
向田邦子さんという名前が、今の人たちにどれだけ馴染みがあるかは分からない。聞くところによると、いまの中学校の国語の教科書に彼女の作品が載っているらしい。もしご存命なら95歳。黒柳徹子さんの若い頃をテーマにしたテレビドラマ「トットてれび」でも、歳の近いお姉さん的立ち位置として登場している、ラジオ・テレビの黎明期を支えた脚本家だ。(ちなみに「トットてれび」では女優のミムラさんが演じていたのだが、びっくりするほど似ていた)
僕が生まれるずっと前に飛行機事故で亡くなってしまった向田邦子さんだが、僕は勝手に彼女のことを“お友達”だと思っている……と言うと、ちょっと大げさだろうか。
僕と、向田邦子さんは「なんだか似ている」
僕と向田邦子さんは「なんだか似ている」のだ。
彼女の父親は保険会社の社員で、いわゆる転勤族だった。生まれてすぐ宇都宮に移り、小学校時代は鹿児島、戦後は仙台、そして東京へと移り住む。その当時のことを、彼女は多くのエッセイに書き残しているが、エピソードの一つ一つに深く共感できる理由は、きっと僕も同じだったからだ。
僕の父親も、まさしく保険会社の社員だった。保険会社というのは転勤の多い職種らしく、北海道で生まれた僕はすぐに仙台に移り、その後山梨、横浜、千葉と、2〜3年に1度は引っ越しをした。
多感な時期、保険会社に勤める父親のせいで、背景だけがコロコロと変わる生活を強いられた者同士の、どことなく共通する思いが、僕と向田邦子さんには存在している気がする。
父親が部下を家に呼び、毎晩のように酒宴が始まるのも同じだし、そこで出てくる母親の料理の味に影響を受け、今度は自分が料理にハマり、食器を揃えて自宅に知人を呼んで振る舞うようになったのも一緒。
向田さんは、95年前から、僕と同じような人生をすでに始めていた人なのだ。
もう一つ。「れっきとした故郷がない」というコンプレックスを持っていたのも同じだった。
かつて向田さんは、自身が幼少期を過ごした鹿児島のことを、愛を持って「故郷もどき」と称したが、その気持ちがとてもよくわかる。
他の人より「故郷」が分散され、濃度が薄いのだ。だからこそ、いまからでもその濃度を濃くしようと、育った場所における「追加の思い出」を探しに行ってしまう。
正直なことを言うと、生まれた北海道での思い出せる記憶はほぼなかった。だからこそ今からでも、北海道を「生まれ故郷です」と自信を持って言えるように、頻繁に「帰る」ようになった。
加えて、僕らとは違い、人生を一つの土地に置きつづけた人にとってみれば、その故郷はより大切なものであろうからこそ、そんな場所を自分も知っておきたいと、さまざまな場所に足を運ぶようになったわけだ。
岩手県 一関市〜平泉町
その日、僕は岩手県の南部に位置する平泉町の中尊寺にいた。
と言っても、金ピカの金色堂が見たくてわざわざ平泉に来たわけではなく、話の流れで……というやつ。高台にあるお寺の敷地から、遠くに見える平泉駅を見つめ、今度は足元にあるトランクケースと紙袋に視線を移してため息をついた。
全国を演奏で回っていた時期だった。
仙台公演が終わり、次は名古屋の予定。飛行機で名古屋に飛ぶ明日まで少しだけ時間があった。
僕は、たった2年だけだが仙台に住んでいたことがある。仙台は、僕が結局この先ずっと関わることになるピアノという楽器に出会った街であり、初めてパスポートを取った街でもある。だから僕の本籍はいまでも仙台のままだ。
僕が初めてピアノに出会ったのは、仙台に住んでいた頃に通っていた幼稚園でだった。一日中ピアノから離れない僕を見て、迎えに来た母親に「ピアノを習わせてあげたらどうでしょう」と言ってくれたのが大塚先生。
大塚先生は、息子さんを連れて僕のコンサートに来てくれており、終演後に3人でお酒を飲むことができた。
僕が仙台で初めてピアノに出会った頃、ほぼ同時期に僕には妹ができた。妹は予定日を過ぎてもなかなか産まれなかったため、定期検診に行った母親は医者から「もうこのまま入院してください」と突然言われたのだ。急な話だったので、幼稚園にいる僕を迎えに行くことができなくなってしまった母は、仲の良かった同級生の中村君のお母さんに電話をして「少しの間うちの息子を預かってほしい」と頼んだそうだ。
中村君のお父さんは銀座の名が付く某有名中華料理店の料理人で、会社から支店を任された関係で仙台に住んでいたのだが、その後はその会社を定年退職し、もともとの地元であった岩手県の一関市で中華料理屋を開いた……というところまでは母親から聞いていた。大塚先生とお酒を飲みながら、その中村君とご両親についてまで話が及んだところで、ふと「明日、一関に行ってみようかな」と思いついた。
お店の名前は、その名も「中村」。
一ノ関駅から歩ける距離にある中華料理屋で、地元に密着したたたずまいだ。
昼の営業が終わっていたため、ドアを開けスタッフの方に「僕の名前をお伝えいただけませんか」と言ったところ、ほどなくして中村君のお父さん・お母さんが出てこられ、来訪をとても喜んでくださり、あれよあれよという間に食べきれないほどの料理を振る舞ってくださった。食べきれなかった料理は折り詰めに入れてくださり、「ここまで来たなら、中尊寺の金色堂を見ていかなくちゃ」と勧めてくださるお母さんの勢いにお任せするまま、平泉町の中尊寺まで車で送っていただいたわけだ。
素晴らしい存在感の金色堂を含め、ひととおりの見学コースを楽しんだのち帰ろうとしたとき、ここでようやく、周りにタクシーなどがいないことに気づく。中村君のお母さんは僕を置いたら夜の営業のため帰ってしまったし、重いトランクとたっぷりの中華料理が入った紙袋を持って、ここから徒歩で下山しなくてはいけなくなってしまったのだ。

