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プラチナデータ

2020.04.25 更新 ツイート

#5 加害者家族の苦悩【東野圭吾、電子書籍特別解禁】 東野圭吾

DNA捜査のおかげで検挙率は上がった。しかし同時に、加害者の身内に目を向けられてしまうことに……。加害者に対してはともかく、その血縁者への差別を誘発することを問題視するマスコミが後を絶たないがーー。

これまで日本では一切電子化されていなかった、東野圭吾作品。このたび、二宮和也、豊川悦司出演で映画化もされた超話題作『プラチナデータ』が、初めて電子書籍になりました! 発売に先駆け、特別に100P相当の「プラチナ試し読み」を発売まで一週間にわたってお届けしています。「外に出たい若者たちよ、もうしばらくご辛抱を! たまには読書でもいかがですか。新しい世界が開けるかもしれません。保証はできませんが。ーー東野圭吾」

*   *   *

全国の病院で、同様の活動が行われている。だがDNA情報が順調に集められているとは、あまりいえない状況だ。一日に一万件が集まるといっても、それでも国民全員の情報を集めるには四十年かかる。DNA捜査が完璧な犯罪防止システムとなるのは、まだまだ先の話といわざるをえない。

(写真:iStock.com/monsitj)

先程の主婦に代表されるように、国民の多くがDNA情報の提供に難色を示している。得体の知れなさが不気味に思えるのだろうが、無責任な報道をするマスコミの罪は大きいと神楽は感じていた。

DNA捜査のおかげで検挙率は上がった。だが同時に、加害者の身内がクローズアップされるようになったのも事実だ。DNAを基に捜査を進めていくのだから、当然血縁関係にある人間全員に容疑がかかることになる。捜査の途中で、周囲の人間たちにそのことが知られてしまうのは避けられない。それについて、加害者に対してはともかく、その血縁者への差別を誘発するのではないか、という問題提起をするマスコミが後を絶たない。

そのことの何が悪いのか、というのが神楽の正直な気持ちだった。

周囲から妙な目で見られたくなければ、自分の身内から犯罪者を出さねばいいだけのことだ。やむをえず犯罪者になってしまうとか、仕方なく身内から犯罪者を出してしまう、ということは本来あり得ない。どちらも自分たちの意思ひとつで防げるものだ。それをしない怠慢のしっぺ返しとして、世間から差別されるだけのことだ。

一刻も早く登録が義務化されればいいのだが、と彼は考えていた。実際、そういった内容の法案を与党は検討している。しかし当分は俎上に載せられることもないだろうというのが、その筋に詳しい人間からの報告だった。

待合室を横切り、隣の病棟に繋がる廊下を進んだ。脳神経科の病棟だ。新世紀大学病院の脳神経科は、そのレベルの高さにおいて、世界でも屈指だった。

神楽は突き当たりにあるエレベータに乗り込むと、最上階を示すボタンを押した。そのフロアにはVIP専用の病室が三つある。しかし現在は、すべての部屋が一人の患者によって占拠されていた。正確にいうと、一人の患者と、その兄によってだ。当然、費用は莫大なものとなるが、何も問題はない。全額を警察庁が支払っているからだ。

エレベータが最上階に着いた。すぐ正面にドアがあり、その横に静脈を認証するパネルが取り付けられている。神楽が右手を載せると、ドアは静かに開いた。

その先にある廊下を神楽は進んだ。重厚な趣を持った、焦げ茶色の扉の前で止まった。扉の横には、関係者以外入室禁止、と書かれたプレートがかけられている。彼は時計を見て、約束の時刻よりも一分ほど早いことを確認したうえで、インターホンのチャイムを鳴らした。この程度早い分には問題はない。ただし遅刻は厳禁だ。以前、二分ほど遅れたせいで、相手にへそを曲げられたことがあった。

はい、と男の声が聞こえた。蓼科耕作の声だった。

「俺だよ」神楽はいった。

しかし相手はすぐには応じない。一拍置いた後、「どなた?」と改めて尋ねてきた。

神楽は肩をすくめる。斜め上に取り付けられたカメラが、神楽の姿を中のモニターに映しているはずだった。それでも名前をいわないかぎりはドアを開けようとしないのは、蓼科耕作が頑固なせいではなく、妹がそれを許さないからだろう。

