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合戦で読む戦国史

2022.07.01 更新 ツイート

第1回

敵は未曽有の大軍!危機を打開した北条氏康の決断とは? 伊東潤

人気歴史作家が、戦国史の転機となった十二の野戦に着目、新史実を踏まえて勝因・敗因を徹底分析した『合戦で読む戦国史』の試し読みをお届けします。第1回は、天文15年(1546)4月に行われた「北条氏康と河越の戦い」の前編をお送りします。

*   *   *

(写真:iStock.com/Josiah S)

「日本三大奇襲戦」とは

江戸時代の歴史家・頼山陽(らいさんよう)の『日本外史』において、桶狭間・嚴島両合戦と並び「日本三大奇襲戦」の一つとされた河越夜戦について、本章では取り上げたい。

この三戦は奇襲というだけでなく、兵力的に劣勢にある方が優勢な敵を完膚(かんぷ)なきまでに打ち破り、敵主将の首を取ったという点で共通している。

しかし第二章「毛利元就と嚴島の戦い」で改めて述べるが、正真正銘の奇襲戦は、「嚴島の戦い」だけだろう。というのも、奇襲とは「敵の予期しない時期・場所・方法で、組織的な攻撃を加えることにより、敵を混乱させ、反撃の猶予を与えないこと」だからだ。つまり敵に存在を知られている「河越の戦い」は奇襲とは言い難く、また正面強襲説が定説化しつつある「桶狭間の戦い」も同様だからだ。

しかも最近になり、「河越の戦い」は何回かの戦いの集積と考えられるようになってきた。というのも、この合戦については、軍記物が伝える内容を除けば、その経緯や詳細についての史料が皆無ということもあるからだ。

分かっていることは激戦の果てに北条(ほうじょう)方が勝利し、その後の関東制圧への道筋をつけたことくらいだろう。北条氏と戦った山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがや)両上杉氏と古河(こが)公方のその後の凋落ぶりを見れば、この戦いが関東戦国史において、いかに重要な岐路となったか分かろうというものだ。

本章では軍記物の記載とわずかな史料を基に、この戦いを再構成し、そこから学べることを抽出していきたいと思う。

河越という土地

古来、武蔵国の中心として栄えていた河越の地は、河川の氾濫(はんらん)は多いものの、周辺には肥沃な土地が広がり、農業生産性も高かった。その証拠に「河越」という地名の由来は「河肥」、すなわち複数の河川が運ぶ堆積(たいせき)物により、土地が肥沃なことから付けられたとされる。

戦国時代に入ると、河川交通の中継地として河越は注目されるようになる。河越の周辺には、荒川、入間(いるま)川、河岸(かし)川といった河川や、その支流が錯綜するように走り、まさに南北関東を結ぶ河川交通の結節点になっていた。それゆえ、いくつもの川を越えねばならないことから、「河越」という地名が生まれたという説もある。

戦国中期から後期の戦いが、「交通の要衝」すなわち交通を押さえる地の争奪に重きが置かれ、それを奪われた方が衰微していくことからも分かる通り、河越合戦の帰趨(きすう)が、その後の関東の勢力図を塗り替えたことは明らかであろう。

河越城の縄張り

さて河越合戦の焦点となるのが河越城だ。まずはこの城の概要から見ていこう。入間川の作り出す氾濫原に南以外の三方を守られている河越城は、比高十メートルほどの舌状(ぜつじょう)台地上にあり、攻め口は南と南西に限られていた。

この河越の台地に太田道真(おおたどうしん)・道灌(どうかん)父子が城を築いたのは、長禄元年(一四五七)と言われる。その後、北条氏二代当主の氏綱(うじつな)に奪われる天文六年(一五三七)まで、八十年余にわたり、太田家の主君の相模守護職・扇谷上杉氏の本拠となっていた。

北条方に奪われてからも、扇谷上杉方は幾度となく河越城の奪回を試みるが、その度に北条方に弾き返されている。河越城は平城に毛が生えた程度の台地城だが、寄手にとって厄介な湿地帯が城の周囲を取り巻いており、攻めるに難い城だったからだ。

当時の縄張りは全く伝わっていないが、輪郭式平城だったと言われている。おそらく水堀と空堀が、曲輪の間に入り込んだ複雑なものだったのだろう。

湿地帯の平城は、水の手を絶たれると手も足も出ない山城と違って抗堪性(こうたんせい)が高く、籠城戦に適している。小田原合戦における小田原城もそうだが、豊臣(とよとみ)方の大軍をもってしても遂に落とせなかった忍(おし)城などは、その典型だろう。

