
世界情勢が揺らぐ今、日本はどこに向かうのか?
ノンフィクション作家・保阪正康さんが、明治から昭和に至る戦争の歴史を解きほぐし、これからの私たちにできることを問いかける幻冬舎新書『戦争の近現代史 日本人は戦いをやめられるのか』より、一部を抜粋してお届けします。
資料に残らない、特攻に「送られた」側の記憶
長らくつきあいのなかった知人から、突然手紙が来て、「海軍の軍人だった義父の資料が残っています。どうしたら良いでしょうか」という内容が書かれていました。
その人の義父は特攻隊の出撃を送り出しながら、自分は生き残った軍人でした。言葉は悪いですが、「立派な軍人とは言えない」と、私は思っています。それでも、しかるべき機関の責任者に伝えたところ、「貴重な資料だ」という反応が返ってきました。特攻に何人も送り出して、「自分も死ぬ」と言いながら、死ななかった人の作った「資料」なるものが後世に残っていくのです。
仕方がないことだと思いますが、ならば戦争の時代と折り合いをつけながら、疑問を感じながらも、黙々と死んでいった人たちのことは誰が残すのでしょう。
昭和後期に語られた戦争は、ともすれば高級軍人を美化する、あるいは日本の侵略にプラス面もあるという歴史修正主義的な見方が強調されていました。名前のある軍人が得々として戦果を語り、失敗さえも自己正当化するような話に意味はありません。
それよりも、誠実に生きた人たちのことを、客観的な事実に基づいて残さなければいけないのです。それが戦争体験を継承する柱だと意識させてくれたのが、平成という時代の教訓だったと、私は考えています。
特攻と、卑劣な日本軍の組織原理
それにしても、「日本はどうしてこんなに兵隊の命を軽く考えたのだろうか」と思わずにはいられません。
昭和18年(1943)から19年にかけて、日本は各地の戦闘でアメリカに負け続けました。そのとき、軍のなかで特攻作戦が必要だという声がだんだん高まってきます。
特攻機による体当たり作戦は、昭和19年(1944)10月のアメリカのフィリピン上陸作戦のときに初めて行われますが、そこに至るまでにもガダルカナルの戦いのような無謀な突撃命令で、多くの兵隊たちが死んでいました。
「日本の青年は自分の命をお国のために捧げることを最大の美徳と考えている」
これは東條英機が戦争末期に記者団に発した言葉です。新聞などでも報じられていますが、都合のよい論理だと思います。
戦争の内実を調べていてわかるのは、日本軍の組織原理がかなり卑劣だったことです。軍の上層部は兵隊たちに死ぬことを強要する一方で、自分たちは死なないことを考えていました。「俺も後から続く」と言って特攻機を送り出して生き残った上官たちの逸話などは、その好例です。
日本の軍事指導者が全員そうなのではなく、海軍にも「自分が率先して死ななければならない」と考え、命を賭して率先して作戦指導して死んだ指揮官はいました。こういう人こそ本当の軍人であり、私たちは個別にきちんと見極める必要があります。
「ずるい戦史」を壊していく
私は反体制的な人間ではないし、現実の社会に矛盾があっても、「それなりの理由があるから存在するのだろう」と考える人間です。しかし、調べれば調べるほど、狡猾な人たちの戦史、狡猾な人たちの太平洋戦争史観だけは、何としても後世に伝えてはいけないと思います。それらを伝えていくことは、黙々と死んでいった人たちに対して礼節を欠くことになります。
昭和20年(1945)に戦争が終わってから43年余を経た平成時代以降は、当事者たちの多くが亡くなっていくなか、「ずるい戦史」はどれかを見極めた上で、それによって刷り込まれた固定観念を壊していかなければなりません。
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戦争の近現代史 日本人は戦いをやめられるのか

世界情勢が揺らぐ今、日本はどこに向かうのか?
ノンフィクション作家・保阪正康さんが、明治から昭和に至る戦争の歴史を解きほぐし、これからの私たちにできることを問いかける幻冬舎新書『戦争の近現代史 日本人は戦いをやめられるのか』より、一部を抜粋してお届けします。