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文化系ママさんダイアリー

2008.11.15 公開 ツイート

第二十回

「35歳からの歯科矯正」の巻 堀越英美

 妊娠が発覚した明くる日の夜、私は夢の中で石立鉄男になっていた。

 ペルシャ絨毯の販売で一儲けしようと目論む石立鉄男こと私。しかしペルシャ人に騙されてただのネル生地を大量に購入してしまう。多額の借金を抱えた鉄男は生命保険で借金を返そうと自殺。教会での葬式は、棺桶から死体が飛び出すドッキリショーで幕を開ける。ノコギリを持ったマジシャンの入場。「今からこの死体を切断してお目にかけましょう」。死体を切断しても意味がない......いや、実は石立鉄男は生きていて、舞台裏で待機していたのだ。しかし客が邪魔でなかなか入れ替わることができない......。

 ワケワカメな(石立鉄男だけに)悪夢にプルプル震える私に、知人がこう教えてくれた。自分が死ぬ夢は「生まれ変わる自分を暗示」するもので、「何らかの意識変革が起きた時」に見るのだと。

 確かにそのときの私は、怠け人生にピリオドを打たねばならない、という強迫観念に苛まされていた。お母さんになったら休みの日に昼まで寝ることもできない。1日3食健康的な食事を作らなくちゃいけない。お弁当も作らなくちゃいけない。自分自身のしつけがおぼつかないまま子どもをしつけなくてはいけない。手洗い、うがい、歯磨き、箸の持ち方からみだしなみ、家事全般etc.......「正しいお母さん」像と自分との乖離に気が遠くなる。3度のメシより怠けることが好きな私に務まるのだろうか。いや、務まらなくても他にやる人はいないのだ。もう「薄汚ねぇシンデレラ」のままじゃいられないのね......そんな私の諦念が、石立鉄男を夢の中に呼び寄せたのだろう(意味がわからないヤングの皆さんは軽く読み飛ばしてください)。

 女は妊娠したときから母親になれるが男は意識しないと父親になれない、という言いぐさをよく見かけるが、私という反例をもって全否定したい。妊娠したときから母親になれるのは、もともとちゃんとしてる人だけ! 威張って言うことでもないけど。

 ちゃんとしてる人もちゃんとしてない人も、普通は覚悟の上で妊娠するのだろうが、私にその覚悟はなかった。「子どもを作ろう」という意志すら曖昧だった。正確には、「子どもを作る」または「子どもを作らない」ということを、自分の意志で選ぶのが怖かったのだ。人命なんて大それたものを、私の思いつきでどうにかしていいものなんだろうか。しかしこのまま行けば、自動的に私は「子どもを作らない」という選択をすることになる。だから運命を天にまかせてみることにした。婉曲的に言えば、ロシアンルーレット方式でぶっぱなしてみたところ、一発目で命中、という顛末だったのである。あら、婉曲表現のつもりが結構ストレート。

 こんなボンヤリ受精だから、いざ子どもがまろび出ても精神変革が起きる気配はなかった。もっとも、子どもが新生児の頃は「正しいお母さん」である必要は特にない。乞われるままに乳をあげてオムツを替えてお風呂に入れて着替えさせるだけ。それが間断なく続くから大変といえば大変なのだけど、決まったタスクをこなせばいいだけのことである。赤子の世話に明け暮れて、いつしか妊婦時代の強迫観念も忘れていた。

 しかし出産2ヶ月後に診てもらった歯科医でのこと。妊娠後期は胃が圧迫されて歯を磨くたびに吐いてたし、出産中の3日間は吐いてばかりで歯を磨く余裕もなかったし、出産後は赤ちゃん相手しながらのダラダラ食いだしで、胃酸で歯が大変なことになってるだろうな~と意を決して来院してみれば、なんと虫歯が5本。妊娠中の歯科検診では虫歯ゼロだったから、4ヶ月の間に虫歯菌が大フィーバーしていたみたいだ。

 いったい虫歯ほど人の心を鬱にさせるものがあるだろうか。治療中は自分のだらしなさ、投げやりさ、その結果としての口内の惨状に自己嫌悪に陥り、その精神的圧迫に耐えかねて歯並びの悪さに責任を転嫁し、歯の矯正など考えも及ばなかった育ちの悪さを恨み、自分の子供は虫歯菌が住み着かないように気をつけてやろうと意を新たにし、でもこんな歯では子供が大きくなるまで生きていられるかしらと気分が落ち、演技のために歯を全部抜いた三國連太郎が80歳過ぎまで生きていることを思い出してあっさり持ち直し、精神的に忙しいことこのうえない。

 長生き云々はともかく、診察台の上で虫歯だらけの恥ずかしい歯を開陳しているだけで、自分の母親としての正しくなさが見破られているような気すらしてくる。今はまだ何もわからない乳児時代だからまだいい。子どもがもう少し大きくなって、「お母さんなんで歯並びが悪いの?育ちが悪いの?なんで他のお母さんより老けてみえるの?空気読めないの?バカなの?奇をてらってるの?」なんて鳥居みゆきばりにピュアーな瞳で問い詰められたらどうしよう。20代の頃「歯科矯正したらかわいくなるよ」と言われても、「えーでも痛い思いまでしてモテたくないしー」とノラクラかわしていた私も、子どもからのダメ出しは想像でもつらいのだった。

 子どもが物心つく前に歯並びを直すには今しかない。30代半ばにもなって歯科矯正する人間はかなり珍しいと思うが、小さな子がいては人前に出ることもままならないのだし、矯正器具をつけるにはうってつけの時期だとも言える。矯正治療中は1ヶ月に1度は虫歯がないかをチェックできるから、虫歯菌を子どもにうつす機会を減らすという意味でも好都合だ。

 とはいえ、大人になってからの歯科矯正のネックは、歯を抜かなければならないことと、高額な費用。これが気がかりで、矯正医にかかることを渋り続けてまる1年。1歳を過ぎた我が子は美醜を見分けられるようになったのか、きれいな花をうっとりと見つめるようになった。マズイ、もう先には延ばせない......。

 こういうわけで、私の上の歯列は1本抜けた間抜けな状況にある。あともう1本抜いてから、例の矯正器具をつけることになるようだ。歯科矯正がどれほど痛いのか見当もつかないが、早く着けてほしい気持ちでいっぱい。なんだか歯並びがそろったら、「正しいお母さん」への一歩を踏み出せる気がしているのである

 しかし何度も書いているうちに「正しいお母さん」がなんなのか、よくわからなくなってきた。教育再生会議に参加する専業主婦はさしづめ「正しいお母さん」の最終形態と言えるだろうが、それ泰葉ママ(海老名香葉子)だもんなあ。いったい私はどこに向かうつもりなんだろう。 

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フニャ~。 泣き声の主は5ヶ月ほど前におのれの股からひりだしたばかりの、普通に母乳で育てられている赤ちゃん。もちろんまだしゃべれない。どうしてこんなことに!!??

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堀越英美

1973年生まれ。早稲田大学文学部卒業。IT系企業勤務を経てライター。「ユリイカ文化系女子カタログ」などに執筆。共著に「ウェブログ入門」「リビドー・ガールズ」。

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