河越合戦に至るまでの経緯

天文十四年(一五四五)八月、今川義元(いまがわよしもと)が北条氏の領有する河東(かとう)地域(富士川以東の駿河国)への侵攻を図ってきた。今川氏と同盟している武田晴信(たけだはるのぶ)も、北方から北条領を牽制する。

この危機に際し、北条氏三代当主の氏康(うじやす)は自ら出馬し、今川方を押し返すつもりでいた。ところが、小田原で出陣の支度をする氏康の許に驚くべき知らせが届く。関東管領の山内上杉憲政(のりまさ)と扇谷上杉朝定(ともさだ)が、河越城を包囲したというのだ。さらに氏康の妹婿にあたる古河公方・足利晴氏(あしかがはるうじ)が敵方として河越城包軍に加わったことで、その総勢は八万に上っているという。

山内上杉憲政は河越城の北西二里半の柏原に着陣し、城から一里半ほど西の上戸(うわど)に先手を置いた。一方の扇谷上杉朝定は一里ほど南の砂久保(すなくぼ)に陣を布いていた。また城の東方一里には公方晴氏が、北方二里には岩付城主・太田全鑑(ぜんかん)(資顕〈すけあき〉)の弟の資正(すけまさ)がいた。

これだけ広域に展開する包囲陣も珍しいが、当時の河越城は沼沢地(しょうたくち)に囲まれており、城からの脱出ルートが限られているため、これで十分だった。

河越城には城代の北条綱成(つなしげ)、援将の大道寺盛昌(だいどうじもりまさ)、さらに北条幻庵(げんあん)以下三千余の兵が籠もっているが、これだけの兵力差があっては、城内に逼塞(ひっそく)するしかない。

氏康は駿河国で今川・武田両軍と対峙しつつ、未曽有の大軍に河越城を囲まれるという苦しい状況に追い込まれた。しかし限られた兵力を二方面に割くことは愚策であり、結果的に両方面で敗北を喫する可能性が高くなる。氏康はどちらか一方を放棄し、どちらかに兵を集中させることにした。

駿河国の河東地域を奪われることは、小田原に刃を突き立てられるも同じだ。しかし武蔵国の要衝である河越を奪われることも痛い。

氏康は岐路に立たされたが、その決断は速かった。

十月下旬、氏康は義元と和談を始める。その条件は、河東地域を放棄するという一方的な譲歩だった。だが、この思い切った譲歩によって、氏康は二方面作戦を回避できた。

義元と和睦した氏康は、十一月初旬に全軍を駿河国から撤退させた。それでも氏康はすぐに河越に出陣せず、情報収集に努めた。翌天文十五年(一五四六)三月末頃まで、この膠こうちやく着状態が続く。

おそらくこの間、上杉方は様々な方面から河越城を攻めていたはずだ。というのも連合軍は八万余の兵力を擁しており、これが事実とすれば、長陣による兵糧や馬糧の枯渇(こかつ)こそ最も恐れるべきことだからだ。

大軍とは強力な攻撃力を有するが、兵糧が枯渇すれば瓦解しやすいという諸刃(もろは)の剣(つるぎ)を抱えている。すなわち大軍であればあるほど、速戦即決を指向せねばならない。逆に速戦即決を求めるから大軍を集めるとも考えられる。

一方、この三カ月余、小田原の氏康が何もしなかったわけではない。晴氏に「せめて中立になってくれ」と頼み入ると同時に、憲政に河越城を明け渡す代わりに城兵の解放を求めている。また岩付城の太田全鑑にも調略を仕掛けていた。

晴氏への呼び掛けは聞き入れてもらえず、城兵の解放は憲政に拒否されたものの、全鑑への調略は成功した。ここに一筋の光明が見えてきた。

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「北条氏康と河越の戦い」の後編は、7月8日に配信します。

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伊東潤

1960年神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海 加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で「第1回本屋が選ぶ時代小説大賞」を、『国を蹴った男』で「第34回吉川英治文学新人賞」を、『巨鯨の海』で「第4回山田風太郎賞」を、『峠越え』で「第20回中山義秀文学賞」を、『義烈千秋 天狗党西へ』で「第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)」を受賞。著書に『茶聖』(幻冬舎文庫)、『歴史作家の城めぐり〈増補改訂版〉』(幻冬舎新書)などがある。

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