増上寺
浄土宗の七大本山の一つ。開山は明徳四年(1393)、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)でしたが慶長三年(1598)に芝(現在の港区芝公園)に移転します。家康公から手厚い保護を受け、徳川将軍家の菩提寺として興隆しました。その規模は、寺領1万石余、20数万坪の境内地、常時3000名の僧侶が修学する大寺院でした。寺院内の徳川将軍家墓所には、二代秀忠・六代家宣・七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂の6人の将軍のほか、静寛院宮(家茂正室和宮)ら5人の正室、桂昌院(家光側室、綱吉実母)ら5人の側室ほか将軍の子女多数が埋葬されています。
「なんてこった」
前の増上寺から炎が上がっていた。
「火消しを起こすぞ」
火消しは枕木を頭にして寝ている。
虎之助自ら、その端を木槌で、こんこん、と叩いた。いっせいに飛び起きる。
「火事だ。増上寺だ!」
(『大名やくざ2』「百万石がなんだってんだ」)
泉岳寺
曹洞宗の寺院。開山は慶長十七年(1612)、江戸城に近接する外桜田の地でしたが、寛永十八年(1641)の大火によって伽藍が消失、三代将軍家光の命により正保年間(1644~1648)ごろに現在の高輪の地に移転します。赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから元禄十五年の義挙(1702年12月14日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約50年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参拝客が訪れるようになりました。境内には吉良上野介の首を洗ったとされる「首洗い井戸」や、赤穂義士記念館などがあります。
丑蔵の家の代々の墓は、高輪の泉岳寺にあった。
ここは、旧赤穂藩の浅野内匠頭の墓とともに、寺坂吉右衛門以外の四十六士の墓もつくられていた。
ところが――。
まずお経をあげに来てくれと頼みにいった子分が、思わぬ返事をもらって帰って来たのである。
(『大名やくざ』「おれはあんたが好きだったんだ」)
久留米藩有馬家上屋敷
筑後久留米藩有馬家の上屋敷は、増上寺の南西側、新堀川を越えたところにありました。敷地面積はおよそ2万5千坪。歌川広重の浮世絵「東都名所 芝赤羽根 増上寺」で江戸時代の久留米藩上屋敷の姿を見ることができます。現在では屋敷跡に都立三田高校、港区立赤羽小学校、三田国際ビルヂング、東京サービスセンターなどが建っています。敷地内には十代藩主有馬頼徳が久留米の本宮から分霊した水天宮があり、江戸っ子に大人気となりました。現在は日本橋浜町に移転しています。虎之助の時代の江戸に水天宮はありませんでしたが、久留米藩の歴代藩主はみな水天宮を大切に崇めていたと伝えられています。
まずは三田赤羽橋の上屋敷を一回りした。
およそ二万五千坪ほどある。一回りすると、四半里(およそ一キロ)ではきかない。
広大である。これが自分のものになると思うと、塀を撫で回したくなる。
裏手は上り坂になっている。
東から西に上るのが綱ノ手引坂。酒呑童子を退治したので有名な、頼光四天王の一人・渡辺綱が、ここを乳母に手を引かれて行き来したことからついた。
(『大名やくざ』「おれが六代目だ」)
有馬家下屋敷
筑後久留米藩有馬家の下屋敷は、品川の海を見下ろす高台にありました。敷地面積はおよそ1万7千坪。現在では品川プリンスホテルが建っているあたりです。
門を開けさせ、中に入った。
屋敷には入らず、そのまま芝生が広がる庭に出た。
ここは田村が言っていたように、本当に気持ちがいい。高台で、江戸湾が真下に見渡せる。
その絶景の庭で、犬の綱をほどき、いまから一対一の喧嘩をしようというのである。
(『大名やくざ4』「犬の首を斬っただと」)
丑蔵一家
丑蔵一家の場所は、「芝浜松町二丁目」として物語に登場します。現在では都営地下鉄大江戸線・浅草線の大門(だいもん)駅があるあたりです。増上寺の門前町で、現在でもとても賑やかな場所です。
芝浜松町二丁目。
丑蔵の駕籠屋は、間口十間(およそ十八メートル)ほどの構え。
店先には、予約の入っている駕籠が七つ、八つほど横に並べられている。
そこへ虎之助は勢いよく飛び込んだ。
「おじい。若い衆を貸してくれ」
(『大名やくざ』「いちばん強いのは、やくざだぜ」)
大手門
江戸城の正門です。諸大名が登城の際に使いました。慶長12(1607年)藤堂高虎によって建てられたといわれています。石垣を四角くめぐらして直進できないようにしてあり、正面に高麗門(一の門)、くぐって右側に渡櫓(わたりやぐら)門の二つの門で構成されています。現在の渡櫓門は昭和43(1968)年に再建されたものです。門内には戦災で焼失した旧門の鯱(しゃち)が置かれています。1657年の明暦の大火で焼失した門を再建した際に屋根に飾られたもののようです。
「では、徳川さま。ここで」
と、虎之助は頭を下げた。
親藩や譜代の大名は大手門から出入りするが、外様の大名はちょっと離れた内桜田門から出入りする。
だが、吉宗は、
