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探究する精神

2022.10.07 公開 ツイート

ノーベル物理学賞を受賞したアラン・アスペさんと英会話教室 大栗博司

2022年のノーベル物理学賞は、「量子もつれの実験でベルの不等式の破れを立証し、量子情報科学を切り開いた」という業績で、アラン・アスペさん、ジョン・クラウザーさん、アントン・ツァイリンガーさんの3氏が受賞。大栗博司さんの予想が的中しました。

(写真:PIXTA/Royal Society,Wikimedhia Commons )

実は大栗さんは、大学4年生のときに、講演で来日したアスペさんに質問をしていました。そのときのエピソードを、『探究する精神~職業としての基礎科学』から抜粋してお届けします。

*   *   *

私は学部の最後の年に半年だけ英会話学校に通いました。それには理由がありました。

量子力学の世界では私たちの直感に反する現象が起き、その解釈に関してはまだ解決していない問題がいくつかあります。これらは総称して「量子力学の基礎問題」と呼ばれています。

最近は量子コンピュータの技術の進歩によってホットな話題となりましたが、私が学生の頃には年を取って最先端の研究ができなくなった先生がやるものだと言われていました。しかし私はどういうわけか学部生の時に興味を持って勉強していました。

私が四年生の時に、量子力学の基礎問題に登場する「ベルの不等式」の実験に成功したフランスのアラン・アスペさんが京都に講演にいらっしゃいました。めったにない機会なので、この不等式に関する文献を読んでから講演を聞きに行きました。

ベルの不等式は二つの量子の間の「もつれ」と呼ばれる関係を特徴づけるものです。私は講演を聞いているうちに、三つ以上の量子についても同じようなもつれの状態がありそれに関する不等式があるのではないかと思いつきました。そこで講演の終わりに手を挙げて質問しました。しかし英会話に慣れていなかったのでうまく伝えられませんでした。

これはいけない。せっかくいいことを思いついても英語で表現できないと意味がないと思い、大学の隣にあったブリティッシュ・カウンシル(英国文化振興会)の英会話教室に通いました。ブリティッシュ・カウンシルは、第二次世界大戦前のファシズムが台頭しつつある時代に国際的な影響力の衰えを自覚した英国が、英語や英国文化の普及を目的として設立した国際文化交流機関です。

そこで学んだことはいくつかあります。ひとつは、相手が自分の言葉をどのように受け止めるかをよく考えて説得力のある表現をする技術です。英会話の礼儀作法についても学びました。英語には敬語がありません。しかし、だからと言って誰にでもフランクに話をするのがよいわけではありません。日本語と同じ仕組みの敬語はなくても、別の方法で相手に敬意を払うことはできます。お互いの関係に応じた適切な表現をすることの大切さは日本語でも英語でも変わりません。

前置詞の使い方などの英語の技術も磨きました。英語の前置詞は日本語の助詞と同じように大切で、うまく使うとわかりやすい英語になります。

英会話の技術とスタイルの両面で影響を受けた教室でした。

日本と英国はどちらも島国です。しかしコミュニケーションの技術では二つの国民は大きく異なります。大陸ヨーロッパとの一〇〇〇年以上にわたる外交の歴史で鍛えられた交渉力と、全世界に広がった植民地を経営した経験からくる異文化への対応の経験――それは負の歴史でもありますが――を持つ老練な国が、自国の言語や文化の振興や広報のために運営している会話教室で学んだことは、その後の海外生活でとても役に立ちました。

ところで、私がアスペさんの講演の最後に質問しようとした三つ以上の量子がもつれた状態に関しては、後に他の研究者が論文として発表し、今では彼らの頭文字からとった名前でよく知られています。アスペさんにはうまく説明できなくても研究しておけばよかったのかもしれません。しかし、南部陽一郎さんから「取り逃した仕事がいくつかあるくらいでなければ駄目だ」と言われたことがあるので、そのひとつに数えることにしています。

*   *   *

ちなみに、ここに出てくる「三つ以上の量子がもつれた状態」は「GHZ状態」として知られています。Zは、今回のアスペさんとともにノーベル賞を受賞されるツァイリンガーさんの頭文字です。

関連書籍

大栗博司『探究する精神 職業としての基礎科学』

自然界の真理の発見を目的とする基礎科学は、応用科学と比べて「役に立たない研究」と言われる。しかし歴史上、人類に大きな恩恵をもたらした発見の多くが、一見すると役に立たない研究から生まれている。そしてそのような真に価値ある研究の原動力となるのが、自分が面白いと思うことを真剣に考え抜く「探究心」だ――世界で活躍する物理学者が、少年時代の本との出会いから武者修行の日々、若手研究者の育成にも尽力する現在までの半生を振り返る。これから学問を志す人、生涯学び続けたいすべての人に贈る一冊。

大栗博司『重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る』

私たちを地球につなぎ止めている重力は、宇宙を支配する力でもある。重力の強さが少しでも違ったら、星も生命も生まれなかった。「弱い」「消せる」「どんなものにも等しく働く」など不思議な性質があり、まだその働きが解明されていない重力。重力の謎は、宇宙そのものの謎と深くつながっている。いま重力研究は、ニュートン、アインシュタインに続き、第三の黄金期を迎えている。時間と空間が伸び縮みする相対論の世界から、ホーキングを経て、宇宙は10次元だと考える超弦理論へ。重力をめぐる冒険の物語。

佐々木閑/大栗博司『真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話』

心の働きを微細に観察し、人間の真理を追究した釈迦の仏教。自然法則の発見を通して、宇宙の真理を追究した近代科学。アプローチこそ違うが、この世の真理を求めて両者が到達したのは、「人生の目的はあらかじめ与えられているものでなく、そもそも生きることに意味はない」という結論だった。そのような世界で、人はどうしたら絶望せずに生きられるのか。なぜ物事を正しく見ることが必要なのか。当代一流の仏教学者と物理学者が、古代釈迦の教えから最先端の科学まで縦横無尽に語り尽くす。

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探究する精神

世界で活躍する物理学者が、少年時代の本との出会いから武者修行の日々、若手研究者の育成にも尽力する現在までの半生を振り返る。これから学問を志す人、生涯学び続けたいすべての人に贈る一冊。

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大栗博司

カリフォルニア工科大学 ウォルター・バーク理論物理学研究所所長、フレッド・カブリ冠教授、数学・物理・天文部門副部門長。東京大学カブリIPMU 主任研究員も務める。1962年生まれ。京都大学理学部卒、東京大学理学博士。東京大学助手、プリンストン高等研究所研究員、シカゴ大学助教授、京都大学助教授、カリフォルニア大学バークレイ校教授などを歴任。専門は素粒子論。2008年アイゼンバッド賞(アメリカ数学会)、高木レクチャー(日本数学会)、09年フンボルト賞、仁科記念賞、12年サイモンズ研究賞、アメリカ数学会フェロー。著書に『重力とは何か』『強い力と弱い力』(幻冬舎新書)、『大栗先生の超弦理論入門』(ブルーバックス)、『素粒子論のランドスケープ』(数学書房)がある。

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