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奈良監獄から脱獄せよ

2023.09.05 公開 ツイート

序-2 学校をやめて結婚することに絶望した女学生。教師に助けを求めるも…。 和泉桂

時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。

(1話目から読む方はこちらから)

*   *   *

意外にも、小鳥の巣に気づいているのはわたしと弓削先生だけのようだ。

つまり、これは二人だけの秘密。

そう考えてどきどきしたけれど、弓削先生は何とも思っていないだろう。小鳥の巣の存在を隠しているわけではないみたいで、暇なときは大っぴらに見に行っているらしい。窓際のわたしの席から、先生が巣を眺めているところが時折見えた。

小鳥は日々成長し、大きくなっているようだ。わたしが精いっぱい背伸びをすると、首を伸ばして餌を待つ雛鳥たちのくちばしが見えるようになってきた。

あとどれくらいで、あの子たちは巣立つのかしら?

数学の授業中、わたしは弓削先生の指を眺めながら、彼らに思いを馳せる。

そのときだ。

何か黒いものが、ガラスの外を横切った気がした。さりげなく視線を向けると、それは大きな一羽のからすだった。

鴉は真っ直ぐにあのくぬぎの木に向かい、近くの木に留とまると不気味な声で鳴いた。

もしかしたら、雛鳥を狙っているのかもしれない。

どうしよう。

親鳥がそばにいても、鴉とでは勝負になるはずがない。このままでは、雛たちが襲われてしまうかもしれない……。

せっかくここまで大きくなったのに。先生が見守ってきたのに。

今すぐにでも走りだしたい気持ちを抑えて、わたしは唇を噛む。

「それで、この交点を線で結びます」

声を上げる代わりに、わたしは弓削先生を凝視した。わたしではだめでも、先生なら何とかしてくれるかもしれない。

先生、こっちを見て。

祈るような思いを抱いていると、弓削先生はわたしに視線を向けた。わたしが視線を外さずに指だけで窓の方向を指すと、先生はつられたようにそちらを見やった。

「そして反対側の……」

唐突に、先生の声が途切れる。外の光を受けて、先生の眼鏡のレンズがちかっと光った気がした。

「先生!?」

声が上がったのは、突然、弓削先生が廊下へ飛び出してしまったからだ。

「どうかなさったの?」

「まあ……」

皆が慌てた様子であたりを見回すが、わたしだけが先生の行く先を知っている。

けれども、それを口に出すのははばかられたし、皆に秘密を知られるのは嫌だった。

このことは、わたしだけの宝物にしたい。

先生はいつも冷たいけれど、大事なものに対してはとてもあたたかい。

わかりづらくても、本当はすごく優しい人なんだ。

そう悟った瞬間から、わたしの中で先生は特別になったのだ。

小鳥が巣立つまでのあいだ、わたしたちは何度かあの木の下で鉢合わせになった。

あと数日だと思うけれど、お別れが待ち遠しいような、淋しいような、そんな気分だった。

複雑な気持ちで家に帰ったその日、お父様が改まった顔でわたしを呼んだ。

「寧子、ここに」

「何ですか?」

居間に腰を下ろしたわたしは、着物姿のお父様をじっと見つめる。

「先方の都合で、おまえの嫁入りを早めてほしいというんだ。卒業まで待ってくださるということだったが、おまえも支度があるし、学校は今月いっぱいでやめなさい」

「あと一年です!」

口答えめいた言葉を発してから、わたしは頬を染めた。

「仕方ないだろう? 太郎君の母君が体調を崩されて、不便だそうなんだよ」

「……わたしは」

そこでわたしはいったん口籠もった。

「もう少し勉強をしたいんです」

「女が勉学なんかして、何になる? 茶も花も満足にできないくせに。それなら料理の一つでも覚えたらどうだ」

かっと胃の奥が熱くなった。

わたしはお母様を振り返ったが、お茶を淹いれているらしく背を向けたままだった。

聞こえているくせに。

「だって」

「寧子さん」

やっとお母様が口を開いたが、「向こうは困ってらっしゃるのよ」と言い添えただけだった。

わたしは女中になりたいわけじゃない。

一度家庭に入ったら、勉強の機会なんて二度とないはずだ。

それもまた、幸せな一生かもしれない。けれども、わたしは生まれて初めて勉強が楽しいと思えるようになっていた。

わたしたちは、まるでかいこだ。まゆに閉じ込められ、羽化を許されずに茹ゆでられて死んでしまう。

何も見えないまま。

恵まれた人生だとわかっていても、それでも、わたしには苦しかった。

その夜、わたしは初めてお父様以外の男の人に宛てて手紙を書いた。

宛先は、弓削先生だった。

