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瀬戸際の花嫁

2026.08.21 公開 ポスト

誇り高きホス狂いは元ホストを愛さない鈴木涼美

ちょうど会社を辞めた頃、晴れて昼も夕方も夜も深夜も好きな時に飲み歩けるようになって、同じようにふらふら生きている友人のナナと何度か行ったバーがある。深夜一時頃開店するバーは、その時間帯特有の需要、条例の都合で深夜一時に大量に外へ放出される、しかしそんな時間に中途半端に酔っぱらって家に帰ってしまったら眠れないし病むし余計なLINEなど送ってしまうし癖によっては手首に傷痕など残してしまうのですぐには帰りたくない女性たちと、ホテルや自宅や、あるいはもっと独創的な場所で彼女たちを楽しませるのではなく、なんとなく似たような人間の多い無難な、しかも自分の勤める店から徒歩でたどり着ける場所で機嫌をとって、次回以降の売上を安定させたい男性たちの需要によって成り立っていた。

 

そんな男達でも連れていられるのは運のよい方の女性で、運が悪いと男たちが放ったヘルプという名の売れていないホストのうまくないカラオケを聞かされるか、一人で座ってバーの店員に気を使われながら歌いたくもないカラオケを歌うか、という状況になり、ここまでして家に帰らない理由ってなんだっけ、と自問自答することになる。

私とナナはその狭間にいた。来るかどうかわからない男を待ったり、面白くもなんともないヘルプと飲んだりするほどもう夜の街に期待はなく、かといって楽しかったかもしれない夜をキャンセルして自宅に帰るほど地に足もついていなくて、結局ローソンの前あたりで待ち合わせて、知り合いがやっている店などに女二人で行って、花も実もないおしゃべりを延々するか、疲れるためだけにダーツをして酔うためだけにテキーラを飲むか、二人だけの謎縛りを作ってバーにいる若い女子がぽかんとする選曲でカラオケをするかして、明るくなる直前に帰ることが多かった。そこはそういう店の中では特にお気に入りでもない、いつもあそこばっかりだからたまにはあっち行こうか、の「あっち」に該当するような、ないよりはマシな店だった。

店の店主を私たちはなんとなく知っていた。お互いそれほど通い詰めたわけではない、それほど大きいグループ傘下でもないホストクラブの元代表で、その前は私が昔同棲していた男が代表の店で売れっ子ホストをしていた。バーの店主となった頃には、すでに現役バリバリではないものの、一つのホストクラブのプロデューサーという肩書きで週の半分くらいは店に出て、後輩のヘルプや昔なじみの客の接客をしていた。いわばバー店主とホストの二足のわらじで、歌舞伎町には微妙な年齢のそんな男が結構いる。

バーは三年ほど前に、似たような店を居ぬきのような形で引き継いでオープンさせていた。もともと本人が比較的おとなしい性格だからか、サパーのような煩い店ではなく、ただひたすら店が引けた後のホストや女性客がカラオケをしながら、鏡月のジャスミン割りなどを飲んでいる場所だった。私はその店主の面長で白い顔は、異性として特に好みではなかったけれど、生真面目に歳を重ねて夜業界にやや疲れたような、憂いのある表情や仕草は嫌いじゃなかった。

その日もナナと特に時間を指定するわけでもなく、なんとなく深夜一時頃というつもりで待ち合わせていたのだけど、私がバーの開店間もないそんな時間にすでに入店した後、「今日初回で飲み直ししたんだけど、年甲斐もなくホテルに凸ってくるわ(笑)」という、本当に年甲斐と節操のないLINEを送ってきて、生憎私の方はというとその日は起床が午後十時をまわっているような体たらくで元気が有り余っている状態だった。

昔散々お金を使った老齢のホストなど呼び出してみてバー飲みに付き合ってもらうことや、別の女友達に連絡してみることなど考えながら、なんとなく四席くらいしかないカウンター席に珍しく陣取って、まだ暇そうな店内を眺めていた。そんな折、それまでホストクラブに出勤していたらしい店主が帰ってきて、特に来客予定もなかったのか、カウンターの中に入って話相手をしてくれそうな空気を醸し出していたので、結局私はそのまま誰に連絡するわけでもなく、しばらくその店主とおしゃべりすることにした。

