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日本の歴史はエロだらけ

2021.09.18 公開 ポスト

浅草に吉原遊郭が建ったのは明暦の大火があったから?遊郭と火事の意外な関係下川耿史

古来、日本人は性をおおらかに楽しんできました。歴史をひもとけば、国が生まれたのは神様の性交の結果で(そしてそれは後背位でした)、奈良時代の女帝は秘具を詰まらせて崩御。豊臣秀吉が遊郭を作り、日露戦争では官製エロ写真が配られていたのです。――幻冬舎新書『エロティック日本史 古代から昭和まで、ふしだらな35話』(下川耿史・著)では、歴史を彩るこうしたHな話を丹念に蒐集し、性の通史としていたって真面目に論じてゆきます。

江戸の町には男が“余って”いた

徳川家康が江戸幕府を開いたのは1603(慶長8)年である。ここから江戸時代がスタートしたのだが、幕府が開かれたことが直ちに平和な時代が到来したことを意味したわけではなかった。家康は豊臣方に対して1614(慶長19)年に大坂・冬の陣、翌1615(慶長20)年には夏の陣を仕掛け、それによって、ようやく豊臣方を滅亡させることができたのである。

それでも平和な時代は容易に実現しなかった。その理由として、江戸の街では昼日中から殺傷事件が頻発したことが挙げられる。豊臣家の旧臣たちは徳川方の大名家に新しい奉公先を求めたが、主人や同輩たちから理由もなく手討ちにされたり、あまりの理不尽な仕打ちに怒りが爆発して、主人に斬り掛かるといった事件が跡を絶たなかった。

(写真:iStock.com/Josiah S)

殺伐とした雰囲気が作られる条件が、江戸にはもう1つあった。家康が天下を取って以来、江戸城の新築から海浜の埋め立てや町民用の長屋の建設まで大規模な街造りが実施されたが、そこで働く人夫は全国から出稼ぎに来た男ばかりだった

参勤交代の制度が設けられ、地方の大名が江戸に滞在する時、お伴を仰せつかったのも単身赴任の侍たちであり、さらに宗教の脅威を知る幕府は懐柔策を兼ねて寺社の設置を推し進めたが、お寺の小僧から住職までもすべて男で占められていた

つまり初期の江戸は男女の人口が極端にアンバランスな都会だったのだ。

 

これは後に吉原遊郭がオープンして半世紀近く経った頃、最初は日本橋に開設された遊郭が、浅草の裏手へ移転してからの話だが、江戸の大店には女性の奉公人は1人もいなかったという。

江戸で最初の大店は白木屋で、1662(寛文2)年、京都の材木問屋白木屋が日本橋に小間物屋を開業した(1999年閉店)。続いて伊勢の三井家が江戸に進出して越後屋(現在の三越)を開いたのが1673(延宝元)年だが、これらの大店では大番頭から飯炊きまですべてを男性でまかなっていた。

店の主人側からすれば、極端な男社会で、女中に店の前を掃除させたり、使いに出したりすれば、何が起こるか分からないという不安がつきまとったのである。

 

一方、職場から町中まで、女性が1人もいないという風景も異常で、男の奉公人の勤労意欲にも響いた。西山松之助は自ら編集した『江戸町人の研究』第1巻(吉川弘文館)で、これらの大店では男性奉公人の勤労意欲を高めるために、店の経費で吉原の妓楼と契約を交わし、毎日順番に遊女と遊ばせていたと指摘している。

また林玲子は同書の第2巻所収の「江戸店の生活」という論文で、白木屋の奉公人が女郎と遊んで店の金を使い込むことは必要悪として大目に見られたとも述べている。

遊郭ができて半世紀後でもこういう状況だったから、それ以前となるといかに不自然な社会だったか想像がつくというものである。

火事の特需で庶民も遊郭へ

そういう風潮を少しでも和らげるために開設されたのが吉原遊郭で、大坂・夏の陣から2年後の1617(元和3)年、現在の日本橋人形町に開かれた。

吉原遊郭の創設者は小田原の生まれで、北条家の家臣だった庄司甚内とされている(後に甚右衛門と改名)。甚内は小田原城の落城後武士を捨て、江戸へ出て、現在の呉服橋の近くで売春宿を経営していたが、1590(天正18)年、家康が東国支配を命じられて江戸に入った時、遊郭の設置を願い出た。この時はかなわなかったが、1612(慶長17)年に再度出願して認可されたのである。