「神楽だよ」

少し声を張って答えると、ようやくドアのロックの外れる音がした。

ドアが開き、蓼科が顔を見せた。相変わらず口の周りに無精髭を生やしている。

「元気?」神楽は訊いた。

「まあまあってところかな」蓼科は神楽の顔を見ないで、背後に視線を向けた。

「誰もついてきてないよ。カメラで見えてただろ。神経質すぎるぜ」

蓼科はにこりともせず、「どうぞ」といってドアをさらに開いた。

神楽が入ると、奥にある部屋に一人の女性が入っていくところだった。太っていて、後ろから見ると巨大な卵のようだった。彼女がドアを閉める時、その横顔がちらりと見えた。右の頬から首筋にかけて、紫色の痣がある。それが理由で子供の頃、世界地図、という渾名を付けられたという話を神楽は蓼科から聞いて知っていた。

神楽は周囲を見回した。十数台の端末機が置かれ、そのいずれもが起動中だった。それらの親機であるスーパーコンピュータは別の部屋にある。病院の中ではあるが、ここは病室とは到底いえない空間だった。

椅子はキャスター付きのものが二つあるだけだ。蓼科兄妹はそこに座ったまま、めまぐるしく移動して端末機を操るのだ。

「妹さんと打ち合わせ中だったのかい」神楽はテーブルの上を見て訊いた。そこにはヨーグルトの容器が載っていた。その横には、青と白のストライプ柄の平たい袋が置いてある。チョコレートかな、と思った。

「単なる息抜きだよ」蓼科はヨーグルトの容器を取り、そばのゴミ箱に放り込んだ。

「それはいい。君たちもたまには息抜きをしなくちゃな。数式とプログラムに囲まれたままじゃ、頭がおかしくなってしまう」

神楽は何気なくいったのだが、蓼科は口を真一文字に結んで睨んできた。それで神楽は、ここが脳神経科の病棟であることを思い出した。顔をしかめ、お手上げのポーズを取った。

「そんな顔するなよ。悪気があっていったわけじゃないってことぐらいはわかるだろ。気を悪くしたのなら謝るよ」

蓼科は首を振り、吐息をついた。

「そんなことはどうでもいい。それより、君に話があるんだ」

「うん。そっちから会いたいといってくるなんて珍しいと思ってたんだ。用は何だい」

蓼科は俯き、両手を擦り合わせた。

「システムのほうはどうかな」

「システム? どうって?」

「何か問題は起きてないか」

神楽は笑顔になった。

「DNA捜査システムのことをいっているなら、極めて順調と答えておこう。今の警察庁長官はいい時に就任した。うまくいけば、彼の任期中に、検挙率が昭和時代の水準に戻るかもしれない」

すると蓼科は擦り合わせていた手を止め、上目遣いに神楽を見た。

「本当に順調?」

その目の光には、何らかの意図が含まれているようだった。神楽は真顔に戻った。

「じつをいうと、データ不足を感じている。検索システムに引っかからないケースがあってね。ついさっきも、登録を渋っていたおばさんを説得したところだ」

「NF13だろ」

蓼科の言葉に、神楽は思わず相手の顔を見つめた。

「知っているのか」

「僕のところにも志賀所長からレポートが送られてきている。じつは君に話があるというのは、そのことなんだ」

「NF13がどうかしたのか」

神楽が訊くと蓼科は迷うような表情を浮かべ、次に小さく首を振った。

「ゆっくり話したい。少々、複雑な内容なんでね。君は今日これから、水上教授の診察を受けるんだろ?」

神楽は口元を歪めた。

「診察じゃない。研究だ。俺と教授とで共同研究に取り組んでいる、と考えてもらったほうがいい」

「いずれにせよ、教授と会うわけだろ。その後、時間はとれそうかな」

神楽は頭の中で今日のスケジュールを思い浮かべた後、頷いた。

「大丈夫だ」

「『彼』はどうだろう? 今ここで確かめることは無理かもしれないけど」

「問題ない。『あいつ』はいつも、そんなに多くの時間を使わない。せいぜい四、五時間ってところだ」

「じゃあ、終わった後、もう一度ここに来てくれるかな」

「わかった」

(写真:iStock.com/Pornpak Khunatorn)

蓼科兄妹の病室を出て、神楽は再びエレベータに乗った。次に彼が降りたのは四階だった。天井から、『精神分析研究室』と記された札が下がっている。

廊下を進み、最初のドアの前で止まった。ノックをする。

どうぞ、と低く乾いた声が返ってきた。神楽はドアをゆっくりと開いた。

手前に、二人が向き合えるようにテーブルと椅子が置かれている。その向こうには大きな机があり、そばに白衣を着た人物が立っていた。その人物は窓の外を眺めていたが、やがて神楽のほうを振り返った。鷲鼻で眼窩が深く、頬はこけている。この顔立ちのせいで欧米人の血が混じっているのかと疑われることも多いそうだが、本人によれば純粋の日本人らしい。