「え、俺の悲惨な引っ越しの末路の話知らなかったんだっけ」

彼がそんなことを言い出したのは、私がジャスミン割、彼がビールのそれぞれ二杯目を飲み始めた直後だった。私の方は寝起きに一人でねぎしの牛タンを食べてからの二杯目なので全然正気だったが、彼の方は瞼の色や微妙な語尾の呂律で、すでに一日の後半というか終盤の酒というのがわかった。

「うん、知らない。悲惨な末路というか引っ越しも知らないしその前にどこ住んでいたとかも知らない」

私は正直に答えた。働き方や出身が九州であることから、おそらく多くのホストと同じように東新宿のあたりか、よくて西新宿あたりに暮して、ホストにお金を使ったことのない女とでも同棲しているのだろうくらいのことは言えても、私は彼の住環境について本人とも彼の元上司で私の同棲相手だった男とも話したことはなかったし、推測できそうなそんな事情について別に興味もなかった。でも悲惨な末路と聞いて、彼が酔って私が酔っていない絶妙なタイミングで結構面白い話が聞けるのかもしれないと少し身を乗り出した。

話がそこそこ上手いベテランホストの過去の面白い話というのは、下世話な話が好きな私にとっては本当に面白い話が多い。歌舞伎町内のマンションでけんか相手の女が悪酔いして窓から飛び降りそうになり、慌てて服を掴んで一命をとりとめたものの、細腕のホストにはなかなか引き上げることができずに続々と下にギャラリーができて次の日は掲示板に散々写真をアップされた、とか。同棲していた一番金を使う客であるエースと別れ話がもつれ、最後は家中にブタのえさを撒かれて出ていかれて売りかけも飛ばれた、とか。ホスト人生十五年のうちに最重量級の文字通り太客がいた頃、彼女がいつも飲んでいたのはカルピスの原液と牛乳を1:1で氷も入れずに割ったもので、いつもストローがグラスに触れずに立っていたものだが、彼女と枕したらわきの下からカルピスの匂いがした、とか。もちろん、男側の話が面白いということはホスト好きや元ホスト好きの女の話はさらに輪をかけて面白いわけだが、きりがないので少々割愛。

それで身を乗り出した私は、自分がかなり正気であることを誤魔化すために、なんかやばそうな話だからイエガーでも飲もう、なんていって五杯のショットを頼み、まず彼と一杯ずつ一気飲みしてから話を聞いた。が、最初の一行はなんとなくげんなりする言葉だった。

「いや、俺三十二の時のエースと結婚する予定だったのね」

客と結婚するつもりだったとか、エースのことを最後に幸せにしようと思っていたというようなことを口にするホストは多い。それでもお互いの気持ちがすれ違って俺がふられた、とか。そうすればそれを聞いた次の女がエースに育つ可能性が上がるから。でも当時の私はもう三十を過ぎて、歌舞伎町的にはそこそこのおばさんだし、夜職を離れてそこそこ長いのでエースをやる体力も大してない。この期に及んで、しかもバーの客に俺はお金使った女に本気になるアピールするのか、とかなり白けた目で続きを聞いたが、彼の話すスピードと苛立ち、話の細部や、何よりその内容がもし私が彼の指名客だったとしても何一つ心躍らないものだったことから、どうやら本気で悲惨な結末に病んでいるようだった。

雑に要約すれば、彼は五年近くエースとして彼を支え、何千万と使ってきた客と、すでに一線を越えた関係になって長く、とはいえ現役バリバリの割と売れっ子ホストだったことから完全な同棲はせずに、しょっちゅう家庭訪問つきのアフターをする半ば本営(君は僕の客じゃなくて本命だよ、と囁く営業)エースのような状態だった。彼の方としては客としての彼女を失うと売り上げは激減するしナンバーワンの座が危ういので、失いたくない存在ではある。というか彼女がいないと困るし辛いのは事実なわけだし、彼女の顔や喋り方やファッションはもともと嫌いじゃないし、一緒にいて楽な性格も手伝って、なんかもう自分にとって必要な人っていう意味ではこれは恋人とか愛とか呼んでいい類の関係だろと思うようになった。

