ホストとしてはじめて迎える強制指名日。丁寧に髭をそり、髪を整え、君に逢いにいく。
#6 下町ホスト
父親が残した乱雑に複数の小さな円が描かれているネクタイは真新しく、貧相な胸元を隠すようにそれを結ぶ
いつもよりワイシャツが透けて、素肌が昨日より鮮明に浮き出て見える
ネクタイは、ツルツルとした素材で、思うように結べず、幾度も解いてまた結び、理想の長さへ近づけた
新しい歯ブラシを取り出し、均等に三色で構成されている歯磨き粉を、幾千もの繊維の上にやや多めに乗せる
深爪気味の指で掴んだブラシを乾いた口内へ勢いよく入れ、上下左右に動かす
三色の歯磨き粉が、かろうじて捻出される唾液と混ざり合い、泡状の白濁した液体となって歯の表面を削ってゆく
昨日より少し強い力が歯茎に傷を付け、少量の出血をするが、気にせず細部まで磨く
血液と白濁した液体が混ざり合って桃色になり、やがて白色に呑まれる
いよいよ右腕に疲労を感じ、口から白濁した液体が溢れかけた頃、水道水を左手で掬い、口内で乱雑な水流を作り、古びた洗面台に吐き出す
白濁した液体は、あっという間に排水溝に吸い込まれる
あまり濃い方ではないであろう、口まわりの中途半端な髭に固形石鹸を泡立てたものを塗りたくり、刃が錆びかけているカミソリで丁寧に剥ぎ取ってゆく
ジョリジョリと理想的な音とは程遠い音と共に、皮膚が引っ張られ、その度に出血していないか確認をした
剃りにくい場所は、口を様々な形に変化させ、柔軟に対応する
一通り、顔面のチェックを終えて、目線を上げる
寝癖の影響を受けて、複雑な形をしている髪の毛は、一度濡らしてから熱風で乾かす
使い心地が英語で記されている丸い紫色のワックスを手に取り、時計と逆向きに回して蓋を開ける
それを両手に練り込み、髪の毛全体をかき上げてから、前方へ思いっきり戻す
ゆっくりと細かな束をつくり、髪本来の流れに沿って積み重ねてゆく
眉間の間に意図的にひと束残してみた
わざわざ自らを複雑にするように、ワイシャツの上にベストを着て、人工的な薔薇の香りがまだ香るスーツを羽織り、浅い絶望を昨夜知った革靴に足を入れる
今から、チャリンとベルを鳴らす君に逢いにいく
手が湿って、喉が渇いている
顔が赤くなるのを恐れ、鬼すら殺すらしい酒を飲むのはやめた
家族の寝息を邪魔をせずに、静かに家を出る
私の誠実なはずの自転車に乗り、またあの街へゆく
しばらく自転車を漕ぎ、大きな公園に入る
誰かを歓迎しているように、木々が揺れ、静寂な音が両耳を塞ぐ
澄み切った酸素は、全身を包み、私の吐く白い息が足跡へ変わる
私の幸福を知りたがる自転車は徐々にスピードを上げ、ついに心臓の鼓動を追い越す
腐ってはいなかった商店街のアーケードを抜け、駅の近くの駐輪場に誠実な自転車を停める
もう営業することは無さそうな、海鮮居酒屋の窓で髪の毛を直し、余白のない煙草に火をつけて、特に何の変化もない空を見上げる
白子のような雲がゆったり西へ移動し、やがて大きなもつれ雲に呑まれた
煙草の根元まで吸いきり、君のいる喫茶店に向けて右足を踏み出す
ポケットに入れていた、薄荷の錠剤を噛み砕き、緊張を舌の痛みで紛らわせる
こじんまりとしたL字型の喫茶店に入ると、君はスポットライトのような照明に襟元に装飾のあるブラウスと共に照らされキラキラと光っている
右脚を組んだまま、細長い煙草を吸い、窓の外を見ている
君が吐いたであろう煙が、薄いベールのように君の周りを漂う
美しく整った横顔は、私が君の息子に勉強を教えていた頃とは、全くの別人に見えた
君を探すふりをして、キョロキョロしながら不器用に近づいてゆく
いち早く、気づいた君は、にっこりと声を出さずに口角を上げ、こちらへ手を大きく振った
正面の椅子に座ると、君は少し茶色い潤った瞳を近づけた
飲み物のオーダーを赤い口紅を僅かに広げながら私に尋ねる
君と同じ、柑橘系のソフトドリンクを注文して、乾杯をする
会話をしながら少し長い碧色のネイルで時折、私の指に触れる
握りしめたい衝動と美しい青年の言葉が脳内でせめぎ合い、答えを出せないまま奥歯を噛んで汗ばんだ自らの掌を握りしめた
柑橘系のソフトドリンクは残り僅かで、君は少しお酒が飲みたいと小さな声で呟いた
私も飲む意志を伝えたが、ここではなく場所を変えようと提案される
会計はとっくに済んでおり、申し訳なさそうにしていると、ポンと小さな手で頭を撫でられた
喫茶店を出て、君は寒そうに体を丸める
私は理性が保てる範囲まで近寄り、風除けになれるよう一歩前に出た
しかし君は、私の手を引き、ゆっくり一本一本指を絡めて、先ほどの範囲を美しく壊す
細く冷たい小さな手が、私の生温く濡れている手によって、ゆったり温度を取り戻した頃、近くのバーに到着した
カウンターしかなく、ホストクラブより暗い照明の中で計算されたように、頬が赤みを帯びる君の横顔が、何故か美しい青年と重なって見えた
行きつけのバーであるためか、オーダーを聞かれる前に、君のテーブルに見たことのない形状の酒がやってきた
私も同じものをと伝えたが、君に却下され、至って凡庸な見慣れた酒をすっと出された
もう一度、規律が乱れた距離で乾杯し、柔らかいフルーツが熟成してゆくような香りの中で少しずつ私は熱を帯びてゆく
君がグラスの水滴を指で撫でながら、唇を開く
私、ストローって曲げないで使っちゃうんだよね
なんか曲げると痛そうじゃない?
返答に困ってしまい、それ以降、だんだん君の口数は減り、代わりに規律が乱れた距離が更に近くなり、私の肩に小ぶりの頭をちょこんと置いた
君は暫くして右手を私の太ももの上に置き、動揺している瞳の行く末をニヤリとしながら見つめる
瞬く間に時間は過ぎて、また会計はとっくに終わっていた
また申し訳なさそうな顔をしていると、耳元で君が吐息混じりに呟く
次どんな顔するか期待してる
外の冷たい空気を吸いながら、数本の指がしっかり絡まった状態で、店へ向かう
私は君の担当ホストになった
朝が来る今日は私の日なんだね白いドレスはさっさと剥いて
肉剥げば白骨となる生物が踊っていたり喰われていたり
前髪をMの形に整えて逃げ場所のない鏡に映る
蛆虫の不平不満をにっこりと小蝿を踏んで聞いてごらんよ
言い訳で隔てた空を二分してしっかり君は永遠じゃない
歌舞伎町で待っている君を
歌舞伎町のホストで寿司屋のSHUNが短歌とエッセイで綴る夜の街、夜の生き方。