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パライソのどん底

2023.03.29 公開 ポスト

「贄」の章 ためしよみ 第9回

#9 この村にはあと十年は絶対に近付かないこと。見たこと聞いたこと全て、外の人間に口外しないこと。そして最後に、妹が死んだことは忘れなさい。芦花公園(小説家)

発売前からざわざわ…、発売してからますますざわざわしている、芦花公園さんの新刊『パライソのどん底』。

ここでは、第1章「贄(にえ)」の章を特別公開。これまでになく艶めかしい、芦花公園発BL系ホラーをお楽しみください。

*   *   *

ぼんやりと天井を見つめている自分を、もう一人の自分が客観的に見つめている、そのように思えた。そしてやっと乖離(かいり)が収まったとき、律の喉から、潰された蛙のような音がする。不快感で溺れそうだった。涙腺が弾けて塩辛いものが溢れる。律は緩慢な動作で痛む首を動かした。歪んだ視界の端で大きなものがのたうっている。そして床に滴る赤黒い血液──鉄臭い。女は鉄臭い、と律は思った。女が倒れている。女の腹からこれは流れている。臭い。女は臭い。だから。

突然呼吸器が詰まり、激しく咳き込んだ。律の体内から信じられないほど汚らしいヘドロが出ていく。ヘドロを吐く苦しみよりも、それと同時についさっきまで体の芯まで満ちていた幸福が溶け出していくのがひたすら悲しかった。

それが全て抜け出すと、すぐに耳が戻った。よく聞こえる。女の、母親の嗚咽。父親の慟哭。そして──

「あんず」

笑っていた。杏子は腹を破られてなお、幸せそうに律を見ている。

おねえちゃんごめんなさい、りっちゃんだいすき、うわ言のようにくりかえしてから、杏子は首をガクリと落とした。 ようやっと律は理解した。壊れかけてうまく働かない律の脳でも、理解することができたのだ。杏子は律の身代わりとなって、捧げてしまったのだということを。

(写真:iStock.com/beekeepx)

杏子の腹を食い破ったものは床を跳ねまわっている。嬉しそうに鱗まみれの体を輝かせて。悪寒が背筋を駆け抜ける。もう吐けるものなど残っていない胃から、酸っぱいものがせり上がる。律は祈った。一度も祈ったことがない、イエスや、ブッダや、他の何かに、どうか、杏子を元に戻してくださいと。しかし、何も起こらない。胃液だけが、床に吐き出されていく。目の前の鱗まみれのなにかに吐きかけてやれば時間が戻るだろうか。杏子はまた笑って律に微笑みかけてくれるだろうか。

律は杏子に何もしていない。彼女を使いつぶして、田舎者だと見下して、足にじゃれついてくる野良犬くらいにしか思っていなかった。

杏子の甘ったるい鼻にかかるような声が律の蝸牛(かぎゅう)にこびりついて、これでもう一生取れない。今すぐ解剖されて、腎臓でも肝臓でも心臓でもなんでもいいから取り出され、ブラック・ジャックのような天才外科医が杏子のふかしたてのパンのように柔らかい腹を元通りにする、律の稚拙な妄想は、あり得ないことだと律自身が分かっている。律が泣くことはない。泣けるはずもない。杏子はもう動くことさえも許されないのだから。

イミコは舌打ちをして律の方を一瞥すると、両親に近寄り、

「大変申し訳ありません、失敗しました。本当にどうしようもなく不出来な妹……許していただけるとは思っておりませんが、事態は急を要します。私はこれをなんとかしますので、あなたがたは夜が明けてからすぐこの村を出てください」

イミコはのたうつ何かを床から引きはがし、白い布でくるんだ。そして律と目が合うと、口を奇妙な形に歪めた。しかしそれは一瞬のことで、整った仮面のような顔は徐々に自然な笑顔に変わっていく。

『林檎と杏子、どっちもフルーツ、ちょっと可愛いでしょ』

何故笑っているのか、笑えるのか、律には分からなかった。

「ああ、急に出ろと言っても不可能ですね。村を出るのは息子さんだけで大丈夫です。まだぼんやりしているようですから連れていってあげてください」

おずおずと母が立ち上がり、律を抱え込むように腕を回した。少し遅れて父が来て、律は両脇をかかえられて部屋を後にすることになった。

一度だけ、律は首を回してイミコを見た。口の端を吊り上げて、白い布をおしそうに撫でていた。

 

「では確認になりますが、この三点は絶対に守ってください。この村にはあと十年は絶対に近付かないこと。お祖父様がどうなってもです。律君だけは絶対に駄目です。見たこと聞いたこと全て、外の人間に口外しないこと。そして最後に、妹が死んだことは忘れなさい。あなたがどう後悔したところであの子は戻ってこないし、あの子だって覚悟していたことでしょうよ」

中山林檎は鈴を転がすような声で相馬律とその母親に言った。相馬律の目は虚ろだが、しっかりと耳は働いているようで、力なく頷く。

夜明けを迎えた森山郡の空気は澄み切っている。空はうす白んで、なんだか眩しい。手配したハイヤーの運転手に適当な挨拶をして、荷物を積み込んでいく。どうやら相馬律は一時的に、彼の母親の実家に身を寄せることになったようだ。

