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料理通異聞

2019.07.28 更新 ツイート

#3 儚くも散った初恋…料理を題材にした時代小説の傑作松井今朝子

そうそうたる時代の寵児たちとの華やかな交遊。そして、想像をかき立てられる江戸料理の数々。相次ぐ天災と混乱の時代に、料理への情熱と突出した才覚でその名をとどろかせた男がいた。その名も福田屋善四郎……。直木賞作家、松井今朝子の『料理通異聞』は、彼の波乱万丈の生涯を描いた作品だ。「料理を題材にした時代小説の最高傑作」とも評される、本書の冒頭をご紹介します。

*   *   *

仏事の仕出しが多い店には、大きな切溜や持ち運びのできる鍋や器も揃っている。料理を舟に積んで運ぶのも手馴れたものだった。だが山谷堀から隅田川へ出ると途端に川風が強くなり、舟は漫々たる川の流れに弄ばれて、善四郎を妙に心もとない気分にさせた。もはや引き返せないあたりで舟はようやく流れに乗って速やかに滑りだし、あっという間に竹町河岸に辿り着く。そこからは、見習いの繁蔵が切溜と大きな鍋を天秤棒で肩に担ぎあげ、善四郎は小ぶりの行平鍋を胸に抱え持つ恰好で内藤家を目指した。

(写真:iStock.com/Kavuto)

橋場で百間水野と呼ばれる商家の広壮な屋敷を見馴れた目には、内藤屋敷もさほどたじろぐものではなかった。とはいえ厳めしい黒鉄の金具や乳鋲を打ちつけた長屋門の前に立てば、善四郎は急に自分が今とても馬鹿げたことをしているような気がしてきた。

内藤家は旗本の名門で、屋敷にはこうした長屋もあり、そこに大勢の家来が暮らしているはずだ。にもかかわらず千満がお忍びで腰元ひとりを供に水野を訪れていたのは、家来にすら窮状を知られたくないからに違いなかった。それなのに水野の家人がのこのこと訪ねて来たのでは、さぞかし迷惑に思うであろう。ここまで来て残念は残念だけれど、このまま引き揚げたほうが無難ではないか。

ところがこうした逡巡をつゆ知らぬ繁蔵がさっさと通用門を叩きはじめ、止める間遅しで中から人が顔を覗かせては、もう万事休すである。

門番には奥からの注文だと、敢えて嘘をついた。向こうは九分九厘知らぬ存ぜぬで突っぱねるだろう。こっちはおとなしく帰ればいいだけの話だとたかを括っていたら、意外にも母屋の勝手口へ案内されて、以前にも言葉を交わしたことのある腰元と対面するはめになった。

相手はこちらの姿を見るなり、

「やっぱりお嬢様がおっしゃった通り……」

呆れた顔でも「やっぱり」というからには、自分が来ることは予期されていた。もしかしたら望まれていたのだろうか。そう思うと善四郎はがぜん気分が昂揚した。

もっとも当のお嬢様はさすがに勝手へは姿を現さず、料理は奥に運ばれて、腰元もついて行ったきりなかなか戻っては来ない。善四郎は家人に白い目で見られながら台所の隅で待つことしばし、病床の父と娘のやりとりを瞼に想い描くしかなかった。

ここの台所は屋敷相応に広くとも、実家の厨と違い、がらんとして物淋しく感じられた。おまけに柱の燭架もだんだんと灯りを消し、あたりは次第に闇に埋もれて、待つ身の孤独をさらに募らせてゆく。

半刻がゆうに経ち、闇が一段と濃くなって、ふいに手燭の明かりで照らされた腰元の姿が浮かびあがった。手招きに応じて善四郎は立ちあがり、黙ってあとに従う。廊下を進むと途中から縁側になり、闇に白い斑点を滲ませた沈丁花が鼻をついた。障子に映る影法師が見え、腰元が把手に指をかけると善四郎はその場で平伏しながら、ついまた障子よりも口が先に開いてしまう。

