
体力も気力も70代とは全然違う「80歳」の壁。その壁をラクして超えて、寿命をのばす――その秘訣がつまった『80歳の壁』は、2022年の年間ベストセラーにもなりました。そんな「壁シリーズ」の最新刊『女80歳の壁』が出版されました。
「夫の世話・介護からくるストレスや負荷」「骨粗しょう症による骨折で歩けなくなる」など、ぶ厚い障害を乗り超え、高齢期を楽しみ尽くすための生活習慣を詳細に解説した一冊。本書から、一部をご紹介します。
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死んだ後 世間の評価は 聞こえない
私自身は葬儀も不要だと思ってるし、お墓もいらないと思っています。忙しい人たちに葬儀や墓参りに来てもらうのは申し訳ないと思うからです。もちろん、私のような人は少数派でしょう。理解されないのもわかります。それでいいと思っています。まあ私のことはさておき。
多くの人は「世間の目」を気にしすぎだと思います。「盛大な葬式を挙げたい」というのも、周囲の目を気にしているからでしょう。そもそも“大往生”なるものは、自分から見て「大往生かどうか」なのに、人の目から見た大往生を求めてしまっているわけです。
“晩年の生きにくさ”は、そうした「他人の目」を気にしすぎるところからも生じると思うのです。
たしかに、死後、世間の人から「素敵なおばあちゃんだったよね」と言われたらうれしいですよね。でも、誰がうれしいのでしょう? そのとき本人はもう、この世にはいないので、喜びようがありません。
そもそも、言われることを気にしながら生きているのでは、会社などの組織にいた頃と変わりありません。せっかく仕事から解放され、子育ても終わり、自分の好きに生きられる日々を得たのに、もったいなすぎますよ。
「いい人」と思われようとすると、つらくなります。だったら「おもしろい人だった」と言われることを目指しませんか? 自分の好きに生きて、結果的に、世間の人から「おもしろいおばあちゃんだったよね」と思われるなら最高です。
仮に「変わり者だったよね」と言われたっていいじゃないですか。自分が楽しめたのなら、それがいちばんです。他人に迷惑をかけるのは感心しませんが、自分が楽しむ範囲なら問題なしです。死後に何を言われようと、聞こえません。だから、人の評価などに縛られず“自己満足”な生き方をしたらいいのです。
死んでまで 生きてる人を 縛るまい
「世間の常識」や、そこから生まれた「思い込み」も、幸・不幸を分ける原因と言えます。
例えば、お墓の問題もそのひとつでしょう。
「命日やお盆・お彼岸にはお墓参りをするもの」と多くの人は思っています。
このため、生前に高額の“生前墓”を建てる人は少なくありません。あるいは「お墓を建ててね」と子供に数百万円を残していく人もいます。
そして、このお墓を建てる行為には、次のような気持ちが含まれています。
私が亡くなった後、家族にはお墓参りに来てほしい――と。
これが悪いとは言いません。先祖供養は日本人が代々続けてきた風習ですし、「死んだ後も忘れないで」という思いも理解できます。
ですが、私は反対です。冷たい言い方ですが、子孫を縛る足かせになりかねないと思うからです。この少子化の時代に100年先まで、子孫が残っているかはわかりません。仮に子孫がいたとしても、お墓参りに来てくれる保証はありません。さらに言うと、子や孫、次の世代にお墓を守ることを強要するようで、申し訳ないと思うのです。死んだ自分のために、子孫を縛るようなことはしたくないのです。
もちろん、私の考え方が正しいとも思いません。ですが、死後のことをまったく気にしていない私は、気楽なことも事実です。
「死んだら関係は切れる」と思っていれば、娘や孫に気を使う必要もない。財産だって残さなくていい。そう思うから、私は自分の好きなように生き、したいことにお金を使うこともできます。
ちなみに私は、そんなことを言いながらも、ご先祖様には感謝していますし、盆暮れには手を合わせます。自分がしたいからする。だけど人には強要しない。それでいいと思います。
したいこと 今やらないで いつやるの
「我慢せず、好き勝手に生きたらいいんですよ」と患者さんに言うと、よく「それができたら苦労しませんよ」という返事が返ってきます。
「どんなことがしたいんですか?」と聞くと、みなさんうれしそうに話します。
「私は旅が大好き。死ぬまでにもう一度パック旅行に行ってみたい」
「私は思い切って、髪の毛をグリーンにしてみたいのよ」などなど。
聞いている私も、思わず楽しくなってきます。
だったら、やってみたらいいのに……。
みなさん、分別をわきまえた人生のベテランですから、他人に迷惑をかけたり、ハメを外しすぎたり、という心配はないと思いますけどね。ためらうのは、やはり世間の目があるからなのでしょう。もうひとつは、家族の存在です。
例えば、あなたが真っ赤な服を着て、髪の毛をグリーンに染めたとします。おそらく世間の人は「あのおばあちゃん、派手よね」とは言うでしょう。
でも、言われたってその程度です。しかし、家族は違います。「お母さん、恥ずかしいからやめてよね。お願いだから」と、本気で止めてきます。
つまり、世間の目を拡大解釈するのは、家族の存在なのです。
あなたが医師から「血圧が高いからお酒は減らしましょうね」と言われた場合もそうです。家族は医師の言葉を拡大し、「お酒は飲んじゃダメ」「塩分も控えて」「お肉はやめてお魚に。揚げ物もダメよね」と生活を縛ろうとします。
ありがたいですよね。でも、はっきり言うと“ありがた迷惑”です。あなたのためになっていないわけですから。