遠くに見える平泉駅までは歩いて40分との検索結果。
荷物もあるのでそれ以上かかるだろう。
日も傾いてきたので、早くしないと足元が見えなくなってしまう。
ため息をついたところに、電話が鳴った。
「事務員さんのラジオ番組が決まりましたよ!」
北海道のラジオ局のディレクターからだった。
ずっと夢だった自分の番組が始まる。その報せは、疲れも重い荷物も忘れさせてしまうほどの衝撃だった。これでさらに、生まれ故郷の思い出をより濃くすることができる、と、本当に嬉しかったのを覚えている。
イヤフォンを耳に差し、ドナルド・フェイゲンの「I.G.Y」を流した。この曲は、大きな会場でのライブ音響を調整する際、ベテランの音響さんが会場の響きを確かめるための基準として流されることも多い。それだけの名録音ということだ。もともと好きだったが、ライブの制作現場でよく聴くようになり、ますます好きになった。
この曲が収録されたレコードの、ジャケットはフェイゲン自身がラジオDJに扮している。いつかもし僕がラジオ番組を始めることになったら、1曲目にかけようと決めていた曲で、下山の最中、スマホで繰り返し流し続けた。
Undersea by rail
Ninety minutes from New York to Paris
Well, by '76 we'll be A.O.K.
What a beabutiful world this will be
What a glorious time to be free
ニューヨークからパリまで、海底列車で90分で行けるようになる
まぁ、1976年までにはバッチリ実現するだろうね
なんて美しい世界が待っているんだろう
なんて素晴らしく自由な時代なんだろう「I.G.Y」 Donald Fagen
ニューヨークからパリまで90分で行けちゃう未来を想像しながら、僕はその半分の時間を使って金色堂から平泉駅まで歩いてるんだな、と思う。ようやく平泉駅に到着し、カップ酒を1つ買い、頂いた春巻きをパックから出し、これを“ねぎらい酒”とした。
春巻きは、いろんな思いが込み上げたのか、特別美味しく感じた。
薄かった故郷が、また少し濃くなった気がした。

音楽人の旅メシ日記の記事をもっと読む
音楽人の旅メシ日記

その街では、どんな食事が愛されて、どんな音楽が生まれたのか。
土地の味わいと、そこに息づく全てのものには、どこか似通ったメロディが流れている。
旅と食事を愛するミュージシャン事務員Gが、楽譜をなぞるように紐解きます。
- バックナンバー