「殿様は、お召しあがりになりましたか」

障子が開くと一瞬の間があって、不首尾かと落胆したが、雪洞に照らされた娘の顔は臈長けて一段と美しく、とても晴れやかな表情に見える。

「父上がこうも長く箸を取られたのは久々のこと。御酒を聞こし召せぬのがご不満のご様子でした」

「ああ、それは、それは……」

善四郎は総身の力がいっきに抜けたように縁側で突っ伏した。これで無理をしてここに来た甲斐があったというものである。

「汁をおかわりなされたのは本当に初めてのこと。わらわも残りを頂戴したが、あの、春先の雪がほろほろと溶けだすような汁の実は……」

「あれは、わたしがこの手で拵えました」

善四郎はもうすっかり舞いあがっていた。相手とまともに顔を合わせ、その円らな眼や愛らしい口もとにまじまじと見入った。

「そなたがそばにおれば、毎日でもああいうものが口に入るのじゃのう」

その娘の言葉は若い男の胸に、自身では想い描けなかった甘味な夢をもたらしている。それは汁の実のように舌の上に転がすとすぐに溶けてしまう、決して叶わぬ夢だったから、善四郎はただ黙って肯いてみせた。

「して、代金はいかほどじゃ」

急にざんぶと冷たい水を浴びせられ、途端に顔がこわばった。

「滅相もない。こちとら料理の押し売りに参ったつもりはござんせん」

身分を忘れて思わず強い口調になると、

「こちらも施しを受けるつもりはない」

相手もきつい調子で返した。火影に揺らめく顔には赤みが差し、例の片意地な表情に変わっている。何もかもが台なしだった。

(写真:iStock.com/gudng-du)

胸のうちは収まらないが、善四郎は自らの非も認めざるを得なかった。お節介は度が過ぎればこうした痛い目に遭って当然なのだ。千満が怒るのは無理もない。水野から金を恵んでもらって武家の矜持はすでにさんざん傷ついており、そこの家人ごときにまで憐れみをかけられたのでは、立つ瀬があるまいと思う。

名家に縛られ、名家を守るために悪戦苦闘している娘の姿を、善四郎が不憫に思ったのは確かだった。しかし、これは断じて施しというようなものではないことを、自身はよく承知している。では一体どういうつもりなのかと問われたら、それは自分にも答えられない。

ここへ案内した腰元も声がかけられないほど気まずい沈黙が続いたが、それを先に破ったのは千満のほうだ。

「相済まぬ。そなたの親切に、まずお礼を申さねばならなんだ」

「お礼だなんて、とんでもねえ。わたくしはただ殿様とお嬢様に気持ちよく召しあがって戴けたので本望でして」

その言葉にも嘘はなかった。善四郎は人が歓ぶ顔を見れば自分まで嬉しくなるのだ。自分と同様に人も旨い物を喰えばご機嫌になると思ってやったことに過ぎない。自分ではそう思い込もうとしていた。千満への淡い恋情は胸の奥に封じ込んでおかないと、ややこしいどころか物騒な話にもなりかねない。何しろ相手は旗本の名門、内藤家のお嬢様なのである。

あの料理で歓んでもらえたのならまた近々に、くらいはいいたいところだが、さすがにそれはいえなかった。今度は何とかなったものの、奉公人の身でたびたびのわがままは許されない。そう思えば自ずと曇るこちらの表情を見て取ったように、相手が湿っぽい声を聞かせた。

「あのお椀の味わいは格別。父上にも、わらわにも、良き想い出になりました」

それはいくらなんでもいい過ぎではないか。

「想い出なぞとおっしゃらずとも、お声をかけてくださいまし。いつでも馳せ参じましょう」

即座に訴えたが返事はなく、長い睫毛は堅く塞がれたままだ。先ほどより短くなった雪洞の蠟燭が娘の白い横顔にさまざまな翳を落としていた。黙って閉じられた瞼には寂寥の色が滲んでいる。采女正の容態は、ひょっとしたら千満がいうほどには芳しからず、もはや快復の目処は立たないのかもしれなかった。

