
太平洋戦争のただ中を生き抜いた作家・渡辺淳一が、自らの記憶をたぐり寄せ、人生の根底を形作った「戦後」を語る。生きる重さと希望を問い直す珠玉の回想録『瓦礫の中の幸福論 わたしが体験した戦後』より、一部を抜粋してお届けします。
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厚木にマッカーサー最高司令官が到着するとともに、北海道の札幌市にもアメリカ軍が現れた。
初めて見るアメリカ兵は、いずれも長身ですらりとして、恰好よく見えた。
英語はできないが、手を挙げると、「ヘーイ」と気軽に声をかけてくれそうな感じであった。
ホテルを接収
アメリカ軍の進駐とともに、札幌市の中心部にあったホテルや一部のビルは軍に接収され、街の様子はかなり変わったようである。さらに近くの温泉地の定山渓や千歳のホテルなどもアメリカ軍に占領されたという。
それはまさしく「占領」という言葉が似つかわしいほど、いきなり有無をいわせず奪われたようである。
これは東京でも同様で、皇居前に残っていたビルは直ちに接収されて、進駐軍の総司令部になり、その他、残っていたビルやホテルのほとんども米軍に占領され、さらに箱根や日光に残っていたホテルも進駐軍が使いはじめたとか。
もちろん、これらはあとで知らされたことだが、それに誰一人、抗議することもできなかったようである。
実際、あのまま戦争を続けていたら、いずれも爆弾で焼き尽くされたものであり、それ以前に、日本は無条件降伏したのである。完全に負けて、どのようにでもしてくれと手を上げたのだから、焼かれずに残っていた建物を奪われるくらい、当たり前といえば当たり前のことだった。
それにしても、あの皇居前の総司令部になったビルは、どうして残っていたのか。まわり一面、焼け野原のなかで、皇居と、あの一部のビルだけ残っていたのは……。
間もなく日本は降伏するから、そのときに司令部として使おうと、そこまで考えて残したのでは、といっている人もいたけれど、たしかにそんな気がしないでもない。
薄野でアメリカ兵を
札幌の街にもアメリカ兵が現れたと聞いて、わたしはもう少し身近で見てみたくなってきた。
彼らはなにを求めて街に出てきて、どんな声を出し、どんなふうに動くのか。
噂では、札幌の中心部や薄野に行けば、進駐軍を見られると聞いたが、母には、進駐軍に近づいてはいけません、と厳しく注意されていた。
それでも、できることなら、もう少し近くで見てみたい。そこで友人二人とこっそり日曜日に、薄野に出かけてみた。
すると、たしかにいるではないか。
目の前のアメリカ兵は二人連れだが、将校ではないようである。ともにカメラを持って、街を写しているらしい。
彼らを見送って少し南に下ると、今度は一人の兵が薄野の街並みを珍しそうに眺めながら、小路の前で立ち止まっている。こんなところになんの用事で、と不思議に思った瞬間、奥から派手な恰好の日本の女性が出てくる。知り合いなのか、少し話したあと、アメリカ兵は微かに笑ったように見えたが、そのまま小路の先に消えていく。
あんなところに、なんの用事があるのか。そして、あの話をしていた女性は英語ができるのか。不思議な気がして見とれていると、やがて女性も小路の先に消えてしまう。
やはりアメリカ兵も、日曜日は休みなのか。いずれにしても、日本の兵隊なら、こんな日中から女性と会話を交わさないような気がするが、アメリカ兵は平気なのか。
そのままさらに通りを駅前のほうに行くと、アメリカ兵が一人立ち止まり、片足を足台の上に置いている。
その前で、わたしとほぼ同年齢の男の子が、アメリカ兵の靴を磨いているではないか。
「へえっ……」
わたしたちはしばらく見とれていたが、少年は脅えたふうもなく靴を磨き終えると、値段らしきことをいって、アメリカ兵からコインをもらっている。
いつからこんなアルバイトをはじめたのか。なぜともなく、わたしはこの男の子に感心して、「すげえなぁ」というと、横にいた友達も感心したようにうなずいた。
現場に大きな跫痕が
家には弟の他に姉がいた。わたしの四歳年上で、その頃、女学校の四年生だった。
母はこの姉にはとくに厳しく、一人で外出することを禁じ、決して薄野のほうに行ってはいけないと、何度もいっていた。
わたしの家のあった山の手は静かで、アメリカ兵が来るようなことはなかったが、それでも、いつ、どんなときに現れないともかぎらない。とにかく用心するにこしたことはない。そのことは姉もよくわかっていて、一人で外出することはなく、学校へは常に友達と誘い合って行っていたようである。
そんなとき、新聞にある奇妙な記事が載った。
それは薄野よりさらに南の街外れのところで起きたようだが、ある家に大きな男が侵入し、なかで休んでいた人に襲いかかったとか。
それでどんな危害を受けたのかなど、細かいことは忘れたが、最後に、「現場に大きな跫痕が残されていた」という一行が記されていた。
これはなにを意味するのか。不思議に思って父にきくと説明してくれた。
「これは、アメリカ兵のことだ」
でも、それならなぜはっきり「アメリカ兵」と書かないのか。不思議に思っていると、父が怒ったように答えてくれた。
「はっきり、書けないからだ」
それ以来、何度か「現場に大きな跫痕が」という記事を読んだような気がするが、負けたから仕方がないのだと、一人でうなずいていた。
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瓦礫の中の幸福論 わたしが体験した戦後

太平洋戦争のただ中を生き抜いた作家・渡辺淳一が、自らの記憶をたぐり寄せ、人生の根底を形作った「戦後」を語る。生きる重さと希望を問い直す珠玉の回想録『瓦礫の中の幸福論 わたしが体験した戦後』より、一部を抜粋してお届けします。