(写真:iStock.com/Hom_Aki)

最初の吉原遊郭は2町(約220メートル)四方の区画で、そこに京都の島原遊郭と、府中(現静岡市)の二丁町遊郭から業者が7、8人ずつ、それに江戸市中に散在していた売春宿が集められたという。

しかし開設当初の吉原を利用できるのは、大名や家老クラスの侍か、前述したような裕福な商人に限られ、庶民や下級の侍たちには高嶺の花だった

彼らが利用したのは、もっぱら「湯女風呂」である。湯女とは有馬温泉で人気を集めたあの湯女で、1590年、大坂に初めて進出し、翌年には江戸にも登場したのである。有馬温泉では形だけでも宗教行為の一環という体裁をつくろっていたが、江戸の湯女風呂は客の体を洗い流した後、売春に応じたから、工事人夫たちに大人気であった。

吉原遊郭が開設された頃には、現在の日銀本店あたりからJR御茶ノ水、市ケ谷駅付近を中心に、江戸城の工事現場を取り囲むように湯女風呂があったという。その数は30軒から40軒に及び、後には下級武士向けの湯女風呂が湯島や下谷などにもお目見えした。

吉原遊郭が日本橋から浅草の日本堤へ移転したのは1657(明暦3)年のことであった。この年正月、江戸三大大火の第1に挙げられる「明暦の大火」が発生、死者の数は10万人を超えた。以前から決定していた移転が、この火事によって、いっきに進捗したのである。その結果、日本橋にあった遊郭は元吉原、浅草は新吉原と呼ばれるようになったのである。

 

この移転は現代における工場移転などとは決定的に異なる要素をいくつも含んでいた。その1つに大火後の好景気があった。「火事とケンカは江戸の華」といわれるように、江戸は火事の多いところで、住まいが再建される度に建築景気が起こっていたが、「明暦の大火」後の建築景気はそれまでの、そしてそれ以後の建築景気ともスケールがまったく違っていた

幕府は外敵からの攻撃に備えて、隅田川にかかる橋は千住大橋しか認めていなかったが、川べりでの焼死者があまりに多かったことから両国橋の架橋を決定、橋向こうの両国や亀戸、深川などを庶民の居住区とした。その結果、庶民用の長屋の建設、両国橋の架橋、そして隅田川の内側にある大名屋敷の配置換えなど、巨大な土木工事が1度に実施されることになった。

庶民の懐もかつてないほど潤い、高嶺の花だった遊郭での遊びが現実のものとなったのである。

関連書籍

下川耿史『エロティック日本史 古代から昭和まで、ふしだらな35話』

日本の歴史にはエロが溢れている。国が生まれたのは神様の性交の結果で(そしてそれは後背位だった)、 奈良時代の女帝は秘具を詰まらせて亡くなった。 豊臣秀吉が遊郭を作り、日露戦争では官製エロ写真が配られた。 ――本書ではこの国の歴史を彩るHな話を丹念に蒐集し、性の通史としていたって真面目に論じてゆく。 「鳥居は女の大股開き」「秘具の通販は江戸時代からあった」など驚きの説が明かされ、 性を謳歌し続けてきたニッポン民族の本質が丸裸になる!

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日本の歴史はエロだらけ

乱交、夜這い、混浴、春画、秘具……。イザナギの時代から昭和ごろまで、日本の歴史に散らばるHなエピソードを蒐集した新書『エロティック日本史 古代から昭和まで、ふしだらな35話』(下川耿史・著)。ここでは内容の紹介や無料での試し読みをお届けします。

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下川耿史

1942年、福岡県生まれ。著述家、風俗史家。著書に『日本残酷写真史』『盆踊り 乱交の民俗学』(ともに作品社)、『混浴と日本史』、林宏樹との共著『遊郭をみる』(ともに筑摩書房)、『死体と戦争』『日本エロ写真史』(ともにちくま文庫)、編著に『性風俗史年表(明治編/大正・昭和戦前編/昭和戦後編)』(河出書房新社)ほか多数。

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