
薬に頼らない独自の精神療法で、数多くのクライアントと対峙してきた精神科医の泉谷閑示氏。最新刊『「自分が嫌い」という病』は、昨今たくさんの人が悩んでいる「自分を好きになれない」「自分に自信が持てない」という問題に真正面から向き合った1冊です。親子関係のゆがみからロゴスなき人間の問題、愛と欲望の違いなどを紐解きながら、「自分を愛する」ことを取り戻す道筋を示しています。本書から抜粋してご紹介していきます。
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子どもにとって親は「ほぼ神」として君臨している
言うまでもなく、人は子どもができれば自動的に親になるわけで、特にそのための試験や資格があるわけではありません。厳しい見方かもしれませんが、実際のところ人が親になるような年齢ではまだまだ人生経験も浅く、親という役割を果たす上ではその成熟度はかなり危なっかしいものだと言えます。
ところが生まれてきた子どもは、そんな実態や裏事情など知るよしもなく、無邪気に親に対して全幅の信頼をおいています。つまり人格形成期の前半において、子どもにとっての親は、ほぼ神のごとき存在なのです。もちろん10年以上経った思春期あたりから親への批判的視点が芽生え始め、それまで鵜呑みにして受け取ってきたことを疑えるようになりますが、その時点ではもう既に、子どもの人格の基礎部分には、しっかりと親の足跡が残されてしまっているわけです。
ところが実際の親は、もちろん神ではなく不完全な人間に過ぎないのですから、子どもに対してどんな時でも問題なく接することができるわけではありません。しばしば親は余裕がなくなって苛立ちを子どもにぶつけてしまったり、煩わしく思って邪険に扱ってしまったりなど、およそ完璧な子育てなどには程遠いのがその実情であろうと思われます。
また、現代に多い核家族においては、その閉鎖的な環境ゆえに、親の未熟さや偏りが、ダイレクトに子どもに影響しやすいという問題もあります。
昔の大家族や「古き良き」地域コミュニティの中では、親が単独で子育てをするのでなく、複数の大人たちが子どもをゆったりと見守って育てていたような状況でした。たとえ親自身に偏りや未熟さがあったとしても、その弊害は複数性によって適度に希釈されるので、子どもへの悪影響も、直接的なものではなかったのです。しかし、今日の核家族という環境は、育児負担が親だけに集中してしまい、親に余裕がなくなるだけでなく、その閉じた隔離的状況の中では、親の言動が子どもに対して一種の洗脳的な作用を及ぼすことになってしまいやすいのです。
また、自閉的傾向のある人が親になった場合などは、本人としては普通に子育てをしているつもりでも、子どもに対して、質的にかなり悪影響を及ぼしてしまうことが少なくありません。子どもに向ける関心が表面的なものにとどまっていたり、過度なしつけや学歴偏重志向など、偏狭な価値観を押し付けていることに無自覚だったりします。さらにその自閉的特性ゆえに、一貫性のない矛盾だらけの関わりをしてしまったり、泣き声や騒がしさを極度に嫌い、これを感情的に叱責したり、思い通りでないとささいなことでもキレやすかったりなど、家の中の雰囲気はピリピリしたものになりがちです。このような問題が家庭という密室内で繰り広げられるので、さしずめ暴君が君臨する小さな独裁国家のごとき状況下で子どもは怯え困惑し、精神的に萎縮させられてしまうのです。
親を否定できないので自分を否定する子どもたち
子どもへの不適切な接し方は、子どもの内部に次のような変化を引き起こします。
親に不適切に扱われた子どもは、そのことをいわば神から制裁でも受けたかのように感じ取り、神である親を疑わないので、「自分が何かまずいことでもしてしまったのかな」と考えます。
もちろん、しつけなどの文脈で適切な叱責を受けた場合には、その理由が子どもにも把握できるので、今後は気をつけようという学習が行なわれるだけです。しかし、いくら考えてみても叱られたり無視されるような理由が見当たらなかったり、何らかの失態はあったにせよそこまで制裁を受けるほどの問題とは思えなかった場合、子どもはその本意がつかめずに戸惑ってしまいます。そして引き続き、親の意図が何だったのだろうと考え続けることになります。人には、不可解なことをそのままにしておけないという性質があるからです。
果たしてちゃんとお手伝いをしなかったのが悪いのか、勉強ができないのが悪いのか、習い事をやめたいなんて言ったのが悪いのか、自分は良い子じゃないのか等々、子どもなりに何か思い当たることを考えつくと、そこを懸命に改善しようと努力し始めます。
しかし、どんなに頑張って改善をしても手応えがなかったり、いくら考えてみても思い当たる原因が見当たらない場合には、その子は「よく分からないけど、自分はダメな子なんだろう」と考えたり、ひどい場合には「自分の存在自体が迷惑なのではないか」「生まれてこない方が良かったのではないか」といった存在否定のところまで、自己否定を進めてしまうこともあるのです。
いずれにせよ、親と自分の不調和な関係について、子どもにはまだ親を疑うという発想が芽生えていないがゆえに、「何が悪いのかよく分からないけれど、きっと自分が悪いのだろう」と考えるしかありません。親を否定できないので、自分を否定してしまったのです。
自己否定はうまくいかないことを説明してくれるオールマイティカード
ひとたびそんなふうに思ってしまった子どもは、そこから先、常に自分のあら探しをするモードで生きていきます。「自分のいったい何が悪いのだろう」という解けない謎をいつか解きたいという必死の思いで、自分の欠点にばかり注目する日々を送るのです。
人はこの状態にあると、たとえ何かうまくやれたり人に褒められることがあったとしても、「そんなのは、きっとまぐれ当たりだ」「自分にできるようなことは、他の人だって当然できるはずだ」「どうせこの人は私をおだてて、からかっているに違いない」などと処理してしまい、自己否定そのものが見直されることにはつながりません。
このように一度思い込んでしまった自己否定は、自分が関わるすべてをマイナスに解釈するような認識上の引力を発生させます。そして、思春期以降になって親の未熟さや偏りにようやく気づき始めたとしても、残念ながらこの自己否定は自動的に訂正されたりはしません。なぜなら、いわば生乾きのコンクリートのような人格形成初期にくっきりと刻印されてしまった自己否定は、もはや基本OS(コンピューターの基本ソフト)のごとく自分の認識の基礎に組み込まれてしまっていて、疑う対象にはなり得ないからです。
さらにこの自己否定というものは、うまくいかないことや不条理なこと、不愉快なことも不幸なことも、「私がダメだから」という形で見事に理由づけ、説明してくれるオールマイティカードとして機能してきているので、すでに本人の中では疑いようのない真実になっているのです。
「自分が嫌い」という病

「自分嫌い」こそ不幸の最大の原因。「自分を好きになれない」と悩むすべての人に贈る、自身を持って生きられるヒントが詰まった1冊。