「蓼科兄妹と会ってきたのかね」水上洋次郎は穏やかな口調で尋ねてきた。

「ええ。耕作から呼ばれましてね」

「呼ばれた? それは珍しいな」

「僕もそう思ったから、ここへ来る前に会いに行ったんです。でも、話が長くなるらしく、水上先生のほうを先に済ませてくれといわれました。先生に、何かお心当たりは?」

「いや、ないな」水上は椅子を引き、腰を下ろした。「彼等の精神状態は、このところずっと落ち着いている。妹とも会ったのかね」

「いえ、僕が行くなり、奥の部屋に消えてしまいました」神楽はため息をついた。「いつものことです。相変わらず、心を開いてくれない」

水上は机に両肘をついて指を組み、その上に顎を乗せた。

「それは君に問題があるんじゃないのかな」

「どういう意味です」

「彼女をどう見ているのか、ということだよ」

「天才的数学者でありプログラマーだと思っていますよ」

「それだけかね」

神楽は肩をすくめた。

「いけませんか。ほかに、どんなふうに見ろというんですか。そういう彼女だから、僕は興味を持ったんです。蓼科早樹が重度の精神的疾患を持っていたとしても、僕には関係がない。前にもいったと思いますが、僕がこの病院に通うようになってよかったことの二番目が先生にお会いできたことで、一番目は何といってもあの兄妹に出会えたことです。彼等の力なしでは、DNA捜査システムは完成しなかったわけですから」

水上は、やれやれとでもいうように頭を振り、同時に苦笑を浮かべた。

「君の頭の中には、そのことしかないようだ。そういえば先日のテレビを見たよ。おたくの志賀所長が出ていた。自信満々といった感じで、DNA捜査システムの宣伝をしていたな」

「本人は最初出演を渋っていたんですが、僕が出るように勧めたんです。世間の理解を求めるためには、とにかく広報活動が大事ですから」

「登録数が思ったように伸びなくて焦っているわけだ」水上は、にやにやした。

「先生は何だか嬉しそうですね。我々の仕事が停滞すればいいとでも思っているんですか」

「そんな意地の悪いことは考えてないよ。ただ、君の焦った様子を見るのも久しぶりだと思ってね」

「焦ってはいません。でも少し苛立ってはいます。与党がさっさと、義務化する法案を提出すればいいのにってね」

水上は呆れたような顔で首を振った。

「ごり押しで物事がうまくいくことはない。うまくいったように見えても、必ず破綻する。DNA情報を管理するという発想自体、まだまだ反発が大きい」

「そこなんです。反発する理由が僕にはわからない。人々を管理保護したいなら、遺伝子を把握するのが一番手っ取り早いんです。管理されるのは嫌だというのは子供の考えです。自分も管理されるが、他人も管理されている。つまり他人から危害を加えられるおそれが減る。そのメリットになぜ気づかないのか」

「そういう理屈ではなくて、感情の問題なんだ」

「感情では、何も解決しません。社会構造は一種のプログラムです。それを合理的なものにしていくのは、冷静な論理だけです」

水上は笑顔に戻り、立ち上がった。その手には小さな箱が握られている。

「遺伝子は人生を決めるプログラムだ、というのが君の持論だったね」

「人生というプログラムの根幹を成すものだと思っています。人間は生きているうちに様々な情報を与えられ、時にはそれに修正を加えたりしますが、どの情報を人生に生かし、どの情報を殺すかは、結局のところ本人に与えられた初期プログラムにかかっていると考えています」

「それが遺伝子」

「そういうことです」

水上は首を捻りながら、神楽の前にある椅子に腰掛けた。さらに、神楽にも座るよう手で示した。失礼します、といって彼も椅子に座った。

「人の心も遺伝子によって決まる、という君の説に私は同意しかねる」

「心のすべてが決まるとはいいません。しかし犯罪に走る心の動きには関係があると思います。犯罪者は皆、精神的に病んでいます。そして精神疾患と遺伝子の関係については、肯定的な論文がいくつも出ています」

「しかし、精神的に病んでいる人間イコール犯罪者ではないだろ?」

「だからそのあたりのメカニズムを解明したいと思っているんです。――先生、あまり時間がないので、早く始めてもらえませんか。さっきもいいましたが、この後、蓼科耕作と会う予定なんです」

