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さらば、欲望

2022.07.04 更新 ツイート

コロナ禍で明らかになった、死生観なき「経済優先」社会の脆さ 佐伯啓思

グローバル経済の矛盾、民主主義の危うさ、日本人の死生観など、現代の重要な問題を思想家・佐伯啓思さんが文明論的視座から論じた『さらば、欲望~資本主義の隘路をどう脱するか』からの抜粋をお届けします。第3回はコロナ禍で浮き彫りになった生と死をめぐる問題についての論考です。

※記事の最後に佐伯啓思さんの講演会のご案内があります(会場参加&オンライン 7月5日19時~)

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(写真:iStock.com/Robert Way)

カネをばらまいて回して、守られる生命

コロナ禍も2年目に入り、人々の慣れに加え、対処方法が多少はわかってきたために以前ほどの深刻さはなくなっているものの、感染の波はまだまだ続くようだ。もっとも、ワクチン開発も進み、いずれこの新型コロナも通常の季節性の風邪になるというのが大方の見通しである。

「コロナ後」を見据えて、経済は一気に回復するという楽観的期待が株式市場を沸騰させており、しばらくすれば、誰もがすっかりコロナのことなどなかったかのように、経済成長談議にふけっているのであろう。

資本主義経済の楽観的期待を代弁する人々は、ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」よろしく、新型コロナが、環境やデジタル技術、医学や薬理学などのイノベーションを一気に後押しするなどと述べているであろう。

私には、この楽観論がもっともありそうで、かつもっともあってはならない方向だと思われる。コロナ禍の以前からすでに現代の資本主義はほとんど限界に達し、先進国の経済成長は困難になっていたからである。コロナ禍は、資本主義をリセットする絶好の機会なのではなく、資本主義についての思考をリセットする絶好の機会のはずであった。

現代人が陥っている集団的健忘症は、それが生を維持する上での半ば無意識の戦略だとしても、やはり忘れてはならないことはある。さもなければ、われわれは悲惨な経験から何の教訓を学ぶこともできなくなるであろう。

経験からの学習を放棄する文明は、ただ同様の事態を繰り返すだけではなく、その文明自体への自省や懐疑を失うことによって、やがて坂を転げるように転落してゆくであろう。過去の多くの文明が、その内なる過信と慢心によって衰退へ向かったというのは、歴史の示すところでもある。

では今回のコロナ禍からわれわれは何を学んだのであろうか。多くの人はいうであろう。「命の重要さである」と。あるいは「生の貴重さである」と。確かにそうである。だが、まさにその「生が大事」「命が大事」、両方を合わせて「生命こそが大事」が、社会を、人々の精神を分裂させたことを忘れてはならない。

経済も人の動きもすっかり止まった静止画像のなかにわれわれの生活を閉じ込めるという非常の策も「生命の確保」である。しかし、経済を回し、人を動かし、物流を確保する常態化もまた「生命の確保」であった。「生命が大事」がふたつに分裂したのである。

この分裂した「生命」のあり方をつなぎ合わせるものは何かといえば「カネ」であった。政府は「カネ」をばらまいて「生命」をつなぎ止め、また人々もそれを要求した。カネが循環するまではカネを配分しようというのだ。

少なくともほぼあらゆるメディアは政府が「生命を守る」ために多額のカネをばらまくことを要求し続けた。そしてそのカネの相当部分が株式市場へ流れ込み、史上最高値にまではねあがったのである。

こうなると、ひとたびコロナが終息すれば、たちまちすべてがもとへ戻ることは十分に予測できる。再び、グローバルな資本主義の展開、経済成長主義へと回帰するのは当然だともいえよう。経済を止めた代わりにカネをばらまくことで非常時をしのぎさえすれば、その後は本来の経済活動が「生命を守る」はずである。カネをばらまくか、カネを回すかの違いだ。

回す方でいえば、従来のAIやロボットや生命科学に加えて、環境テクノロジーやデジタル・テクノロジーや医療が経済成長の新興請負人として指名される。「コロナ後」の新たな社会へ向けた経済拡張が、われわれの生命を担保することとなる。

コロナ禍が暗示した「死も大事」ということ

だがそれでは困るのだ。理由の第一は、いずれ再び同様の感染症のパンデミックは生じるだろうし、また巨大災害も発生する。そして、かつて寺田寅彦が述べたように、文明の程度が高度化し、有機的な構造が複雑になればなるほど、被害は甚大なものとなるであろう。

さらに第二に、先にも述べたが、現代資本主義は根本的な限界を迎えている。経済成長の追求は、人々の生を豊かにするというよりも、環境、資源、食料、精神の健全性などへの負荷をますます高め、それらを破壊しかねない。それは結果として、われわれの生を著しく不安定化し、破損してゆくであろう。

しかし第三にもっと重要なことがある。そのことを私は特に強調しておきたい。それは、人は「経済」によってのみ生きるものではない、ということである。

「経済」の重要性を根底で支えているものは、「生命の維持と確保」である。今日のような豊かな社会でも、経済を回すことでようやく「生存の確保」が保たれる。「経世済民」にせよ、「オイコノミー」にせよ、経済とは、もともとひとつの社会集団としての人々の生と命の確保を意味していた。経済がもっぱら物的な生産と流通に関わるのは、人間の生が何よりまず物的な意味での生存だからである。

だが、このコロナ禍が、明確にではないにせよ、暗示したのは、人間にとっては「生命が大事」だけではなく「死も大事」ということであった。「死という現実」に目を向けるということである。疫病にせよ感染症にせよ、目に見えない、しかも得体の知れない病原体によって人は常に死に直面している、という事実がそれである。