もっと深読みすると、家族があなたを縛るのは、自分が嫌な思いをしたくないからでもあります。「あのおばあちゃん派手よね」と言われたら、家族は自分が恥ずかしいのです。あなたが脳卒中で倒れたら、家族は酒や塩分を止めなかった自分を責めることになります。それが嫌だから、あなたを縛ろうとしているのです。
なので家族を気にせず、したいことはしたらいい。いまだからできるのだし、逆に言うと、いましかできない。最後のチャンスかもしれないのです。
人の肚 深読みしても 読み切れぬ
『家族という病』なんて本もありましたね。家族はたしかにありがたいけど、とても厄介な存在でもあります。
私が「金持ちのパラドックス」と呼んでいる話があります。
主人と死に別れた奥さんがいたとしましょう。気が合う年下の男性が現れ、仲良くなりました。再婚を考えています。
このとき、奥さんに財産があると、子供たちは反対します。
「財産目当てに決まってるじゃん。そんな男はやめたほうがいいよ」と。
ところが、財産のない奥さんだと、子供たちは交際に大賛成するのです。
子供たちは「そんな男はやめたほうがいい」と言いながら、内心では親の財産を目当てにしている。「いい人に出会えてよかったね」と言うのは、まあ本心としても、心の奥底には「親の介護も頼むね」という思いがあるでしょう。
どんなに親思いの子供でも、自分の生活は大事なのです。
ならば、親も自分の人生を最優先に考え、好きに生きたらいいんですよ。
もし70歳のあなたに「結婚したい」と言ってくれる人がいるなら、それは最後まで介護をする覚悟があるということです。途中で離婚したら財産は入ってこないわけですから。
「結婚するな」と言った子供が、介護を一所懸命にやってくれる保証はありません。だったらやはり、自分の気持ちに従うのがいちばんです。
仮に、相手が財産目当てだっていいじゃないですか。好きで、一緒に居たいと思うなら、その生活を楽しめばいいのです。元気なうちにしかできませんから。それが元気を維持して、長生きにつながる秘訣だと思うのです。
そもそも人の気持ちなんて、本当のところはわかりません。私は長年、精神科医をしていますが、やっぱり人間の内心は読めない。でも、表面的な優しさはわかります。そして、表面的にでも優しくしてもらえれば、人間はある程度、幸せになれるものなのです。
「いい人」の 仮面を捨てたら 心地よい
私は長い間、高齢者医療に携わっていますが、つくづく思うのは「女性は損だ」ということです。
「損」というのは、少し語弊があるかもしれませんね。これまで「損な役回りを担ってきた」という表現のほうがピッタリくるでしょうか。
しかも幸齢の女性ほど、損な役回りを担ってきたと言えます。
例えば、夫と妻が「共働き」だったとします。家事を中心にするのは誰でしょうか? ほとんどの家庭は、妻だったでしょう。子供の面倒も、夫のお世話も、義父母の対応も、学校や町内会の役員も、妻が中心だったはずです。同じように仕事をしているのに、女性が損をしているわけです。
なぜか? できてしまうからです。夫は「俺はできない」とふんぞり返って、妻に丸投げ。本当は妻のほうも「私だってできないわよ」と投げ返してやりたいのに「誰かがやらないといけないのだから」と自分が折れる。損ですよね。
そして、やっと子育てが終わったと思ったら、今度は親の介護に追われます。
親を看取ったら、今度は夫が定年し、世話をする羽目になる……。
本当に損な役回りを引き受けているな、と気の毒になりますが、流れに身を任せると、こんなふうになってしまいがちなのです。
回避するには、手放すことです。「私はやんないわよ」と放り投げてしまう。
「やっと解放されるときがきた」と開き直れない限り、老後も損な役割に縛られることになります。老後をより充実させたいなら手放すこと。たったこれだけ。簡単なことです。
堂々と 「整形した」と 言ってやれ
第3章では、性ホルモンが足りないなら補充すればいいと説明しました。
でも、患者さんにそれを言うと、「そんなものは使いたくない」と拒否反応を示す人がいます。
悪い部分を治すことには抵抗がないのに「足りない部分を補うこと」には抵抗があるのです。これはもはや、日本人の国民性かもしれません。反則でないことを「反則だ」と言いたがるのです。
例えば、カツラの人を見て、「あの人、ヅラよね」と言ったりしませんか?
顔のシワがない人を見て、「あの人、ボトックスよね」と眉を顰めたりする。
カツラもボトックスも、私はとてもいいと思います。年をとっても、見た目が若ければ、意欲のもとになるし、活動的にもなれるわけですから。
他人がなんと言おうが、気にすることありません。意欲が出て、活動的になれば、必然的に元気で長生きできる確率は高まります。自力で好きなことをして、長寿を迎えられる可能性が広がるのです。素晴らしいと思いますよ。
栄養も同じです。食事で栄養素が足りないなら、サプリで補えばいいのです。なのに、「サプリは自然のものじゃないからダメ」と拒否をする。なぜかわかりませんが、反則だと思っているのですね。
確かに、食事からすべての栄養を摂取できれば理想的です。しかし、どうしても不足する分は出てきます。幸齢になると、体内で生成できない成分も出てきますから。例えば、コレステロールもそのひとつです。ならば足りない栄養素は補足するしかありません。極めてまっとうで、合理的な方法だと思うのです。
医師に対する評価にも、同じような傾向が見られます。日本人の多くは「大学病院の医師は立派」で「美容外科はダメ医者」と。まるで、お金儲けの悪徳医師とでも思っているかのようです。ですが、この評価はまったく的外れです。
私に言わせると、幸齢者を検査と薬漬けでヨボヨボにする大学病院の医師こそ悪徳医師です。反対に、幸齢者を美しくして、生きる意欲を高める美容外科医は立派です。元気を奪う医療か、元気をもらう医療か? 足りないものを補充して元気をもらえるなら、それがいちばんいいに決まってます。