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往復書簡 恋愛と未熟

2025.07.08 公開 ポスト

「自分の選択で愛した人を傷つけたことがあるか?」と聞かれたらひらりさ(文筆家)

ハロー、綾。

 

東京に帰る機上にいます。インターネットがないと、驚くほど執筆が捗る! 

綾も出張お疲れ様。貸してもらった鍵でドアを閉めて、郵便受けから室内に落としたよ。冷蔵庫に、フォートナム&メイソンのシーソルトバターを入れておいた。帰ったら食べてね!

イスタンブールとパリを観光したあと、ロンドンの綾のフラットで1週間過ごし、先に出張に出る綾と別れた6月。旅って、読書が捗るよね。いろいろ読めたのだけど、バロウズの『クィア』が、とくに心に響いた。ちょうど旅の直前、ルカ・グァダニーノが撮った映画版が日本でかかっていて、それが良かったので買ったのだ。

映画版の日本ポスターがエモさ爆発(キャッチコピーが「みっともないほど、君に触れたい」)だったから、観る前は、『コール・ミー・バイ・ユア・ネーム(君の名前で僕を呼んで)』(同じルカ・グァダニーノ監督作!)のような、甘酸っぱくビターなラブを予期していた。でも、蓋を開けたら、アマゾンの奥地に伝説のテレパシードラッグを探索に行く冒険劇。映画の撮り方・見せ方の関節をぐにゃぐにゃと崩すような作品で、最高にクレイジーだった。

綾と1週間を過ごす、というのは、私にとって、アマゾン探検くらいドキドキすることではあった。日本の友人とだって、ここまで長く一緒に過ごしたことはない。粗相をしないか、緊張していました。でも、お言葉に甘えてよかった! 綾への理解が深まって、距離が縮まった部分と広がった部分がありました。

縮まったところは、綾にもわかりやすいでしょう。いっしょにブリックレーンで買ったベーグルサンドを頬張ったり、綾がふだん通っているマシンピラティススタジオで並んでワークアウトしたり、私の趣味であるバレエ鑑賞を一緒に楽しんだり。傍らにいて体験を分かち合うことは、遠く離れて往復書簡を交わし合うこととは全く別の感動をもたらしてくれた。綾の人生の色彩というか、手触りを知れた。
その反面、綾や周囲の人々のハイキャリアぶりに圧倒されたところもあった。日本語、英語のみならず、フランス語で原稿を書き、コールに出る綾。日々カンファレンス参加やイベント出演、ネットワーキングに忙しくしていたね。それでもちゃんと、恋人と会う時間も確保していた。2025年、ロンドンを舞台に『SEX AND THE CITY』が製作されるなら、綾のようなキャラクターが一人出てくるに違いない。

こう書くのは、綾との間に線を引くためではない。綾は想像力があり、優しい人。この往復書簡では自分の第一言語を封印し、日本語を使って、私に寄り添ってくれている。でも、同じ言語を使い、同じ概念について話していても、同じ意味を掴み損ねていることが、ここまでたくさんあったんじゃないかと、一緒に過ごしてみて思った。綾はできるだけ、「私たち女性」という主語を意識しながら、私に語りかけてくれている。でも、「私たち女性」として語り合うことは、思っている以上に不可能だ。きっと、他人からは「私たち女性」にだいぶ見えているだろう、綾と私であっても。

たとえば、自由。綾は前回の手紙で、「プールの水面の上で輝く陽射しを眺めながら、平日の朝9時に豪華なミーティングをしている」ことを、そう評した。私は少し、抵抗を感じた。ずいぶん資本主義的な、典型的なイメージに思えたからだ。でも、綾の生活に入り込んでみたら、少しわかった。絶え間なく自己研鑽しながら激務をこなしてきた、綾たちのような人にとっては、まさに手に入れた自由の、象徴的なひとときだったのだろうと、腑に落ちた。本当に、綾にとっては、自由の実感だったのだ。

そんなあなたにとって「恋愛」が制御不可能性を持つ時––—己にかかわる物質的・精神的・時間的な制御不可能性をストイックに(他人のせいにせずに!)克服してきたあなたにとっては––—その原因はもう、自分ではコントロールしようがない、相手方による束縛や、関係や社会的外圧にあるに決まっている。

でも原因が外側にあったとしても。綾は、その外側を切り捨てるのではなく、そして外側への欲求をストレートに否定する人ではない。

「私の考えるフェミニズムの本質は、女性が自らの意思で自身の人生のあり方を選び取ることであり、それを制約している社会の仕組みや偏見を批判することだ。」

「自らの意思で選び取る」ことと「(個人以上に)制約の仕組みや偏見を批判すること」の連続が、フェミニズム。フェミニズムの、とても端的な説明で、「私もそう思う」と応えるフェミニストは多いだろう。

