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三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大阪新町

2021.12.05 公開 ツイート

遊郭からの足抜けは重罪。拷問され殺されることも 堀江宏樹

江戸時代の花街の最高峰、三大遊郭とはどんな場所なのでしょうか。そもそも遊郭では何をするのか、遊女たちの日常、太夫・花魁などの序列やビジネスの仕組み、明治・大正から現在に続く新たな価値観で揺らぐ遊女の地位。それらを現代的な感覚で解説した幻冬舎新書『三大遊郭』より、一部を抜粋してお届けします。

吉原は19回も炎上していた。原因の多くは遊女による放火

江戸の吉原はとくに火事が多い街で、元吉原時代に2回、新吉原時代にはなんと19回も全焼を経験しています。

とくに1768(明和5)年の大火以降、全焼はますます増加の傾向に転じました。火元は遊郭での不始末であることもありましたが、原因の多くは遊郭関係者、とくに遊女による放火だったといえます。火に紛れ、ガードがゆるんだ隙に逃げ出し、自由の身になりたいという女たちの心の声が聞こえるようです。

(写真:iStock.com/Yue_)

江戸時代の吉原の歴史の中で27回、つまり9年に1度は必ず大規模な火事が起きており、そのうち19回が吉原全焼です。1864年と1866年には年に2度も大火事が起きており、吉原はとにかく炎上多発だったのです。

その一方、京都の島原は吉原ほどの大火事は経験していません。例外として、江戸時代後期の1854(嘉永7)年、島原の東半分が消失する大火事がありましたが、原因は放火ではなく失火でした。

島原はもとから遊女の外出規制も吉原に比較するとゆるく、遊郭成立当初からの東北角の大門以外に、1732(享保17)年に西の大門ができ、さらに敷地内に劇場も作られたため、素人女性の出入りも自由、1842(天保13)年以降は街を囲っていた堀や土塀などもなくなり、比較的開放的な雰囲気が漂うようになっていました。

遊郭は治外法権地域。足抜けがバレると拷問され殺されることも

一方で、遊女には「足抜け」つまり脱走を企てる者もたくさんいたようです。遊女の逃亡は置屋にとって管理不足がていする大事件であり、最大の恥とされました。一人の女性を一人前の遊女に仕立て上げるには長い年月と手間暇、金銭がかかっていることもあり、なんとしてでも遊女を連れ戻そうとやつになったのです。

とくに吉原の場合は、通行口である吉原大門のそばにある「四郎兵衛会所」と呼ばれる場に番人たちが詰めていて、不審者を見逃さないようにしていました。遊女以外の女性は基本的には出入り自由でしたが、この四郎兵衛会所で役人たちから入場の際に木片(通称「女切手」)を手渡され、帰る時にはきちんと返却させることによって、出入りを管理されていたのです。これは、変装した遊女の逃走を食い止めるための手段でした。

(写真:iStock.com/Kavuto)

遊女を足抜けさせようとする者たちも必死です。人を雇って、遊郭と外部をへだてる高い壁を遊女が越える手助けをさせたり、お歯黒溝に板をかけさせたり、必死で逃亡を助けました。

足抜けが発覚すると、店の男衆が必死で捜し回るため、たいていの遊女は3日とたたないうちに遊郭に連れ戻され、罰としてひどい折檻を受けました。ですから、客と駆け落ちした遊女は、追っ手に見つかる前に、恋人と心中(情死)を企てることも多々ありました。ところが死に損なってしまった場合、心中は幕府によって禁止されていたため、法を犯した者として3日の間、日本橋のたもとに縛り上げられたまま晒されてしまいました。その後、客は出入り禁止程度ですみますが、遊女は吉原に送り返され、さらにせいさんな仕置きを受けたのです。

 

