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大人気書籍『規格外』試し読み

2016.01.04 公開 ツイート

第3回

齢40からの再スタート
篠原信一

日本代表監督に選ばれ、ロンドンオリンピックに臨んだ篠原信一氏。しかし、「金メダルゼロ」という史上最悪の結果に終わってしまう。そこからとった驚きの行動とは―ーー?!
「今のままの自分でいいんだと楽になった」「型どおりにはまらなくても、人生ってこんなに楽しめるんですね!」などと大反響の篠原本、特別に一部を無料公開します。

***

 ロンドンオリンピックの直後、代表監督を辞任することを発表しました。

 金メダルゼロの責任は重かった。でもそれだけではありません。

 僕は初めから、監督を引き受けた時から吉村先生たち全柔連の幹部の方々に、ロンドンまでですよと言ってきました。

 代表監督の任期は1期4年。2期8年続けるのが通例で、前任の斉藤先生もそうでした。でも僕は8年も務まるとは思えなかった。4年だけであればなんとかやれるかもしれないという思いもあって、監督という重責を負う決意を固めたのです。

「そんなんロンドン終わってから言え」

 吉村先生にはそう言われていましたし、これから代表を率いる人間がいついつに辞めるつもりなんて口にするべきでないことは分かっていたので、これはしばらく僕の胸の中だけに留めておくことにしました。

 いろんな方々から慰留して頂きましたが、僕の決意は変わりませんでした。

 そして、翌年には天理大学の教員も辞めることにしました。

 僕は講師から准教授という肩書きになっていました。出なければいけない会議も増えたし、入試にも関わるようになった。お給料を頂いているとはいえ、僕には向かない仕事でした。

 その時僕は教員を、指導者を辞めて、新しいことをしたいと思っていました。

 年齢は40。僕はこう考えていました。

「40歳過ぎてこのままはあかん。きっと俺はこの後の人生を妥協してまう」

 人生80年という言葉がありますが、40歳はちょうど半分。このタイミングで新しいことを始めないと、残りの時間をなあなあな感じで過ごしてしまいそうだったのです。

 もともと真面目な性格ではありません。楽できる時は、とことん楽してしまうタイプです。なんとなく柔道着を着たまま、元オリンピックメダリストというだけの、どうしようもないじいさんになっていく自分がありありと想像できました。

 柔道家としての僕を導いてくれた有井、正木両先生にも正直に話しました。

 最初はどこか別の団体の監督をするのかと思われたのですが、もちろんそんなつもりは一切ないと説明しました。

 大学の先生として安定した立場や収入があるのにもったいないとみんなが言います。それこそ「アホか!」です。先生たちも「アホか!」で、嫁さんからも「アホか!」。

 同じ地元出身で、天理大学の先輩としてもずっと僕を可愛がってくれているSさんにも僕の意志を伝えたところ、やっぱり「アホか!」と言われました。

 しかも僕は、その先輩と同じ、廃棄物の収集業者を立ち上げたいと思っていたのです。

「なんで大学の先生辞めてまで『ゴミ屋』やねん」

 この先輩には最後まで反対されました。大学を辞めるのはもったいないし、廃棄物の収集業者なんて、なりたくてなれるような簡単なものじゃない。考え直せと何度も言われました。

 それでも僕の思いは変わりません。単なる思いつきで言ったわけではありませんでした。

 実はもう一人、同じ地元出身の育英高校柔道部の先輩で、僕をとても可愛がってくださっていたTさんという方がいて、その人も廃棄物の収集業者をしていたんです。

 僕が尊敬する先輩2人が同じような仕事をしている。ということは僕にも向いているかもしれない。

 父が建築関係の自営業をやっていたので、自分で商売をすることにはなんの抵抗もありませんでした。そして他の人の会社で雇われるのは絶対に無理だという思いもありました。

 大学を辞めることには反対していた嫁さんですが、僕の決心が固いことを知って、「今までと収入が変わらないんであれば」という条件で承知してくれました。

 そんなのやってみなければ分からないわけですが、もちろん僕も大切な家族を路頭に迷わせるつもりなんかありません。

「それはなんとかするから」

 自分自身に言い聞かせるようにそう約束しました。

 そして僕は嫁さんを社長に据え、株式会社マイドスを立ち上げたのです。

 回収業者になるのはいろいろと許可や人間関係が難しく、僕が選んだのは事業系廃棄物の管理業です。

 簡単に言うと、一つの会社の廃棄物処理関係の窓口をマイドスが一本化することで、その会社の負担が減って、業務の効率をアップさせる仕組みなんです。

 この世界を何も知らないでいきなりはできないので、天理で収集業者をやっている先輩に頼み込んで、1年間、収集車に乗ってスーパーや市場から、魚のアラを回収する作業などをやっていました。

「金メダル獲れんで、全日本も大学も辞めさせられた篠原が、トラックに乗っとるで」

 奈良の街を走るわけですから、そういう噂も飛び交います。

 でも僕は誰になんと言われようとどうでもいいと思っていました。

 柔道を始めたのも、大学や日本代表の監督を引き受けたのも、誰かに頼まれたり、断れなかったりしたから。流されて流されて生きてきた結果と言えます(お陰でまたとない経験をさせて頂いて、みなさんには感謝してもしきれませんが)。

 でもこのマイドスの仕事は、40歳を前にして人生で初めて自分からやりたいと思って始めたことです。この仕事できちんと結果を出さなければ、篠原信一の人生は、人任せだったと言われても仕方ありません。

 営業先には「篠原が来てくれたんなら、じゃあ試しにお願いしてみようか」と言ってくださるお客様もいらっしゃいます。

 もちろんすべてのお客様がそうではないですし、難しいことやうまくいかないこともたくさんあります。それでも第2の人生をスタートさせた今、僕はとても充実した日々を送っているのです。

 そして今、テレビに出させて頂く機会も増えました。正直、会社の認知度を上げるために始めたテレビ出演ですが、やらせてもらうからには本気でぶつかってます。

「篠原、テレビ出すぎちゃう?」

 そう言う人もいます。みんな好き勝手言いよるなあと思います。

 それでも僕は気にしません。とにかく今はやるべきことをするだけです。ただそれだけを考えています。

 なんか僕、格好よすぎますかね。

 まあ実際、格好いいんですけど。

関連書籍

篠原信一『規格外』

人生のほとんどを人よりも顔2つ分飛び出してきた。流され続けて好きでもない柔道をやって、シドニーオリンピックでは無念の銀メダル。日本代表の監督になってA級戦犯と言われたり、会社を立ち上げてみたり、バラエティー番組に出たり。デカさと生き方は「規格外」かもしれないけど、「規格外」に幸せな僕の人生の、ちょっとしたコツやヒントのようなもの。

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篠原信一

1973年青森県生まれ、兵庫県神戸市育ち。中学1年生より柔道を始める。その後、育英高校(兵庫県)、天理大学へ(奈良県)と進学。全日本選手権では史上3人目の3連覇を達成。2000年、シドニーオリンピック100キロ超級にて銀メダルを獲得。03年に現役生活に終止符を打つ。08年柔道男子日本代表監督に就任、ロンドンオリンピックを経て12年に退任した。

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