ただ、そこに、色々な注釈がつき、そこに個人の経験があらわれるのだと感じる。綾の場合、「決して恋愛を否定したり拒否したりすることではない。」という部分が、とても綾らしい。反対に私の注釈は、「ただし、すでに自分の意思や感情だと思っていることは、社会の規範に則って評価されたい欲望に裏づけられている可能性が非常に高いので、注意せよ」だ。私って、承認欲求と欲望のかたまりだから! 
だから、綾がバトラーだったらこう論じるだろうという「愛でさえも、純粋ではなくて社会的圧力や期待によって汚染されている」のほうに、強く共感するということだね。私は、私の「恋愛」を否定しているのでも拒否しているのでもない。ただ、疑っているのだ。

「男性と恋愛すること自体を手放すと言うとき、それによって拒絶しているものは、本当は何? ひらりさが拒絶しているのは恋愛でもないし、異性愛でもないと思う。自由を束縛する関係だ。」

私が「男性との恋愛を手放したい」と言う時、男性との恋愛によって「縛られること」については全く想定していないんだよ。
私、すごく男性との恋愛に振り回されているように見えるよね? でも、私は、今まで好きになった誰からも、綾の友人がされてしまったような振る舞いをされたことが一切ない(人のこと言えないけど、彼女はなかなかハードな男性を引いたね!)。

これは、運の問題ではない。母性的なケアを担わされることにとても敏感なのだ。そういうパフォーマティビティを期待するような男性に欲望できない。

でも、既存の型を押し付けてこない男性と認定するや否や、その男性に「(性的な)女性としての自分」を肯定されることや「ロマンチックな感情の継続」を、すごく期待してしまう。相手が期待してこないからこそ、欲望がドライブする。ある種の一人相撲。ある種の、じゃないか。完膚なきまでに一人相撲なのだ。

だから私は、綾の、この質問には答える言葉をうまく持ち合わせない。

「ひらりさ、私たちは恋愛で最も重要なことの一つについて話していないような気がする。
それは、自分自身の選択で誰か、特に愛する人を傷つけるときのこと。ひらりさは愛している人を傷つけたことある?
その経験から、何かを学んだ?
人を傷つけてしまった自分をどうやって好きであり続けることができた?」

私の「恋愛」はそういうシステムではないから。

一応、答えてみると、私は私が愛した男性を、選択で傷つけるほどにぶつかったことがない。愛せなかったことを理由に傷つけたことはあるけど。でもそれは無神経とか、無配慮とか、すれ違いであって、私の選択ではない。また、それらは恋愛関係ではなかった。私にとって。

『クィア』の主人公リー(彼は、バロウズのうつしみでもある)についてバロウズが語った言葉には、まさに私のしている「恋愛」に近しいものを感じた。

「アラートンはたしかにある種の触れあいではあった。ではリーが求めている触れ合いとはなんだろう? 今にして思えば、それはひどく混乱した概念で、アラートンなる人物とはまるで無関係。中毒患者は自分が他人に与える印象に無関心だが、禁断症状になると無理矢理にでも観客を求めることがある」(河出書房新社『クィア』18ページ 山形浩生+柳下毅一郎訳)

綾のような経験を経ることができない私の「恋愛」について私は当初恥ずかしい気持ちでいたし、私はたぶん、綾に対してどこか恥じている気持ちもある。だから前回、このように問うたのだ。

「他人の魂とつながりを持つ経験は、女性とさんざんしているのに、なぜ私は男性とパートナーシップを結ぼうとするんだろう?」「男性以外のパートナーとのありうる関係性のかたちについて想像することはないだろうか?」

でも、自分の生活の中で自然とそちらに向くのならともかく、綾に問いかけることには、いびつなものがあったと気づいた。「そうしたらいい」「自分も考えることがある」と言ってもらい、背中を押されたかったのだ。これはつまり、綾の承認を受けることで、自分の欲望を作りかえたかったのだと思う。逆に言えば、自分の意思と欲望に、他者承認を必要としていた。

ふと、読書会で一緒に読んだ、『セックスする権利』のことを思い出した。

「おそらく私たちの最大の希望の支えとなる例では、欲望は政治によって選ばれたものに逆らい、欲望そのもののために選ぶことができる」(『セックスする権利』128ページ)

読んだ時、いたく感銘を受けたものだけど、実際に自分が欲望を変えてみようと試みてみると、また別のポリティクスや新しい形のパフォーマティビティにがんじがらめになっている自分に気づく。

最近刊行された、『多聞さんのおかしなともだち』(トイ・ヨウ)という漫画がある。主人公の内日さんは、人を好きになれないことに悩んでいる。ただ、彼女が、他者を好きになれないことそれ自体に悩んでいるのとは異なる。二人の女性に育てられた彼女は、親から異性愛者としての抑圧を受けたことがないかわりに、「自分達が愛して育てた娘が、誰かを愛することへの期待」にこたえられないことに、後ろめたさを感じている。

「二人のことほんまずっと—めちゃくちゃ喜ばせてあげたいって思ってんのに」
(トイ・ヨウ『多聞さんのおかしなともだち 上』54-55ページ)
※原典では「二人」にルビ「母たち」