とにかくやれるだけのことはしたという一応の満足を得て、善四郎は内藤邸をあとにした。しかしその満足は長続きしなかった。なまじ対面して話ができたせいか、時折ふと艶めかしい沈丁花の匂いが鼻をつくように千満の顔が目に浮かんで、橋場に訪れてくれるのを待ちわびる日々が始まった。

隅田堤の花がちらほらと咲き初めても、川縁が一面の桜色に染まっても、千満の訪れはなかった。それは別段ふしぎがるようなことでなく、今までもそんなにしょっちゅう無心に来ていたわけではないのに、善四郎はなぜか妙に胸が騒いだ。外へ使いに出されて近所まで来ると、つい門前を通りたくなるのだが、この日は本所にある佐竹家の下屋敷へ使いに出た帰りに寄り道をしている。

内藤家の表門は例のごとくひっそりと閉じられ、土塀の内側は以前にまして寂寞として感じられた。手ぶらで来てはご機嫌伺いもならず、さりとて門前にただじっと佇むのも芸がない話だ。

ひとたび門をくぐって度胸がついた善四郎は速やかに門番を呼びだすも、お嬢様の御用と告げれば不審の表情が露わである。腰元の名をなんとか想い出して呼びだしてもらったが、通用口に出てきた相手はまたしても呆れた顔でこちらを見て、疎ましげな声を浴びせた。

「お嬢様は、おいでにならぬ」

「お出かけで、ござりましょうか」

「もう二度と、ここにはお戻りあそばさぬ」

断固たる口調に善四郎は呆然としている。

千満は嫁いだということなのだろうか。もしそうだとしたらなんとも急な話で、善四郎の淡い恋心はあの汁の実のようにほろりと崩されたことになる。だが二度とここに戻らないとは、実におかしな話ではないか。里帰りもできないというのだろうか。

病床の殿様は如何されたのか。まさか千満まで病に冒されて……と次第に不安が広がるなかで声がうわずった。

「もしや、お嬢様の身に何か」

大きな声に慌てて相手は袖を強く引いた。

「高うはいわれぬが、御城に上がられたのじゃ。それゆえ、もうお戻りにはなれぬ」

耳もとで囁かれた声が巧く聞き取れないほど善四郎は気が動転し、最初はまるで意味がつかめなかった。相手に嫌がられるのを承知で根掘り葉掘り訊いて、まずわかったのは采女正があれからほどなくして世を去り、内藤家の家督は無事に千満の弟が相続したことである。

新たな当主は若年で役付きが叶わず、親族にも有力な後押しが得られないため、千満が出仕して陰ながら弟の出世に尽力することを父の生前に約束していたらしい。四十九日を済ませてすぐに御城の大奥へ上がったのだという。そこはいったん足を踏み入れたが最後、よほどのことがない限り外へは出られぬ場所と聞かされた。

「お嬢様は、それであのお椀を……」

いい想い出だといった理由が、善四郎は今やっと呑み込めて、目に熱いものがじわじわと押し寄せる。名家に縛られ続けた娘の悲運を思い、腰元がいなければ危うく声をあげて泣き出すところだった。

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松井今朝子

1953年、京都生まれ。割烹「川上」の長女として祇園に育つ。早稲田大学大学院文学研究科演劇学修士課程修了後、松竹株式会社入社。その後フリーとして歌舞伎の脚色・演出・評論を手がける。97年『東洲しゃらくさし』(幻冬舎文庫)で作家デビュー。同年『仲蔵狂乱』(講談社文庫)で第8回時代小説大賞を受賞。2007年『吉原手引草』(幻冬舎文庫)で第137回直木賞受賞。

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