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信長の革命と光秀の正義

2020.02.06 公開 ポスト

新史料から見えてきた、光秀と幕府の関係安部龍太郎

本能寺の変をおこし、「裏切り者」「三日天下」とネガティブなイメージの強かった明智光秀。一方で、信長の右腕にのぼりめるほど頭脳明晰、そして教養人だったという説もある謎の多い人物です。

不自然なほど資料が残っていない光秀は、本当はどんな人物だったのでしょうか?そして、光秀が「本能寺の変」をおこした真の理由とは何だったのか。

直木賞作家、安部龍太郎さんによる新書『信長の革命と光秀の正義』より、本能寺の変の真相をお届けします。

 

 

「本能寺の変」当時、光秀は六十七歳だった?

明智光秀は、名前がよく知られているわりに謎が多い人物です。

生年さえも、よくわかっていません。『明智軍記』などによると、享禄元年(一五二八)生まれであり、「本能寺の変」の年には五十五歳。しかし、『当代記』には六十七歳とあり、永正十三年(一五一六)生まれとなります。

六十七歳にして、あの大事件を起こすというのは、ちょっと歳をとりすぎている感じがしてしまいます。また、娘である細川玉子(ガラシャ)は永禄六年(一五六三)生まれなので、四十七歳で授かったということになります。当時としてはかなり高齢です。

しかし史料としての信頼性は『当代記』のほうが高く、六十七歳説を私は捨てきれないのです。

「米田家文書」からわかった新事実

最近、光秀に関するもっとも古い史料「米田家文書」が発見されています。

それによると、光秀は、永禄九年(一五六六)以前に、近江田中城(滋賀県高島市)に籠城していたことがわかります。田中城城主の田中氏は、幕府奉公衆に属しており、光秀も義輝に仕えた幕府衆の一員として籠城したのです。

これは義輝が三好三人衆に暗殺された後のことと考えられていますが、興味深いのはこの書状に「沼田勘解由左衛門尉殿大事に相伝し」と記されていることです。

この人物は、細川藤孝の妻麝香の父沼田光兼の一族である沼田勘解由左衛門尉清延であろうと思われます。

また書状を写した米田貞能(求政)は、後に細川家の家老になっています。

つまりこのころから、光秀は藤孝をめぐる人脈とつながっていたということです。

足利義輝・義昭に仕えた幕府役人の名を記録した『永禄六年諸役人附』という史料に、「足軽」として「明智」の姓があります。この「明智」が、光秀を指すと思われます。

光秀は将軍の奉公衆として仕えていたころ、藤孝らと親交を結び、義輝が暗殺されたために田中城に籠城したのでしょう。

その後田中城を退却して浪人となり、諸国を放浪した末に越前一乗谷の朝倉義景に仕えます。

そこへ、朝倉を頼って足利義昭が逃げてくる。これ以降、光秀は義輝の弟である義昭に仕えるようになったのでしょう。

信長と義昭の両方に仕えた光秀

永禄十一年(一五六八)七月、信長は美濃の立政寺(岐阜市)に義昭の一行を迎えます。この対面を実現させたのも、義昭の側近細川藤孝と明智光秀といわれています。

同年九月七日、信長は、義昭を奉じて上洛を果たすために、五万の軍勢を率いて岐阜城を出発します。

近江観音寺城で迎え討とうとした六角義賢は、その軍勢に恐れをなして甲賀へと敗走。十四代将軍義栄を擁立していた三好三人衆も何の抵抗もできませんでした。

信長軍の入洛が目前になったころ、朝廷はあらかじめ綸旨を出しています。

その要点は三点です。

一.信長の上洛を天皇も了承していること

二.軍勢による洛中での乱暴、略奪の禁止

三.内裏と周辺の警固を依頼すること

これは朝廷が先手を打って出したものか、信長が求めたものかはわかりません。しかし、信長の力を、朝廷ももはや認めざるを得なくなっていたことははっきりとしています。

光秀にとって受け入れがたかった信長の革命思想

信長は入洛し、畿内を平定。十月二十二日、義昭が十五代将軍に任官します。

光秀は入洛直後、信長から京都奉行の一人に任命されました。一方で、義昭の側近衆としても頭角を現します。

光秀は才覚抜群であり、有職故実、和歌などの古典的教養を身につけていました。義輝、義昭に仕えながら、そうした修練を積む環境にいたのです。

上層階級との交友関係も広く、吉田兼和、連歌師であった里村紹巴らとも親しかったといいます。里村紹巴と近衛前久は親しい関係にあり、光秀と近衛前久は紹巴を通じてつながったのではないでしょうか。

信長に仕えながらも、信長が抱く革命思想は心の底からは受け入れられなかったはずです。改革派にはなるかもしれないが、根底からひっくり返すという発想は持てない。

六十七歳だったとすれば、なおさらでしょう

*   *   *

続きは『信長の革命と光秀の正義』(幻冬舎新書)にてお楽しみください。

安部 龍太郎『信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺』

日本史上まれにみる天才・信長は、自らを天皇の上に置き、規格外のスケールで新しい国作りを目指していた。自分を将軍など要職三職のいずれかに就任させるよう求めた朝廷への三職推任要求や、安土城から発掘された御所の存在がそれを証明している。信長の革命思想は、朝廷・幕府・イエズス会、誰にとっても危険すぎる存在となり、その緊迫した状況の中、本能寺の変は起きた――。光秀は、いかなる正義のもとに主君・信長を討ったのか? 信長最期の言葉「是非におよばず」の真意とは? 戦国時代史の禁断の扉を開く画期的一冊。

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信長の革命と光秀の正義

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安部龍太郎

1955年、福岡県八女市(旧・黒木町)生まれ。久留米工業高等専門学校卒業。上京し、大田区役所に就職、後に図書館司書を務める。1990年、「血の日本史」でデビュー。 2005年、「天馬、翔ける」で第11回中山義秀文学賞、2013年、「等伯」で第148回直木賞受賞。2015年、福岡県文化賞受賞。『関ヶ原連判状』『信長燃ゆ』『蒼き信長』『おんなの城』『家康』『平城京』など著書多数。

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