仕置きには色々ありましたが、眠らせない、食事をあたえない、真冬の夜に丸裸にして木に縛りつけておくなどはまだ軽い方で、両手足を縄で縛りあげて天井から吊す、通称「つりつり」、ほかには先の割れた竹の棒で気絶するまで叩きまくる等々がありました。「つりつり」は店主自らが行うごうもんで、それ以外のリンチを指示するのは、基本的に遊女屋の女将でした。そしていわれたとおりに刑を執行するのは、遣り手婆か、店の男衆などです。置屋の一階にはあんどん部屋と呼ばれる一室があり、文字どおり、昼間に行燈を収納している物置なのですが、ここが拷問部屋となりました。

それでも足抜けを企てる最大の理由は、客と本気で恋愛してしまったこと、さらには絶対禁止とされていた店の男衆との密通が発覚した場合などでしょう。置屋の主人に勤務態度がひどく悪いと思われてしまった場合も、足抜けに失敗した時同様の激しい折檻を受けました。

 

1810(文化7)年10月、『街談文々集要』という資料には「吉原なかまん抱えの妓を葬る」という記事があります。後世に名前を伝えられていない遊女は、恐らくは心の病気となり、動けなくなってせっていたようです。ところが遊女が仮病で休んでいるのだと考えた「其の家の妻」つまり、店主夫人である女将は彼女を折檻するようになります。長い間、食べ物もあたえてもらえなかったので、ある時、病気の遊女は客の食べ残しを集め、それを小鍋で温めて食べようとしたのですが、そこを女将に見つかってしまいます。

遊女は小鍋を首にかけられると、柱に縛りつけられ、死ぬまで放置されてしまいました。その後、中万字屋の廊下には首から鍋をかけられた姿の遊女の幽霊が出るようになったため、文化七年には店をあげてその遊女の法要をした……とのことです。

 

遊郭の中の世界は、外界の法律や道徳は通用しない、治外法権地域でした。店主たちや、健康で若く、人気のある遊女など「強者」だけが我が物顔で君臨し、彼女たちの気分を損ねた時には、中万字屋の遊女のように殺されてしまうことすらあったのです。これは遊女はおろか、客でも同じです。ルールに従わない者は手ひどく罰せられました。

なお、折檻によって大きな傷を負うのは遊女だけではありませんでした。大坂の色街のひとつ、新堀にあった遊女屋では、姉女郎があまりにひどく折檻される姿を見てしまった少女4人が投身自殺するという事件も1826(文政9)年に起きたようです。

関連書籍

堀江宏樹『三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大阪新町』

16世紀末の秀吉の時代に誕生し、伝統と品格を守りつづけた京都・島原。1617年、駿府から将軍のお膝元に移設され、経済・文化の変化にともない進化し続けた江戸・吉原。1631年頃から営業を開始し、庶民的でありながらも国内随一の豪華な揚屋建築を誇った大坂・新町。幕府の官許を得て発展した三大遊郭それぞれの歴史や実態を知ることで、日本史における女性の地位、恋愛観の変遷が見えてくる。女たちの日常や客に対する手練手管、遊郭ビジネスの仕組み、江戸・深川や京都・祇園など公認以外の花街との関係などを現代的な感覚で解説した新しい遊女・遊郭論。

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三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大阪新町

京都・島原、江戸・吉原、大坂・新町。幕府の官許を得て発展した三大遊郭の日常や、遊郭ビジネスの仕組み、江戸・深川や京都・祇園など公認以外の花街との関係。それらを現代的な感覚で解説した幻冬舎新書『三大遊郭』より一部を抜粋してお届けします。

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堀江宏樹 作家・歴史エッセイスト

1977年、大阪府出身。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案・考証を務める歴史漫画『ラ・マキユーズ ヴェルサイユの化粧師』第2巻が発売中(KADOKAWA)。おもな著書に「乙女の日本史」シリーズ(KADOKAWA)、『本当は怖い世界史』(三笠書房)など。近刊に『眠れなくなるほど怖い世界史』『愛と欲望の世界史』『本当は怖い日本史』(いずれも三笠書房)などがある。『偉人の年収』(イースト・プレス)が2022年1月発売予定。

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