「有馬。今朝、ちらっとそなたの駕籠を見た。凄かったな」
「ああ、そうでしょうか」
「よく見てみたいが、よいか」
「ええ、まあ」
嫌だとは言えない。
(『大名やくざ5』「そういうことはなってから言え」)
平川門
江戸城の裏門です。大奥女中達の通用門であり 、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもありました。別名、不浄門とも言われ、城内の罪人や遺体はここから出されました。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が刃傷騒ぎを起こした際も使われました。江戸幕府が開かれるはるか昔、太田道灌(1432~1486)のころからここに門が作られていたとされています。橋は慶長19(1614)年に架けられましたが、その後しばしば改修され、現在の橋は昭和63年に架けられたものです。
平川門というのは、江戸城の北側にあって、不浄門とも言われた。
通常は使われず、罪人や遺体をここから出すのである。
松の廊下の刃傷騒ぎがあったその日。
その平川門から半死半生の男が乗った駕籠が出ていた……。
(『大名やくざ5』「これでおれは五十万石の大名だ」)
天守台
江戸城の天守は、家康、秀忠、家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力を世に示すものでした。家光の頃の天守は金の鯱(しゃち)をのせた外観5層、内部6階で、地上からの高さは58mありました。しかしわずか19年後の1657年、明暦の大火で全焼、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、保科正之による「戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべき」との提言により、以後天守閣が再建されることはありませんでした。
虎之助は、強い視線で柳沢を見つめた。
お話しなさい。わたしが力になります――そういう意を込めている。
「じつは、お城の天守閣を再建しましょうという案が、紀伊国屋たちから出ている」
「なるほど」
思わず手で膝を打った。
江戸城の天守閣は、五十年ほど前の明暦の大火で焼けて以来、再建されていない。
これまでもしばしば再建案は出されてきたらしい。
(『大名やくざ2』「百万石がなんだってんだ」)
松の大廊下跡
忠臣蔵のきっかけとなった、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩による吉良上野介義央への刃傷事件(1701年・元禄14年)のあったところです。本丸大広間と白書院を結ぶL字形の廊下でした。廊下の襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来といわれます。江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。現在は木立があるのみで、当時の面影を伝えるものはありません。
「ここが松の廊下だ」
と、柳沢吉保が教えてくれた。
「ここですか」
むろん血の跡など残っているわけがない。
陽当たりのいい、東向きの廊下である。
ただ、ここから始まった赤穂浪士たちの復讐劇は、この先、虎之助にとってさまざまな脅しのタネになってくれるはずである。
(『大名やくざ2』「贈り物はなんだっていいんだ」)
柳沢吉保上屋敷跡
神田橋御門と常盤橋御門の内側一帯が柳沢吉保の上屋敷でした。将軍綱吉がたびたび訪れたといわれます。現在の神田橋は大正14(1925)年に架けたものですが、江戸時代も同じ場所に橋がありました。明治10(1877)年に石造アーチ橋に架け替えられた常盤橋は、2011年の東日本大震災で危険な状態となり、2015年11月現在は修復工事が行われています。
「有馬、先代の遺体の前で、さっそくぶち上げたそうではないか。たいそうな迫力だったと聞いたぞ」
柳沢吉保は、嬉しそうに言った。
ここは江戸城神田橋内にある柳沢の上屋敷。
何度となく所有分が広げられ、いまや神田橋から常盤橋あたりまでの一帯が敷地となり、坪数にして二万坪を超えた。
(『大名やくざ2』「贈り物はなんだっていいんだ」)
日本橋(鎌倉の万五郎の店)
日本橋川に架かる橋を日本橋と呼び、またその地域一帯も日本橋と呼びます。「大名やくざ」に登場する〈鎌倉の万五郎一家〉も日本橋にあります。慶長8(1603)年、家康によって架けられた日本橋は東海道など諸街道の起点です。重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、また北側に魚河岸があり、江戸の魚取引の中心地でもありました。現在も橋の中央に日本国道路元標が埋め込まれています。19回の架け替えを経て、現在のルネッサンス式石橋は明治44(1911)年に架けられました。
日本橋の魚河岸を奥に入る。
魚屋の裏手に、立派な構えの万五郎の家がある。
水を打たれ、綺麗に掃除された玄関の土間に立った。
「げっ、水天宮の虎」
玄関番をしていた子分二人が怯えたような顔をした。片方がすぐに奥にすっ飛んで行く。
(『大名やくざ5』「馬鹿につける薬はできねえもんかな」)