ーー家が変わるたび、そこにいるわたしもすこしずつちがっていた。とおもう。
モデル、俳優、ポッドキャストとマルチに活動する文筆家・金井球さんによる新連載『くうねるゆれる・四角い床で』。
実家で暮らし、ひとりで暮らし、ふたりで暮らし。それぞれ「家」も「わたし」も違っていたけれど、床はみんな四角かった。
第3回は、初めての就職先の話。一人暮らしのはじめたて、牛しぐれ煮を作るようになり、作れないようになり。なぜ、4か月で社員寮を去ることになったのか。当時の記憶を振り返ります。
* * *
あこがれハイ
牛のしぐれ煮の、しぐれって部分が、やけにかっこいいから好きだ。毎週火曜、仕事の定休日は、スーパーへ走って、牛肉を2キロ買ってかえった。肉を鍋にてきとうに放りこみ、刻んだにんじんと、玉ねぎと、めんつゆをどばっといれて、たまにかき混ぜたりなんかしていると、大量のしぐれ煮ができる。このとき、なるべく適当な感じで調理をすると、慣れているっぽくてかっこいい。かっこよさを原動力に、わたしは毎週毎週、牛のしぐれ煮と、ほうれん草の胡麻和えをつくって袋に詰めて冷凍した。米もまとめて五合炊き、ラップで包んでこれまた冷凍。ぱんぱんの冷凍庫。納豆と卵が整列する冷蔵庫。名前のある料理たちに守られた、かなり生活っぽい生活。
仕事が始まった。美容室での仕事だ。朝の6時に起きて、夜11時過ぎに帰宅する毎日。一日の大半を店で過ごすなかで、生活に向き合える時間は昼休憩の15分、家へ帰って寝るまでと起きて家を出るまでの1時間。だが、それもなんだかよかった。寮のある野方から店のある高円寺へは、環七通りという大きな道路を通って10分。車ビュン、車ビュン。ビュンビュンゆく車の脇を、毎朝毎晩歌を歌いながら、あこがれたまちへ自転車を走らせた。
仕事の日は、起きると、好きな映画を横目に出勤の支度をする。顔を洗って歯を磨く、15分。ポイントを押さえたメイク、15分。服は汚してもいいTシャツを選ぶ、5分。ボブカットにアイロンを通す、2分。冷凍しておいたそれらと米をそのまま保冷バッグに放り込む、2分。朝食べるための米をレンジへ、味噌汁のためにケトルに水道水を入れる、3分。納豆ご飯と味噌汁が出来上がったら、ゆっくりそれを食べながら、映画にすこしだけ集中する。7時になるまでに家をでると少し余裕を持って店に到着する。
店に到着したら、きのう店を出る前に干していたタオルたちが、乾いているか確認する。乾いていなかったら、裏にある銭湯のコインランドリーで乾燥をかけなくてはならず、そうなると、店でいちばん下っ端のわたしが、大量のタオルを抱えて美容室の外へ出る。わたしはこの時間が好きだった。すこし湿っているタオルからは、きのうしっかり入れた柔軟剤がダイレクトに香る。そして、わたしはあこがれのまちで働いていて、かなり馴染んでいる。ということがいちばんうれしかった。店を一歩出ればそこは高円寺で、この店で働いている限り、わたしはこのまちの一員なのだ。店長がなにか備品が足りないという顔をしていたら真っ先に手をあげて、おつかいに出た。とにかく、まちを歩きたかった。わたしは、たぶんあこがれハイだったのだ。
「きみはさ、このまちが好きなの?」
そのひとは、七個くらい上の美容師の先輩で、なつみさんというらしかった。働き始めて、二週間が経ったころ、なつみさんは店に突然やってきた。話にはきいていたけど、会うのは初めてだった。ひとことで言えば、ギャル、なのだが、すっと通った鼻筋とぱっちりとした大きな目がすこし怖いくらいにきれいな人だった。
「きみはさ、このまちが好きなの?」
なつみさんは、対面するなり、こうわたしに尋ねた。
「はい!好きです!学生時代から高円寺にはよく遊びにきていて、いつか働くなら高円寺がいいとおもっていて…」
