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「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史

2025.07.25 公開 ポスト

「せめておにぎり1つ配ってくれたら」戦後の上野に残された孤児たちの叫び中村光博

敗戦は終わりではなく、戦争孤児たちにとって“地獄の始まり”だった――。

「クローズアップ現代+」や「NHKスペシャル」などでディレクターを務めてきた中村光博さんが、戦争で親を失った子どもたちへの綿密な取材を元に戦後の真実を浮き彫りにした幻冬舎新書『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』より、一部を抜粋してお届けします。

戦争と台風が招いた壊滅的な食料不足

終戦直後の上野。そこは連日のように死者が出る過酷な環境だった。当時の新聞も、「せまる死の行進」という見出しを打って、上野で餓死者が出ていることを伝えている。

背景には、終戦直後に日本を襲った深刻な食料不足があった。戦争で多くの男性が出征したことによって、戦争中の日本国内の農産物の生産量は減少していた。それを補っていた外地からの食料は、戦争終盤から、日本への輸送路が封じられて届かなくなり、国内の食物の量は大きく減少していた。

そこに追い打ちをかけたのが、終戦の年、昭和20年9月に日本列島を襲った枕崎台風だった。鹿児島県の枕崎に上陸した後、焼け野原となった日本を縦断、各地に甚大な被害をもたらした。死者も2000人を超えるほどの大惨事となった。

戦争や天災など様々な事情が重なって起きていた食料不足を受け、当時の大蔵大臣・渋沢敬三が「餓死者が1000万人も出る可能性がある」と訴えたほどだった。

大人でさえ、その日を生きることに必死な状況の中、行き場を失い駅で過ごしていた子どもたちは、死と隣り合わせの生活に追い込まれた。幼い弟と妹を自分の力だけで守らなければならなかった金子さんも、地獄の日々を送っていた。

隠すように食べたサツマイモ

そんな状況にありながら、きょうだい3人がなんとか生き抜くことができたのは、山形を離れるときに親戚の叔父さんがこっそりくれたお金のおかげだった。当時、夕方になると、上野公園の前で売られていたかしたサツマイモを買いにいった。1日1本だけ、それをきょうだい3人で分け合った。

上野の地下道での経験は、つらい記憶として刻まれ、いまも金子さんを苦しめている。それは、死にそうなほどに苦しんだ空腹のつらさではない。周りで飢えに苦しんでいた子どもを助けてあげることができなかったという自責の念だ。

(写真提供:NHK)

金子さんが上野に来てすぐの頃、きょうだいでイモを食べていると、小さな子どもがやってきて、「ちょうだい」と言って手を出してきた。しかたなく、ほんの少しだけあげると、金子さんはきょうだいを連れてその場を急いで離れた。そして他の子どもから見えないところに場所を移して、残りのイモを食べた。

それ以降、他の子どもたちからおねだりされないよう、買ったサツマイモはすぐにズボンの中に隠し、他の子どもから見えない場所に行って食べるようになった。苦しんでいる子どもがいても、食べ物を与えることができなかった。そして、空腹で動けなくなった子どもは衰弱し、命を落としていった。

 

「何人見たか分かりませんよ、子どもの死体を。自分を守るのに精一杯で、あげたい気持ちはあるんですけど、あげられないんですよ。かわいそうだなと思うことしかできなかった。私一人じゃないでしょ、弟と妹を連れているからね。小さい子が亡くなってもただかわいそうだなと思うだけで、自分のことだけで精一杯でした」

せめておにぎり1つでも配ってくれたら

地下道で雨風をしのいでいる人たちが食料難で死と隣り合わせの暮らしをしている中でも、上野には、すでに大きな闇市ができていた。いまのアメ横の始まりだ。当時の報道写真を調べてみると、簡易な屋台がずらっと並び、食料を求める人たちで賑わっている。お金さえあれば食料を手に入れることができたのだ。

しかし、そのすぐそばの地下道で飢えている子どもを気にかけてくれる大人はいなかったという。

 

「どうかしてるなら、こういうところに行けとか、だいじょうぶかとか、そんなことを言う人は周りに一切いなかったです。そんな優しい人は一人もいませんでした」

 

金子さんは、語気を強めて続ける。

 

「政府も少しは面倒見てくれてもよかったんじゃないかなと思うけど。あれだけの大きな戦争をして負けてしまったから、大変だったのかもしれないけれど、本当に上野で孤児がゴロゴロといっぱいいるんですよ。それをね、おにぎり1つ配ることがないんですもん。そりゃ死んじゃいますよね。上に立った政治家も空襲で大変だったからできなかったのか、それは私には分からないけど。

 本音を言うなら、たとえ1日1個でいいからおにぎりくらい配ってほしかったですよ。なんででしょうね。戦争孤児が戦争を起こしたんじゃないんだから。政府がやったんだから。それなのに何にも政府は……。毎日死んでいくんですよ、子どもが。食べなきゃ死んじゃいますよね」

 

先の全く見えない毎日。この先どうすればいいのかと考えても、少しの希望も見いだせなかった。いっそ、きょうだいみんなで死んでしまった方がいいのではないかと考えることさえあった。

そんなある日、金子さんは、どうしようもない不安に押しつぶされそうになり、不覚にも涙を流してしまったことがあった。すると姉の涙を見た、弟、妹がつられて泣き始め、きょうだい3人でワンワン泣いて一夜を過ごすことになってしまったという。以来、金子さんは、弟と妹を不安にさせてはいけないと自分に言い聞かせ、彼らの前では、絶対に涙を見せないと決めた。

*   *   *

この続きは幻冬舎新書『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』をお求めください。

関連書籍

中村光博『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』

戦争で親を失い路上生活を強いられ、「駅の子」「浮浪児」などと呼ばれた戦争孤児。飢えと寒さ。物乞いや盗み。戦争が終わってから始まった闘いの日々。しかし、国も周囲の大人たちも彼らを放置し、やがては彼らを蔑み、排除するようになっていった。「過去を知られたら差別される」「思い出したくない」と口を閉ざしてきた「駅の子」たちが、80歳を過ぎて、初めてその体験を語り始めた。「二度と戦争を起こしてほしくない」という思いを託して――戦後史の空白に迫り大きな反響を呼んだNHKスペシャル、待望の書籍化。

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「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史

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中村光博

1984年、東京都生まれ。2010年、東京大学公共政策大学院修了後、NHK入局。大阪放送局報道部、ニュースウオッチ9、国際番組部などを経て、社会番組部ディレクターとなる。「クローズアップ現代+」や「NHKスペシャル」などを制作。主な担当番組に「NHKスペシャル」の「都市直下地震 20年目の警告」、「“駅の子”の闘い~語り始めた戦争孤児~」(2018年度ギャラクシー賞・選奨受賞)、「BS1スペシャル」の「激動の世界をゆく 世界は北朝鮮をどうみるか」「戦争孤児~埋もれてきた“戦後史”を追う~」などがある。

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