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大本営発表

2020.03.11 更新 ツイート

「大本営発表」はいかにして信用できない情報の代名詞になったのか【再掲】辻田真佐憲

公文書の改竄(かいざん)、捏造(ねつぞう)を行ってきた現政権。かつて、日本軍の最高司令部「大本営」も、太平洋戦争下に嘘と誇張で塗り固めた公式発表を繰り返し、「大本営発表」は信用できない情報の代名詞となりました。当時の軍部は現在に置き換えると政権。政治の中心でなぜ、情報の改竄、捏造、隠蔽が起きるのか? そしてそれがどういった結末を迎えるのか? 2016年に発売された辻田真佐憲さんの『大本営発表~改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争~』は、正確な情報公開を軽視する政治の悲劇、悲惨さを教えてくれます。今こそ読むべき一冊。あらためて「大本営発表」の歴史を繙きます。 

忘れられた太平洋戦争以前の大本営発表

一九四一年十二月八日、午前七時前。日本放送協会のアナウンサー館野守男は、まもなくはじまるニュース放送に備え、スタジオのマイクの前で待機していた。「何かあるな」という予感はあった。前日の夜更けに、幹部がアナウンサーの部屋を見回りにきたからだ。ただこのときはまだ、いつもと変わらない、放送前の静寂なひとこまにすぎなかった。

ところが、そこに突然、報道部の田中順之助が慌ただしくスタジオのドアを開けて飛び込んできた。そして「いま大本営から、電話で大ニュースが入った」と、走り書きの原稿を渡してきた。もう七時の放送時間だ。内容を確認する余裕もない。館野はすぐに臨時ニュースのチャイムを鳴らし、「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます」と繰り返し、ぶっつけ本番で原稿の文字を読み上げた。

「大本営陸海軍部十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英(アメリカ・イギリス)軍と戦闘状態に入(い)れり」

館野は文字を追いながら、ようやくことの重大さに気づいた。ほかでもない、太平洋戦争開戦の歴史的な発表だったのである。

今日残っている館野の音声は、決然とした調子でいかにも勇ましい。ただ、これはのちの放送時に録音されたものだった。八日午前七時の音声は、まるで「お通夜の放送のように沈んだものではなかったか」と、館野本人によって戦後回想されている。事前に内容を知らされず、意味もわからずに読んだのだから無理もない。

突然の発表に驚いたのは、館野だけではなかった。日米交渉の経緯をまったく知らされていなかった日本人の多くにとってもまた、開戦の発表は青天の霹靂だった。

もっとも、「お通夜」のような放送はすぐにかき消された。その日のうちに、ハワイ空襲成功やマレー半島上陸などの戦果が次々にラジオで放送され、日本中はたちまち歓喜の渦に包まれたからである。

同日の夕刊(当時の夕刊は翌日の日付で出されていたので九日付)には、さきに放送された大本営発表が次のような形で掲げられた。

【大本営陸海軍部発表】(十二月八日午前六時)

帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり

これを皮切りにして、大本営発表は八百四十六回にわたって行われたといわれる(著者の集計では八百四十七回、後述)。

だが、これには重大な間違いが含まれている。というのも、大本営発表はすでに日中戦争のときから行われていたからだ。たとえば、南京攻略については一九三七年十二月に次のような大本営発表が行われた。

【大本営陸軍部発表】(十二月十三日午後十一時二十分)

昭和十二年十二月十三日夕刻敵の首都南京を攻略せり

太平洋戦争の華々しい発表が、「お通夜」のようなアナウンスをかき消したように、それまでの大本営発表をもすっかり覆い隠してしまったのだ。現在に至るまで、日中戦争下の大本営発表はほとんど無視されてしまっている。

とはいえ、太平洋戦争の開戦にあたり大本営発表がスムーズに行われたのは、日中戦争時代の教訓や準備があったからではないだろうか。したがって、大本営発表はまずその誕生から見なければならない。

大本営報道部は陸海軍でバラバラ

大本営発表の発信元である大本営は、天皇に直属する日本軍の最高司令部である。常設ではなく、日清戦争や日露戦争など戦時に際して特別に設置された。昭和年間では、日中戦争初期の一九三七年十一月に大本営が設置され、以後太平洋戦争の敗戦まで存続した。

明治の大本営は天皇の特旨によって首相も参加し、名実ともに日本の戦争指導の中心機関であった。これに対し、昭和の大本営は敗戦の年まで首相の参加を認めず、天皇臨席の形式的な会議を開くだけで、実態は陸海軍の寄り合い所帯にすぎなかった。すなわち、陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ(多少の手直しを経て)大本営陸軍部と大本営海軍部の大部を構成し、引き続き個別に戦争を指導したのである。

細かい点を横に置けば、事実上、参謀本部が大本営陸軍部を名乗り、軍令部が大本営海軍部を名乗っただけといってもよい(図1)。そのため、昭和の大本営は単なる看板に等しく、陸海軍を統合して運用する機能を持たなかった。

大本営発表の実務を担った大本営報道部でも、事情はほとんど同じだった。やはり、陸軍省新聞班と海軍省軍事普及部がそれぞれ大本営陸軍報道部と大本営海軍報道部を名乗り、個別に大本営発表を行ったのである(参謀本部と軍令部には宣伝報道部門がなかったため、例外的に省部の組織が大本営に組み込まれた)。

それゆえ一口に「大本営発表」といっても、その名称は長らく「大本営陸軍部発表」と「大本営海軍部発表」に分かれていた。共同で発表する場合も、「大本営陸海軍部発表」という名称が使われた。

ふたつの報道部は、その後何度か改編されたものの、一向に交わらなかった。統合されたのは、なんと太平洋戦争の敗戦三ヶ月前の一九四五年五月だった。

(辻田真佐憲『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』「第一章 日中戦争と大本営の誕生』より)

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関連書籍

辻田真佐憲『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』

信用できない情報の代名詞とされる「大本営発表」。その由来は、日本軍の最高司令部「大本営」にある。その公式発表によれば、日本軍は、太平洋戦争で連合軍の戦艦を四十三隻、空母を八十四隻沈めた。だが実際は、戦艦四隻、空母十一隻にすぎなかった。誤魔化しは、数字だけに留まらない。守備隊の撤退は「転進」と言い換えられ、全滅は「玉砕」と美化された。戦局の悪化とともに軍官僚の作文と化した大本営発表は、組織間の不和や、政治と報道の一体化に破綻の原因があった。今も続く日本の病理。悲劇の歴史を繙く。

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辻田真佐憲

一九八四年大阪府生まれ。文筆家、近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科を経て、現在、政治と文化・娯楽の関係を中心に執筆活動を行う。単著に『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』(幻冬舎新書)、『愛国とレコード 幻の大名古屋軍歌とアサヒ蓄音器商会』(えにし書房)などがある。また、論考に「日本陸軍の思想戦 清水盛明の活動を中心に」(『第一次世界大戦とその影響』錦正社)、監修CDに『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌 これが軍歌だ!』(キングレコード)、『みんな輪になれ 軍国音頭の世界』(ぐらもくらぶ)などがある。

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