカイブ動画を販売中です。

読書会の内容は、レポート記事をご覧ください。

関連書籍

鈴木綾『ロンドンならすぐに恋人ができると思っていた』

フェミニズムの生まれた国でも 、若い女は便利屋扱いされるんだよ! 思い切り仕事ができる環境と、理解のあるパートナーは、どこで見つかるの? 孤高の街ロンドンをサバイブする30代独身女性のリアルライフ 日本が好きだった。東京で6年間働いた。だけど、モラハラ、セクハラ、息苦しくて限界に。そしてロンドンにたどり着いた――。 国も文化も越える女性の生きづらさをユーモアたっぷりに鋭く綴る。 鮮烈なデビュー作!

{ この記事をシェアする }

往復書簡 恋愛と未熟

まだ恋愛にじたばたしてる――? 30代半ば、独身。ロンドンと東京で考える、この時代に誰かと関係を紡ぐということ。

バックナンバー

ひらりさ 文筆家

平成元年、東京生まれ。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーとして活動するほか、女性の人生やフェミニズムにかかわるトレンド、コンテンツについてのレビュー、エッセイを執筆。単著に『沼で溺れてみたけれど』(講談社)、『それでも女をやっていく』(ワニブックス)など。

 

幻冬舎plusでできること

  • 日々更新する多彩な連載が読める!

    日々更新する
    多彩な連載が読める!

  • 専用アプリなしで電子書籍が読める!

    専用アプリなしで
    電子書籍が読める!

  • おトクなポイントが貯まる・使える!

    おトクなポイントが
    貯まる・使える!

  • 会員限定イベントに参加できる!

    会員限定イベントに
    参加できる!

  • プレゼント抽選に応募できる!

    プレゼント抽選に
    応募できる!

無料!
会員登録はこちらから
無料会員特典について詳しくはこちら
PAGETOP