母親に促されて相馬律は頭を下げ、絞り出すようにありがとうございます、と低い声で言った。そしてのろのろとハイヤーに乗り込むと、ドアが閉まる。

「お母さま、大丈夫ですよ。何も心配はありません。少し待っていただくことになるだけですから」

不安そうに見上げてくる母親の視線を内心鬱陶しく思いながら、わざと芝居がかった口調で林檎は答える。手を握ってやると幾分か安心したようで、頭を下げて感謝の言葉を述べた。車が出発してからも母親はこちらを何度も振り返り、林檎もまた、車が完全に見えなくなるまで笑顔で見送った。

(写真:iStock.com/gtlv)

「今年はやっちまったなあ」

後ろで今回七十を迎える山田乙楠(おとぐす)が言った。村民たちも神妙な顔で頷く。

「イミコさま、一体どうするつもりなんでしょうねえ」

ああ、どうしようもない馬鹿どものくせに、余計なことを考えなくていいのですよ。

本音は言わない。馬鹿に馬鹿だという自覚を持たせてはいけない。笑顔を崩さずに林檎は答える。

「皆さん、何も問題はないのです。順調です」

「順調ったって、行ってしまったじゃないですか」

乙楠がかさついた口唇から唾を飛ばして言った。

最初はイミコさまに意見するのはどうか、などと言っていた者たちまでも、彼に同調してぽつりぽつりと声を上げる。

そうだよなあ、どうするんだよ、戻ってくるのか、またやってくるのか、そんなことを、誰が言ったか分からないように、下を向いてぼそぼそと。

「十年、たった十年ですよ」

「たった?」

乙楠はどろりと濁った目で、

 

「そりゃあ、そうですよねえ。たった、だ。イミコさまにとっても、ほとんどのお前たちにとっても、たった、だよなあ。でも俺は十年後、生きているかも分からねえんだぞ」ああ、本当に、どうしようもない馬鹿だ、と林檎は思う。自分で何を言っているかも分からないのだから、確かに十年も経ったら死んでいるかもしれない。

「長く感じますか? しかし、乙楠さんは今、食用花を育てているのでは? 随分、お勉強されたのですね。景気が良いと聞いておりますよ」

乙楠は林檎の意図を測りかねて、「それがどうしたってんだ」とぶつくさ言った。

「それであればご存じのはず。時間をかけてゆっくり丁寧に育てた畑に、どれほど極上の味の花が咲くのか」

乙楠は引き下がったものの、まだ納得がいかないというように口をもごもごと動かしている。まったく馬鹿という生き物は救えない。林檎は乙楠のしわだらけの目尻を見ながら、やはりこんな馬鹿になり下がっては終わりだ、と強く思う。

それにしても、馬鹿と言えば杏子もだ。馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、それでも、村民どもよりは幾分かマシだと思っていた杏子が、ここまで底抜けの馬鹿だとは思いもしなかった。ほんの数か月の付き合いの少年のために命を投げ出すとは、信じがたい。体の関係はあったようだが、それは巫女のルーティンワークのようなものだったはずなのに。何の情が生まれたというのか。私の方がまだ、彼に思い入れがあってもいいくらいだ。

でも、杏子の馬鹿の方向性は、かつての自分によく似ていた。それが分かっていたから、僅かな時間を一緒に過ごしただけの間柄ではあったが、杏子の顔を思い出すと林檎の胸はほんの少し痛む。

林檎は自らの頬を打った。そんな下らない、阿呆のような感情を追い出すために。こんな感傷は不要なものだ。

馬鹿が馬鹿なことをして、死んだ。そして、馬鹿のせいで、少し遅れた。

それだけのことだ。それをどうにかすることが、イミコの役割だ。

イレギュラーなことは、新たな発見を生むかもしれない。「何事も観察から始まるのだ」という、父の言葉が蘇る。林檎は少し笑った。こんなときに父親のことを思い出すなんて、自分にも馬鹿が感染したのかもしれない。

林檎が顔を上げると、馬鹿の村民たちが、イミコさまの次の言葉を口を開けて待っている。林檎は微笑んで、

「さあ、皆さんまたいつものように過ごしましょう。あと十年、十年経てば、限りない幸福が皆さんを待っているのですから!」

(写真:iStock.com/Koshiro Kiyota)

―ー続く「愛」の章は、本書でお楽しみください!

関連書籍

芦花公園『パライソのどん底』

男の首筋に浮き出す血管を数えたことも、くっきりとした白い喉仏に噛みつきたいと思ったこともなかった。“美しすぎる彼”に出会うまでは――。 それぞれの“欲望”と、それぞれの“絶望”が絡まり合い、衝撃の結末へ。

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パライソのどん底

男の首筋に浮き出す血管を数えたことも、くっきりとした白い喉仏に噛みつきたいと思ったこともなかった。“美しすぎる彼”に出会うまでは――。それぞれの“欲望”と、それぞれの“絶望”が絡まり合い、衝撃の結末へ。
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*   *   *

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ある日、律の家の玄関が、狂い咲きした花で埋め尽くされる。すると、”花の意味”を知る、神社の“忌子”から、「アレに魅入られると、死にますよ」と告げられる―ー。

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芦花公園 小説家

東京都生まれ。小説投稿サイト「カクヨム」に掲載し、Twitterなどで話題になった「ほねがらみ―某所怪談レポート―」を書籍化した『ほねがらみ』にてデビュー、ホラー界の新星として、たちまち注目を集める。その他の著書に『異端の祝祭』『漆黒の慕情』『聖者の落角』の「佐々木事務所」シリーズ(角川ホラー文庫)、『とらすの子』(東京創元社)、『パライソのどん底』(幻冬舎)ほか。「ベストホラー2022《国内部門》」(ツイッター読者投票企画)で1位・2位を独占し、話題を攫った、今最も注目の作家。

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