彼女の母たちは、「政治によって選ばれたもの」に逆らってパートナーシップを結んでいるけれど、その結果、意図せず、内日さんを縛ってしまっている。きっと、娘から直接に胸の内を明かされれば、「好きな人がいたっていなくたって私たちはあなたを愛している」と言えるだろう。でも、明かされない限りは、自分たちの逆らいであらたなポリティクスを生んでいる。

私が前回の綾の手紙で不思議に思ったのは——綾の友達は、「何もしない」でその恋人と一緒にいることができなかったのか?ということだ。何もしないというのは、彼女が彼氏から求められていた、「掃除の人」や「キャリアコーチ」や「お手伝いさん」や「カウンセラー」や「お姉さん」や「お母さん」であることをしないで、彼を愛することはできなかったのか?ということだ。そうしないとそばにいられない時、彼女の愛は、自分の女性性にかけられた期待に応えるパフォーマティビティだったのではないだろうか。「演じさせられていた」のではなく、「演じたかった」部分があったように感じたのだ。

まあ、程度問題だよね。そこをこれ幸いと搾取してくる他者とはもちろん別れるべきだ。恋愛にも欲望にも色々な形があり、私たちに他者の恋愛感情のありようを断罪することはできない。ただ、私たちの中には、自分の恋愛をことさらに断罪してしまう人がいる。男性との恋愛を手放すしかないじゃない、と言ったという彼女と私の共通点はそこかもしれない。彼女はまだ、その彼を愛しているような気がする。綾はどう思う?

私は男性との関係で傷つけあうほどの近距離になれたことがないことに、後ろめたさを感じる必要はない。「恋愛」そのものをしない人が、自己を恥じる必要がないのと同様に。そうやって考えることが、私が私を「愛する」一歩めかもしれない。でもこの、「愛」の捉え方もまた、綾とすれ違うのだろう。

伝わるように書けているかな? 100パーセントは伝わらないだろう。私の言おうとしていることを汲み取ろうとしなくていい。書きたいことを書いてくれればいい。私の問いにすべて答えようとする必要はない(なんならすべてを無視してもいい!)。私の文章から連想されて書いてくれればいい。だから、問いは、こう返すね。

綾は、綾自身の選択で誰か、特に愛する人を傷つけたことがある?
その経験から、何かを学んだ?
人を傷つけてしまった自分をどうやって好きであり続けることができた?

実はもう、機上にいない。この文章は、飛行機のなかと、トランジット中のラウンジと、帰国後1週間の自宅にいる私との合作だ。ジグザグな論理展開になっているところや、つながりが飛んで感じるところが多かったら、そのせいもあるだろう。

アメリカがイランの核施設を攻撃した。私は、そのことをスペイン人の友達と話し合った。彼から、アメリカがNATO加盟国に対して国防支出目標の比率を高めるよう要求し、スペインがこれを拒んだことを聞いた。調べたら、日本も拒んでいた。

「僕は、自分の国の選択に賛成だ。国に、戦争に投資してほしくないし、戦争をする気はない。僕も行くつもりはないよ」

私は、恋人が、付き合っていた時に発した言葉を思い出した。

「戦争は始まってほしくないけど、始まったら勝つために頑張ると思う。男だから」

私が依然としてセックスしたいのは、後者のほうだ。友達には、こういう男性に呆れているというポーズをとっているし、頭の中の7割の自分は呆れているのだけど、残りの3割の自分は、いまだに好きなのである。この3割は「選択」で変えられるのだろうか? 「男性」と「性愛」をする限り、変えられない気がする。男性と友人をしたり、男性以外と恋愛をしたりする分には、まともでいられるのに。

私たちの往復書簡の目的は、合意でも否定でも、ましてや、すりあわせでもない。恋愛についての、世界についての、多様なパースペクティブを記録しておくこと、語り合うことでパースペクティブを多元化させること。

正面から受け止めあってもすれ違うことは、脱臼させたほうがいいのかもしれない。どうせずれているし。ずらしたり崩したりして、つなげていってもいいかもしれない。「クィア」って、逸脱するという意味なのだから。

*   *   *

読書会のお知らせ

8月2日(土)16時より、美容と社会、そして私たち~ひらりさ×鈴木綾『美人までの階段1000段あってもう潰れそうだけどこのシートマスクを信じてる』読書会を開催します。今回は、綾さんも来日し、会場とオンラインの両方で行います。

詳細・お申込みについては、幻冬舎カルチャーのページをご覧ください。みなさまのご参加お待ちしています!

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まだ恋愛にじたばたしてる――? 30代半ば、独身。ロンドンと東京で考える、この時代に誰かと関係を紡ぐということ。

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ひらりさ 文筆家

平成元年、東京生まれ。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーとして活動するほか、女性の人生やフェミニズムにかかわるトレンド、コンテンツについてのレビュー、エッセイを執筆。単著に『沼で溺れてみたけれど』(講談社)、『それでも女をやっていく』(ワニブックス)など。

 

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