先生に、お父様を説得してもらえないだろうか。帝大出の偉い先生なのだから、お父様だって心を動かされるかもしれない。

だって、担任の先生だもの。わたしたちの人生を案じてくれているはず。

興奮していたせいか、布団に入ってからもわたしはちっとも眠れなかった。

翌日、放課後にくぬぎの下で顔を合わせた弓削先生に、わたしは「これ」と封筒を差し出した。

「何ですか?」

「手紙です」

「学校を休むのですか?」

欠席届か何かかと思ったらしく、弓削先生は眼鏡を少し持ち上げて尋ねた。

「いえ、先生に宛てた個人的な手紙です」

「でしたら、読めません」

弓削先生は相変わらずの淡々とした口ぶりだった。

「え?」

「それを受け取ることは、できません。持って帰ってください」

「特別な意味は、ありません」

それは恋文ではなかった。

わたしは学校をやめたくない。やめさせてほしくない。だから、先生にどうにかしてほしく

て。

もう少し、先生のそばに──ううん、学校にいたい。

それだけをしたためた、わたしなりの決意表明だった。

「それでも、僕が教師である以上は、君からの個人的なものは何も受け取れません」

「……」

わたしたちは、仲間だと思っていた。教師と生徒ではあるけれど、小鳥たちの巣立ちを見つめる仲間だと。

だけど、わたしが間違っていた。

何もなかった。

先生とのあいだには、何も。

わたしが言い訳を考えながら何とか笑うのを、先生はどこか気まずそうに、そしてどこか眩しそうに眺めていた。

なぜそんな視線を向けられるのか、わたしにはわからなかった。

ご機嫌ようと挨拶をしなくてはいけないのに、言葉が出てこない。

わたしはよろめくような足取りで、歩きだした。

家に帰ったわたしは、食事を食べたくないと言ってお母様を心配させた。

食欲はないし、そのうえ、どうしても眠れなかった。

どうしてこんなに悲しいのか、布団に潜り込んで考えているうちにやっと思い当たった。

わたしは振られてしまったんだ。

全然、気づいていなかったけれど、先生のことを好きだったんだ。

あれはやっぱり、恋文だったのだろう。

勉強も、恋も、何一つ叶わない──何も。

この先、わたしはさなぎのまま、羽化できずに死んでいくのだ。

たまらなくなって、わたしは起きだして机に向かう。

封筒と便箋を取り出し、宛名には『弓削朋久先生』としたためた。

これが、わたしの人生の最後の手紙になる。

長いことかかって文面をまとめたあと、わたしはもう一度、制服に着替えた。

そして、こっそり家を抜け出す。

最後に目指したのは、女学校だった。

門に鍵はかかっていたけれど、わたしにだってこの程度の塀を乗り越える才覚くらいある。

しらじらとした月明かりに照らされた校庭は、どこか寒々しかった。

あのくぬぎを目指して、わたしは歩を速める。

ちっちっと舌を鳴らして呼んでみたが、鳴き声は聞こえない。

寝ているのだろうか。

ううん、きっと、小鳥はもういないのだろう。

あの子たちは、わたしとは違って自由だった。

生まれ変わりを信じてはいないけれど、もし、それが許されるなら小鳥がいいな。

ほんの一瞬であっても、先生に見つめてもらえるもの。

思ったとおり、倉庫の前には木箱が放置されていた。両手で抱えてそれを運び、あの木の下に置く。

わたしは持っていた腰紐を結わえて長くすると、木箱の上に乗り、その端を上に向けて放り投げる。何度か失敗したけれど、太い枝に上手く引っかかった。数回それを繰り返して、木に巻きつけて輪を作った。

「うん」

ぐっと引っ張ってみても、折れる様子はなく、解けなかった。

わたしはその場で、くるりと一回転してみる。

月明かりの下で、スカートが綺麗な円を描いた。

弓削先生だったら、これは完全な円ではなくて三百六十角形とか言うのかしら?

先生を思い出すと少し楽しくなって、わたしは小さく笑う。

怖いのは、先生に会えなくなることではないの。

この気持ちが、繭の中に閉じ込められたまま、なかったことにされてしまう。それが嫌なの。

「先生、ご機嫌よう」

わたしはできあがった輪に首を入れ、木箱を力強く蹴った。

関連書籍

和泉桂『奈良監獄から脱獄せよ』

数学教師の弓削は冤罪で捕まり、日本初の西洋式監獄である奈良監獄に収監されていた。ある日、殺人と放火の罪で無期懲役刑となった印刷工の羽嶋が収監される。羽嶋も自分と同じく冤罪だったことを知った弓削は、彼とともに脱獄をたくらむ。典獄からの嫌がらせ。看守の暴力で亡くなった友人。奈良監獄を作った先輩からの期待。嵐の夜、ついに脱獄を実行する――。 人気BL作家が描く、究極の友情。

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