
Chère Hirarisa,
私はイスタンブール出張から帰ってきたところ。洗濯は終わったけど、家全体の掃除にまだ着手できずにいる。かつてホテルの清掃のアルバイトをしていた身で、本来は綺麗好きな私には珍しいことだが、どうも次のキャリアステップを早く決めたいという焦燥感に駆られている。8月の読書会で日本に行く前に、キャリアコーチとのセッションを始めようと思う。一人で考えても解決できそうにない気がしてきた。
ひらりさの手紙は、いつも自分のことを正直に書いてくれるから嬉しい。ひらりさがヴァルネラビリティや疑問を躊躇なく示してくれているから私も自分の不安、悩みごとを打ち明けてもいいと思える。何千キロ離れていても、文字と文字の間に、私たちは貴重な受容の空間を築けているような気がする。
その空間をもう一段階広げたのは一緒にロンドンで過ごした時間。お互いの「日常」が見えて、お互いの趣味や関心ごとについて理解が広がった。文章を通じて分かち合うのもいいけど、面と向かって話す方が絆が一気に深まる。
ロンドンでの時間で思い出に残るのは、私のオフィスでひらりさに前屈をさせた時(笑)。私の手は床についたけど、ひらりさは小さい時から体が硬く、いくらバレエとピラティスのレッスンを重ねても前屈で手が床につかないと嘆いていたね。ひらりさは体が硬いかもしれないが、心は普通の人よりダントツに柔軟。新しい出会いや経験にオープンで、恐れずに言葉が通じない街を旅し、自分で楽しみや発見を手に入れる。私のオフィスまで自転車で通勤していたしね。私だってロンドンのチャリに挑戦する勇気なんてない(笑)。私たちの最大の共通点はピラティスへの熱心さではなく、この世界に対する開かれた好奇心ではないか、と思った。
こうした開放性はひらりさの手紙からもうかがえる。いつも自分の思想や知識を疑い、「これでいいのか?」「私はなんでこう思うのか?」と自問自答を繰り返している。確信に満ちて、自分が正しいと思い込み、自分の「真実」をソーシャルメディアという高台から一方的に叫んでいる人々が溢れているこの世の中では、ひらりさのような人は貴重。そんな自分をいつも大事にして!
ひらりさは前回の手紙で「同じ言語を使い、同じ概念について話していても、同じ意味を掴み損ねていることが、ここまでたくさんあったんじゃないか」と書いてくれた。言われてみれば、確かにそうかもしれない。「恋愛」のような普遍的に思えるものでさえ、バックグラウンドや文化の違いによって理解がずれている可能性が高い。母語でない言葉で書いている時は、それをより一層強く感じてしまうんだ。
例えば、「relationship」という単語がある。この往復書簡を書いて改めて感じるのは、この言葉が微妙に日本語では伝わらないことだ。私が日常生活で使っている英語では、「We're in a relationship」と言えば、「付き合っている」という意味が自然に通じる。ところが、これを直訳して「関係を持っている」と日本語で言うと、「肉体関係を持っている」という嫌らしい意味に聞こえてしまう。日本語では「友情関係」「恋愛関係」「師弟関係」など、関係性の種類を細かく分類する傾向があるが、英語の「relationship」にはそうした境界線がないわけ。そして私は、特に日本語でいう「恋愛関係」を話す時には、この曖昧さこそが貴重だと思っている。
なぜかというと、私にとって、あまりに具体的に定義することは、無限の可能性を持つ感情に境界線を引くこと、形を与えることだから。しかし、最も個人的で流動的な愛の感情に、果たして固定的な形をつけることができるのだろうか? 何か本質的なものを失ってしまうのではないか。それはまるで、薔薇の美しさを永遠に保とうとして、その薔薇を押し花にしてしまうようなもの。形は残るが、生命力は失われてしまう。
曖昧な言葉を使ったり、恋愛関係を表現するために頻繁に使われる言葉に付着した重い意味合いを覆したりすることで、人は社会の制約からの解放を追求する。近年では「partner」――ジェンダーニュートラルで、法的に認められているかどうかに関わらず、献身的な恋愛関係を示す言葉として主流になってきた。従来の表現、例えば「boyfriend」「wife」と決別して、自分の価値観や恋愛のビジョンに合う言葉を求めているのは私だけではないと思う。 だって、この歳になったらもうboyとgirlじゃないでしょ(笑)。
実際、歴史上、恋愛関係や男女関係を表す表現は変わってきた。具体例を挙げると、日本が世界へ扉を開いた明治時代に、西洋の「romantic love」の概念に直接対応する日本語はなかった。夏目漱石が英語の「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したなど、色々な逸話があるが、結局、「恋愛」という新語が作られたのだ。
言葉の意味が時間とともに変わるだけでなく、その上、私たち一人ひとりが言葉に対して独自の理解と連想を抱き、愛の「顔」を想像するときに異なる意識を持っている。
恋人との間でも言葉のすれ違いはある。日本で長く付き合った年上男性との間で、私はいつも「あなたを愛している」と言葉を重ねていた。「月が綺麗ですね」じゃないけれど、日本人は直截に自分の愛を言葉で表現しようとあまりしない。でも私は外国人だから、言葉にすることで自分の愛を確かめ、相手に伝えたいといつも思う。継続的で健全な恋愛の基盤は愛でなければいけない。その彼に「愛している」と言う時、それを伝えたかった。でも、もしかしたら日本人の彼には違う「愛」の理解があったのかもしれない。