「このまちが好きなら、ここで働くべきじゃなかったね。」
ばつん。
このまちで働くことは、このまちをたのしい遊び場でなくしていくことなのだ、となつみさんは続けたが、わたしはけっこうショックでたまらなかった。銭湯好き?好きです。裏の銭湯にはここのお客さんがいっぱいくるから、みんなに顔を覚えられる前にたくさん入りな。はい。
なつみさんはどんなつもりでわたしにそれを伝えたのかわからなかったけど、怖いくらい綺麗な無表情から発される言葉たちは必要以上に鋭利で、ハイになっていたわたしを冷めさせるには充分すぎるほど突き刺さった。
まちの一部になることは、自由と引き換えなのだというあたりまえのことに、当時のわたしはかなりショックを受けてしまったのだ。
その日はじめて、15分の昼休憩を短く感じたと思う。家から持ってきたしぐれ煮がなかなか解凍されないことに初めて引っかかったと思う。自転車に乗りながら、ちょっとした坂を煩わしく感じるようになった。
あこがれハイが終わってもうひとつ気がついてしまったことがあった。わたしにはおもてなしの気持ちがないのである。
学生時代、美容室が好きだった。美容室の匂いも、タオルの感触も、美容師さんとの会話も全てが楽しくて、次いつ美容室に行こうかということをいつでも考えていたほどだ。
美容室で働いてみて、それがぜんぶ、受け取る側の喜びであったことに気がついたのだ。頭を触られるのが、好きだっただけだった。仕事を舐めるなというみなさまのお気持ち非常によくわかります。
さらには、ひとの頭を触ることが苦手だった。思い返せば、美容学生時代は二人組で交互に施術をし合うということが多く、のちにやってくるご褒美に向かって、いやいやペアの頭を洗っていたのだ。
たとえば、シャンプーをする。お客さまが気持ちよさそうにしてくれると、それが羨ましくてたまらない。わたしもシャンプーをされたいと思う。されたいわたしがしている。わたしひとりの体で、ふたつ損をしている気分になる。練習で店長にシャンプーをしていたときは、手本をわたしの頭に施してもらえたのに!わたしはいつ、この分のお返しを受け取ることができるんだろうか、ということがよぎってしまうのだ。ヘッドマッサージも、ドライヤーも、ずっとしてもらいたいことをわたしがしている。
美容室で施されるあらゆることが好きすぎた分、それが一切わたしに向いていないことが切なく、悲しくて仕方ない。それを自覚してからは、15分休憩の短さも、睡眠時間の短さもすべてに納得がいかなくなった。休日はすべて寝て過ごすようになり、朝ごはんも、しぐれ煮も作らなくなっていった。しぐれ煮のない昼休憩はさらに過酷で、15分の間に少し離れたオリジン弁当までダッシュしなくてはならないことも、わたしを苦しめた。
あこがれの生活がどんどんままならなくなるさまが恐ろしく、4ヶ月目に入ったある朝、仕事をやめたいのだと店長に告げてしまった。涙が出るほど、清々しい気分だった。
早期も早期の早期退職をして、わたしは寮を出ることになった。
寮から徒歩4分の場所に引っ越すことを話すと、「あんた面の皮厚いね、心臓に毛が生えてるよ」と笑いながら言われた。それ以降、なつみさんには会っていない。
くうねるゆれる・四角い床で

ーー家が変わるたび、そこにいるわたしもすこしずつちがっていた。とおもう。
ミスiD2022グランプリ受賞後、モデル、俳優、ポッドキャストと領域を横断しながら、独特の視点で日常を書きとめてきた文筆家・金井球による新連載。
実家で暮らし、ひとりで暮らし、ふたりで暮らし、いままた、ひとりで暮らすための部屋を探している彼女が、これまで通り過ぎてきた四角い床のことを思い出していきます。