水上は窪んだ眼窩の奥から神楽を見つめてきた。

「こうして話し合うことも、治療の一環なんだ」

「治療――。僕は、研究だと思っているんですが」

「遺伝子情報と心の関係を解明する研究、かね」

「そうです」

「君がやろうとしていることは、人間の心の謎を解くということだ。しかも君自身の肉体と心を使ってね。それは君にとっていいことだとは思えない」

「僕は自分の信念に基づいて行動しています。一人の人間の遺伝子から全く別の心が発生するケースがあるとなれば、興味を抱かざるをえない。この研究は、先生にとっても極めてメリットの大きいものだと思うのですが」

水上は、ぐいと顎を引き、上目遣いをした。

「私がこうして君と会っているのは、君を患者だと思うからだ。解決してやらねばならない問題を君が抱えていると思うからだ」

「もちろんそれで結構です。ただ、ふつうの患者と違い、僕の場合は病気が治るか治らないかには興味がない。僕はただ、知りたいだけです」

「すべてを知ることが重要だとは思えないのだがね」

「情報を確保しておくことは大切です。こんな研究は、今度いつできるかわかりませんからね。同様の症例が見つかったとしても、その人物が協力してくれるという保証はどこにもない」

「いっておくが、『彼』――リュウは協力的ではないよ」

神楽は思わず口元を歪めた。リュウ、という呼び名を耳にすると、いつも鳥肌が立ちそうになる。

「そのようですね。でも、絵は描くでしょう? それを先生が分析する。そのデータをいただければ十分です。まさか、それを出せないとはおっしゃらないでしょう? 自分の精神分析結果を要求するのは、患者の権利です」

「君のその意見について『彼』がどういうか楽しみだよ」

水上は持っていた箱の蓋を開けた。そこには煙草に似たものが十本ほど入っている。それを神楽のほうに差し出した。

「ぜひ僕にも聞かせてください。興味がある」

神楽は箱に手を伸ばし、一本の煙草を摘み出した。空いたほうの手で、ポケットからライターを取り出し、煙草に火をつけた。

「では、後ほど」水上にそういった後、彼は大きく息を吸い込んだ。

煙が肺に入っていくのを感じた。その直後、目の前にいる水上の姿が歪んで見え始めた。周りの景色も混沌としてきた。

脳の奥が痺れるような感覚があった。やがてその感覚も薄れていくと、次には急速に意識が遠のいていった。

関連書籍

東野圭吾『プラチナデータ』

国民の遺伝子情報から犯人を特定するDNA捜査システム。警察庁特殊解析研究所・神楽龍平が操るこのシステムは、現場の 刑事を驚愕させるほどの正確さを持って次々と犯人を特定していく。検挙率が飛躍的に上がる中、新たな殺人事件が発生。殺さ れたのは、そのシステム開発者である天才数学者・蓼科早樹とその兄・耕作で、神楽の友人でもあった。彼らは、なぜ殺されたの か?現場に残された毛髪を解析した神楽は、特定された犯人データに打ちのめされることになる。犯人の名は、『神楽龍平』――。 追う者から追われる者へ。事件の鍵を握るのは『プラチナデータ』という謎の言葉。そこに隠された陰謀とは。果たして神楽は警察 の包囲網をかわし、真相に辿り着けるのか。

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国民の遺伝子情報から犯人を特定するDNA捜査システム。その開発者が殺害された。神楽龍平はシステムを使って犯人を突き止めようとするが、コンピュータが示したのは何と彼の名前だった。革命的システムの裏に隠された陰謀とは……。これまで紙でしか読めなかった、東野圭吾さんの作品。このたび本作『プラチナデータ』が、初めて電子書籍になりました! それを記念して、特別に「ためし読み」を7回にわたってお届けします。

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東野圭吾

1958年、大阪府生まれ。大阪府立大学電気工学科卒業後、生産技術エンジニアとして会社勤めの傍ら、ミステリーを執筆。1985年『放課後』(講談社)で第31回江戸川乱歩賞を受賞、専業作家に。1999年『秘密』(文藝春秋)で第52回日本推理作家協会賞、2006年『容疑者χの献身』(文藝春秋)で第134回直木賞、第6回本格ミステリ大賞、2012年『ナミヤ雑貨店の奇蹟』(角川書店)で第7回中央公論文芸賞、2013年『夢幻花』(PHP研究所)で第26回柴田錬三郎賞、2014年『祈りの幕が下りる時』(講談社)で第48回吉川英治文学賞、さらに国内外の出版文化への貢献を評価され第1回野間出版文化賞を受賞。

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