これが、初めてウォン・カーウァイ監督の香港映画「花様年華」を見たときに感動した理由だと思う。それは香港の二人の隣人が、それぞれの配偶者が不倫関係にあることを発見し、パートナーたちの過ちを絶対に繰り返さないと誓いながら時間を過ごし始める物語だ。「同じ罪を犯さない」と約束した二人だが、二人の間に愛が芽生える。
ハリウッドは世界の映画界で最大の力を持つかもしれないが、「花様年華」がこれほど私の心を刺したのは、ハリウッドには決して作れない愛の物語だからなんだ。セックスシーンも、キスシーンさえもなく、ただ感情に満ちた視線と小さな仕草だけで、憧憬の微妙な感情を信じられないほど忠実に捉えている。初めて見た時は大学時代で、図書館から借りたDVDを自分のパソコンに挿入して小さな画面で見たけれど、それでも映像から溢れ出す二人の登場人物の間の感情に圧倒されてしまった。
登場人物の真の思考は一切明かされないが、観客は彼らの心の中で何が起こっているのかよく分かる。おそらく親密さと客観性の間のこのような湿った緊張感を実現できる唯一の芸術形式は映画だろう。この物語が小説として書かれることは想像できない。
映画の最終シーンで、トニー・レオンが演じる男性主人公は、アンコールワットの壁の穴に、自分の禁断の愛の秘密を囁く。穴に深く身を寄せ、まるでキスをするかのように。この瞬間、彼は初めてその恋愛関係を言語化するが、私たち観客にはその言葉が聞こえないように撮影されている。彼の告白は寺院の一部となり、人間の経験の見えない台帳の一部となり、もはや彼の物語ではなく、何か永遠なるものと融合していく。
「花様年華」を見てボロボロ涙を流す人は多いと思うが、私はこの話を決して「悲劇」だと思えない。むしろ、この映画は私に希望をたくさんくれた。この映画は言語化されていなかった、一つの記録も残っていない禁断の愛にも意味があると言っているからだ。二人きりの世界に存在した情熱と欲望は、社会や他人からの承認がなくても深い意味を持ってリアルだ。
そして、言葉が私たちを裏切るとしても、困難で苦しい時期に誤解を解き、愛を伝える行動の力を信じるべきだと教えてくれる映画だ。
例を挙げると、私は日本語で喧嘩することがいつも嫌だった。流暢に日本語が話せるにもかかわらず、感情が高ぶったときはいつも言葉が詰まった。イントネーション、語尾、言葉遣いを間違えて、日本人の恋人をさらに怒らせてしまった。仮説だけれど、多くの日本人は日本語を上手に話す外国人と接することに慣れていないため、日本語が上手い外国人でも「話しづらい」トピックがあるのを忘れてしまう。私は文学と経済について話せるけれど、日本語で喧嘩するのは別の能力がいる。
喧嘩をし、「愛している」が伝わらなくなったとき、彼が私への信頼を失ったとき、私は言葉ではなく、行動で自分の愛を伝えた。彼の手を取って、彼の目を見て、自分の存在で私の愛を表現した。私はここにいます。ここであなたを待っています、と。
このことに関連する、この往復書簡でまだ触れていない話題がある。セックス。もちろん、セックスは身体的な欲求や欲望を満たすことができるものだけれど、それ以上のものでもある。セックスは、どんな言葉よりも関係を深めることができ、恋愛を表現する最も重要な行為の一つなんだよね。私の経験では、セックスを通じて恋人の新たな側面が見えて、言葉にできなかった感情と執着を伝えることができた。
私が付き合った人の中に、とても内気で控えめな人がいた。彼のクールな外見の下には活気に満ちたロマンチックな人がいると信じていたが、何回かデートを重ねて感情的に寄り添っても、突き破れない壁が私たちの間にある気がした。これどうしよう、と悩んでいたとき、私たちはセックスをした。突然、まるで白黒ではなくテクニカラー(総天然色)でこの男性が見えるようになったわけ。顔はあまりタイプではない、とそれまで考えていたけれど、すごく色っぽく見えてきた。
彼がいいことを言っていた。「セックスには終わりがない」。ベッドから立ち上がり、服を着直しても終わらない。セックスは恋人の間で絶えず伝達される身体的な親密さであり、セックスによって生まれるこの親密さは、手に触れるような小さなことや憧れの視線によってさえ表現されるようになる。言葉がなくても二人の間にこの親密さというつながりが深まっていく。
この連載のタイトル『恋愛と未熟』に戻ると、私の経験では、成熟した恋愛関係――relationship――は、言葉と行動、これら全ての要素と愛の表現を持っている。言葉でうまくコミュニケーションを取り、思いやりや一緒に時間を過ごすことで互いを愛していることを示し合い、セックスを通じて強い身体的絆を作る。
成熟した愛の定義を私なりに考えてみたけれど、ひらりさはどう思う? そして、最近気になっているけれど、セックスがない「恋愛関係」または友人以上の「愛」って、自分にとってあり得ると思う?
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読書会のお知らせ
8月2日(土)16時より、美容と社会、そして私たち~ひらりさ×鈴木綾『美人までの階段1000段あってもう潰れそうだけどこのシートマスクを信じてる』読書会を開催します。今回は、綾さんも来日し、会場とオンラインの両方で行います。
詳細・お申込みについては、幻冬舎カルチャーのページをご覧ください。みなさまのご参加お待ちしています!
往復書簡 恋愛と未熟

まだ恋愛にじたばたしてる――? 30代半ば、独身。ロンドンと東京で考える、この時代に誰かと関係を紡ぐということ。