
迫りくる戦闘機、燃え上がる家々、耳をつんざく叫び声――あの日の記憶は消えない。
東京大空襲を体験した元NHKアナウンサー・鈴木健二が、太平洋戦争の混乱と喪失を赤裸々に語る。書籍『昭和からの遺言』より、一部を抜粋してお届けします。
突然の爆音とB29の影
グワンガガガグワーン。
突然体が押し潰されそうな轟音が鳴り響き、家中の障子や襖やガラス戸が一斉に激しくふるえ、父も母も私も防空頭巾の上から、あまりの恐ろしさに反射的に頭を抱えました。そして、次の瞬間私は玄関を開けて、外に飛び出しました。するとまたもや上の方から、
グワンガガガグワーン。
轟音が、まるで蓋をするかのように、覆いかぶさって来ました。
「あっ、B29だ」
私が思わず叫んだ時、巨大なB29の機体が、なぜかこうこうと光って、南の方から空いっぱいに、その翼をひろげて押し寄せて来ました。
「あ、操縦士!」
確かに私は赤い顔をして、私を見ながら、ニヤリと笑って突っ込んで来る操縦士の姿が見えた気がしたのです。「殺される!」と感じました。玄関の柱に背中をくっつけて立ちました。B29は見上げる空の全部にひろがる大きさで、北の方へ飛び去りました。
なんであんなに下から見上げたB29の巨大な機体は、ぴかぴか光っていたんだろうと、私はそーっと歩いて、家の横の狭い路地から東の方を見てびっくりしました。
火事なのです。すでに壁のように横に火が烈しく燃え広がって大火事になっていたのでした。あの火の明かりがB29の腹に当たって光っていたんだと、とっさに思い、同時に家の中に走り込みました。
「B29だった。逃げよう。もう二丁目の方は大火事だよっ」
父も母も水筒を肩に掛け、父はリュックサックを、母は大きな風呂敷に包んだものを背負っていました。母は心臓を少し病んでいました。外へは出たものの猛烈な風で、一人では立っていられず、父は母の右腕を、私は左腕を抱え、お互いを支えあってやっと立っていました。防火用に道の端に積んであったバケツが、ガランゴロンと道路を転がり、なぜか畳が空中を飛ばされて行くのが見えました。真夜中なのに薄明るいのです。
目の前に転がってきた焼夷弾
「どこへ逃げる? 被服廠?」
右へ行って交番の角を左に曲がると、2つ目には市電の線路があり、その向こうに震災記念堂が建っていました。昔は海軍の軍服を作っていた工場があったのですが、よそへ移り、原っぱになっていた土地に、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で大勢の人がここへ逃げこみ、無残にも大量に焼死し、その弔意として東京市が震災記念堂を建てたのです。父の伯母も犠牲者の一人でした。この界隈の人は皆ここを軍服工場の名残で「ひふくしょう」と呼んでいました。
「被服廠は駄目だ。震災で大勢死んだ」
「じゃあ、とにかく隅田川へ出よう。ヤッチャ場(青果市場)を通ろう」
ごうごうと風が鳴り、左へ行こうとする3人の背中を突き飛ばすように押しました。一歩を踏みしめるのに力が必要でした。家の前の道路を斜めに横切り、最初の角を曲ろうとした時、前後左右でカランコロン、カランコロンと音がし始めました。
見ると、50センチぐらいの長さで、幅が3センチ程の金属らしい棒でしたが、両端から火を吹き出していました。それがアスファルトの地面の上を、音をたてて弾むと、次にはころころと横になって転がって行くのでした。それが周囲に無数に落ちて来ていたのです。
「焼夷弾……かも」
と、父が言いました。直撃を受けたら即死ですし、火が衣服や防空頭巾に燃え移ったら、たちまち火だるまになってしまいそうでした。体が小刻みにがたがたふるえ始めました。抱いている腕を通して、母がひどくふるえているのも伝わってきました。
「大丈夫かい。あたしはどうでもいいよ」
母がか細い声をふるわせて言いました。もう右側の家々は燃え上がり、炎が天に達したかと思うようで、あたりは真昼さながらに明るくなりました。急いで父と交代し、私が母の右腕を、父が左腕を抱えました。まだ火がついていない左側の家並みいっぱいに寄って歩きました。走ろうにも風圧に押されて、体が思うように動かないのです。母の呼吸が荒くなってきました。
「ギャオーッ」
突然大きな聞いたこともない悲鳴を上げて、右側の火の中から、人が飛び出して来ました。火がついて、全身が燃え上がっていました。
私達は棒立ちになりました。男なのか女なのか、大人か子供か見分けがつかない、ただ人間であることだけがわかるその火の塊りは、ぼんぼんと音をたてて、その人を焼いていました。私達3人は唇をふるわせ、歯をがたがた鳴らし、膝をがくがくふるわせて、立ちすくんでその人を見つめました。
その人は倒れて、精一杯手足をふるわせて、地面を転がり廻りました。2度程両耳ををつんざくようなギャーッという叫び声を上げましたが、そのまま動かなくなりました。火だけが全身を包んでいつまでも燃え盛り、灰色の煙が道路を這って行きました。「死」でした。
歩けない母を支えて
母は道に座り込み、両手で顔を覆いました。ううう、うううと唸りながら、激しくふるえました。父はしゃがんで、うつむいたまま合掌していました。私は自分でもわけのわからないことをつぶやきながら、母の背中に顔を伏せたりしましたが、今自分がどこにいるのかさえわからなくなっていました。
はっと気がついたのは、あのカランコロンの音が再び身の廻りで起こり始めたからです。新しく焼夷弾がばら撒かれたのです。直撃されたら即死です。棒が両端から火焰を上げて、地面を三段跳びのように弾み、あるいは転げ廻っていました。
「行こう、ここは危ない」
母を抱き起こしました。母の右腕を私の首に廻し、左手で腰のあたりを支えました。父も母の左腕を自分の首に廻しました。小さな4つ角を一つ過ぎれば電車道で、突き当たりは本所(現・墨田)区役所でした。そのあたりはまだ夜の闇しか見えませんでした。母は全身から力が脱けてしまったようで、父と私が立ったままの母を引きずっている感じで歩きました。
右側の家々から燃え上がった火は、まるで壁のように横につながって天を焦し、時折ごーっと押し潰すような暴風が吹いて来ると、火は180度方向を変えて、滝のような形で、どっと下へ向って吹き下ろして来ました。
「あついーーっ、たすけてーーっ」
突然、信じられないことが起こりました。火の壁の中から、かすれた叫び声を精一杯張り上げた若い女性が飛び出してきたのです。すでに衣服には足の方から上へと火がついて燃え上がっているのです。
「こっちへ来なさいっ」
この風と火が荒れ狂う中で私に何ができるのでしょうか。でも私はそう叫びました。ところが、返って来たのは、
「ぎゃあーーーーっ」
というあれが人間の断末魔の全身で絞り出した声だったのでしょうか。ごおーっと絶え間なく轟く烈風の音を突き抜けて、この世のものとは思えぬ声が私の耳に届いた次の瞬間、その人は燃えさかる火の中へ飛び込んで行ってしまったのです。
「……み……ず……」
母は小さくつぶやくと、膝を折って道にへたり込んでしまいました。
あまりにも恐しく、この世で人間が見る光景ではありませんでした。
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