何もわざわざいうまでもない当たり前のことである。人は必ず死ぬ。生は必ず終わる。それだけのことだ。だがそのことをわれわれは忘れたことにしている。視界から排除する。そして「生」と「命」だけで視界を埋め尽くす。

なぜなら、われわれは、人の死を、「ただそれだけのこと」と受け止めることなどできないからである。それが必然であればあるほど、われわれはその必然の重みを耐えがたく思う。だからこそ、この耐えがたさをあえて視界から追い出すのだろう。

ところが事実は、人は死ぬからこそ生や命をいとおしく思う。死を強く思えば思うほど、生は輝きをもって現れてくる。「生」を善きものとしたいという欲望は、「生」そのものからでてくるのではなく、「死」を前景化するからこそでてくる。「死」はただそれだけの当たり前の事実なのではなく、耐えがたくも逃れがたい必然だからこそ「生」が切実になるのである。

だから「生命は大事」の前提には「死が大事」がある。死はまったく予想を超えた仕方で、突然にやってくる。理不尽に生命を奪う。そのときに、どのように死ぬか、死をどう理解するか、どう受け入れるのか、そしてそれと対比して生をいかに理解するのか。こういう問いが浮かんでは消えてゆく。

端的にいえば、死生観といってもよいのだが、私には「経済」よりも「死生観」の方がいっそう重要だと思われるのだ。死生観といっさい関わらない「生」や「命」は、ただただ生の快楽を追求し、命の延長を追求することだけを自己目的とするほかなかろう。

文明の背後に潜む不気味な破壊者

もちろん「生命」の確保と維持が大事でない、などといっているわけではない。今回のコロナでもしばしばいわれたように、救える命は何としても救うべきであり、感染者の命を預かる医療関係者の命がけの救命治療には頭が下がる。その意味では確かに、生命は決定的に大事なのである。

だがそれでも、この「生命の維持」を根本において第一原則にしてしまうと、その後に続くのは、経済の拡張と医療技術の発展への無条件かつ無邪気な待望でしかない。それしかないのだ。あくことなき「生命の拡張」であるが、それは結局、留まるところを知らない経済成長と技術革新へ向けた競争へ人々を閉じ込める。後は、せいぜい適切な再分配政策によってその成果をできるだけ平等に広く浸透させることだけが、われわれの関心になるであろう。

それでいったい、何が問題なのか、と人はいうだろう。しかもまさしく近代文明はそのことを組織的に展開し追求してきた。それでよいではないか、ともいうだろう。

だが、新型コロナは、この近代文明をあざ笑うかのようにそれに打撃を与えたのではなかったろうか。この文明の表層に点滅する生のイルミネーションの奥底にある何かどうしようもない不気味なものをそれは垣間見せたのではなかったろうか。

突然襲い来る巨大災害と同様、われわれの生や文明の背後には、目に見えない正体のよくわからない微生物状の何か恐るべき不気味な破壊者が潜んでいる。そのことをわれわれは改めて知ったのではなかったか。

そこに経済の成長と科学技術の革新という進歩主義が見落とした決定的な何かがある。そしてわれわれはその何かから目を逸らすことで、われわれ自身を、つまり「人間」を、ホモ・エコノミカスとホモ・テクノロジカスというあまりに一元的で窮屈な「非人間的」な存在へと追い込んでしまった。

コロナ禍にあってわれわれが一瞬の間に垣間見たものは何であったのだろうか。そのことを多少なりとも取り出すことこそがコロナ禍からの教訓でなければならないだろう。

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7月5日19時から、佐伯啓思さんの講演会「ウクライナ戦争と日本の岐路」を開催します(会場参加&オンライン)。詳細・お申し込みは幻冬舎大学のページからどうぞ。

関連書籍

佐伯啓思『さらば、欲望 資本主義の隘路をどう脱出するか』

グローバリズムの矛盾が露呈し、新型コロナに襲われ、ついにはプーチンによる戦争が始まった。一体何が、この悪夢のような世界を生み出したのか―― 自由、人権、民主主義という「普遍的価値」を掲げた近代社会は、人間の無限の欲望を肯定する。欲望を原動力とする資本主義はグローバリズムとなり、国益をめぐる国家間の激しい競争に行き着いた。むき出しの「力」の前で、近代的価値はあまりに無力だ。隘路を脱するには、われわれの欲望のあり方を問い直すべきではないか。稀代の思想家による絶望と再生の現代文明論。

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さらば、欲望

グローバリズムの矛盾が露呈し、新型コロナに襲われ、ついにはプーチンによる戦争が始まった。一体何が、この悪夢のような世界を生み出したのか――
自由、人権、民主主義という「普遍的価値」を掲げた近代社会は、人間の無限の欲望を肯定する。欲望を原動力とする資本主義はグローバリズムとなり、国益をめぐる国家間の激しい競争に行き着いた。むき出しの「力」の前で、近代的価値はあまりに無力だ。隘路を脱するには、われわれの欲望のあり方を問い直すべきではないか。稀代の思想家による絶望と再生の現代文明論。

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佐伯啓思

思想家。1949年奈良県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学院経済学研究科博士課程単位取得。滋賀大学教授、京都大学大学院教授などを歴任し、現在は京都大学名誉教授、京都大学人と社会の未来研究院特任教授。『隠された思考』(筑摩書房、サントリー学芸賞受賞)、『「アメリカニズム」の終焉』(TBSブリタニカ、NIRA政策研究・東畑記念賞受賞)、『現代日本のリベラリズム』(講談社、読売論壇賞受賞)、『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)、『死にかた論』(新潮選書)、『近代の虚妄 現代文明論序説』(東洋経済新報社)など著書多数。言論誌『ひらく』(A&F)の監修も務める。

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