三十歳を過ぎてそこそこ貯金もでき、店の中でも現役バリバリのナンバーワンというよりは、後輩の教育やリクルートなどを担う運営側としての地位を確立しつつある、といったタイミングで彼は彼女に、全国のエース様が一度は夢に見る、「もうお店こないでいいから、家で俺のこと支えて欲しい」と実質プロポーズのようなことをする。東新宿や北新宿ではない、少し歌舞伎町からは距離のあるマンションを契約し、一緒に住んで今度の誕生日に籍を入れようということになった。彼の方は出来るホストとして独り暮らしを貫いてきたがついにバリバリの現役を退いて新しいステージに立つということ、長年支えてくれたエースを今後は自分が経済的に支えて、お互い幸福な家庭を作るということに割と意気揚々としていた。

ところがその彼女は彼の売上を五年以上支え、その前は有名店の新人を一気に幹部に押し上げた実績もあるホス狂いである。もちろん大好きな彼からのプロポーズにも、渋谷区のマンションにも大変幸福な気分にはなったようだが、彼女自身が気づいていないレベルで彼女は凡庸な女ではなかった。彼との未来を信じて自分の部屋を引き払い、引っ越してきてちょうど三週間、彼女は毛先のやや傷んだ髪の毛をひるがえして玄関から出て行った。

彼女は崇高なホス狂い。王子様の目覚めのキスを待ち百万ドルのダイヤを待つのではなく、王子系ホストのバースデーに五百万円のシャンパンタワーと三百万円の飾りボトルを注文する。

「ほんとに結婚するって向こうも言ってたからね。自分でも驚いてるって言っていたけど驚くのはこっちだわ」

とは彼の弁。でも自分でも驚いたという彼女の言葉に嘘はない気がする。私たち女子は結構似たような漫画やドラマで育っているから、こういうものが幸福でこういう男がいい男だとなんとなく信じ込んでいる節があり、それが手に入るまでは自分もどこかでそれを願っているような気がしてしまうものだから。でも手に入れた王子は上等な服を着て指輪を持った王子でしかなく、自分の愛した、変なラインストーンとかついているTシャツを着てスーツを羽織り、ゴツい指輪をはめた手に伝票を持っている王子系ホストは消えていた。消えて初めてその愛しさに気づくことがある。

と、想像力を膨らませたのは私の所業で本当は、歌舞伎町の中ではかっこよく見えたうすっぺらい胸板の偉そうな男が、渋谷区の住宅街では非常に安っぽく見えるなんていうことはよくあるし、ましてSNS以前のカリスマホストたちなんてどんなにカリスマであろうが歓楽街を一歩出たら変な髪型で変な喋り方の二日酔いの若い男でしかない。独特の価値でヒエラルキーを作る街の外で、自分の男を見たらやっぱりちょっとクーリングオフしたくなったのかもしれない。それはわからない。

その後私が元同棲相手の、その数年後に街から忽然と消える予定の男に聞いてみたところ、件の店主の元エースは今も歌舞伎町で非常に精力的なハートのエースを務められているようで、彼女のような崇高さはなく、元ホストと大人しく結婚してしまった身としては実に眩しい女だと感心してしまうのだった。

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人気連載「夜のオネエサン」シリーズが帰ってきました! 妻になり、母になることになった鈴木涼美さんが、人生の思いがけない展開にときに戸惑い、ときに喜びながら、「夜のオネエサン」たちの結婚・出産について思いをはせます。

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鈴木涼美

1983年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学卒。東京大学大学院修士課程修了。小説『ギフテッド』が第167回芥川賞候補、『グレイスレス』が第168回芥川賞候補。著書に『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』『愛と子宮に花束を 夜のオネエサンの母娘論』『おじさんメモリアル』『ニッポンのおじさん』『往復書簡 限界から始まる』(共著)『娼婦の本棚』『8cmヒールのニュースショー』『「AV女優」の社会学 増補新版』『浮き身』などがある。

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