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未だ本能寺にあり

2026.08.06 公開 ポスト

織田信長の遺体はどこへ? 明智光秀を追い詰めた「本能寺最大の謎」乃至政彦(歴史家)

「織田信長の遺体は、一体どこへ消えたのか?」

明智光秀や羽柴(豊臣)秀吉の運命を変えたこの本能寺最大のミステリーについて、歴史家の乃至政彦さんに解説していただきました。

この謎に真っ向から挑むのが、9月29日に発売予定の今村翔吾・著『未だ本能寺にあり』。

なぜ遺体は見つからなかったのか、その時現場で何が起きていたのか──。歴史の深みに触れつつ、スリリングな歴史ミステリ小説の発売をぜひ楽しみにお待ちください。

織田信長の遺体は本能寺とともに燃えたのか?

織田信長の遺体は、いまだ発見されていない。

ここでは、関連する歴史の有力文献を見てみよう。

まず、信長とも密接に交流していた宣教師のルイス・フロイスは、「その名だけで諸人を畏怖させていた人が残すことなく灰塵に帰した」と記している(1582年11月5日付、イエズス会総長宛、ルイス・フロイス報告書)。

同氏が後年に編纂した『日本史』にも「火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものはひとつもなくなり、彼のものとしては地上に何ら残存しなかったことである」と書き残している。

火災の炎で人が跡形もなく燃え尽きるのかは疑問だが、本能寺と共に信長は焼け、遺体は残されていなかったというのである。

これは、本能寺の変を起こした惟任(明智)光秀にとって、たいへん致命的な事態であった。

この時代を生きた老人の言葉を書き残したとされている史料に、次の言及がある。

尾張の村人が書き残したとされる『祖父物語』──。

ここでは本能寺の変を起こした光秀が、「信長の死体がどこにあるか捜索させたが、見つけることができなかったので、『もしも逃げられたとしたらどうしたらいいのだ』と、動揺した(御死骸を尋けれとも見えす、明智仰天して若退せ玉ひけるか如何せんと案する)」と記されている。

信長の死を天下に示せなければ、自らが新たな支配者であることを正当化することは難しかった。

明智光秀を追い詰めた秀吉のウソ

なぜなら、この先、もしも光秀が史実以上に順調に勝利を重ねて、大きな力を得たとしても、人々が光秀に味方するのをためらうからである。

ためらう理由は、単純である。

信長が、本能寺の変を切り抜けていて、「光秀とその与党を許すな」と宣言したら、大変なことになる。

寝食を共にしている戦友や家臣に首を取られて、「この人は、不埒にも光秀側につきました」と信長に差し出すかもしれない。

実際、信長の遺体が晒されていなかったことで、勢いづいた武将がいた。

羽柴秀吉である。

彼は光秀を討ち取るための準備をしている時、同じ織田家臣の中川清秀に次の書状を書き送ることで、懐柔しようと考えた。

「上様(織田信長)ならびに殿様(信長息子の織田信忠)、いずれも別儀なく、御きり抜けなされ候」

信長も信忠も死んでおられない、ご無事である──と根拠もなく喧伝したのである。

 

遺体の有無が、戦略を左右した。

孤立した光秀は、秀吉たちに敗戦して、人里離れた山間へ落ち延びていく。

そこで落武者狩りに遭い、百姓の「棒打」を受けて撲殺された(『太田牛一雑記』)。

6月17日、光秀の首は焼け落ちた本能寺で晒される。そのあと、さらに首と胴をつなぎ合わされ、生け捕られた副将と共に、京都粟田口で磔刑とされた。

本来であれば、光秀がそうしたいはずであった。京都に信長の遺体を晒し、自らの勝利を天下に示さなければならなかった。だが、彼にはそれができなかった。

全国に残る信長の首塚伝説

信長の遺体はどこに消えてしまったのだろうか? そもそも本当にその場で燃え尽きてしまったのだろうか?

比較的、信頼度の高い史料に、僧侶・清玉の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』があり、次の異説を確かめられる。

その最期を迎えるにあたり、信長は側近たちに「(わが死体を)敵に取られるな」「敵方へ渡すな」と遺言して切腹した。このため、彼らはひとまず敵軍に攻められている本能寺の境内で主君の亡骸を火葬した。

事件を聞いた清玉は「僧徒」20人を連れて本能寺に駆けつけた。そして火葬された遺骨を引き取り、阿弥陀寺に運んで埋葬したのだという。

 

これが事実なら、信長の遺体が見つからなかったのも道理であるが、同時に別の疑問が浮かび上がらないでもない。

信長の遺骨を隠し持って脱出した上人はどうやって明智軍の探索を潜り抜けられたのだろうか。

光秀たちは、信長の首が見つからないと大変なことになる。だから、寺から出てくる者たちの持ち物には目を光らせていたはずである。

光秀亡き後、秀吉は信長を弔うため、総見院を建立し、信長の木像を焼いた灰を用いて遺灰とする葬儀を行った。

この公式葬儀の時、なぜ秀吉は阿弥陀寺の遺骨を使おうとしなかったのだろうか。いや、使えなかったのだろうか。

少なくない疑問が残る。

 

このため、信長の遺体が消えた理由は、いまなお決定的に解明されていない。

異説として、信長の首を原清安なる武士が見つけ出し、駿河国の西山本門寺に移送し、そこに埋葬したという伝承がある(阿部正信『駿河雑志』)。

他に複数の首塚伝説があり、有名なところでは、光秀副将の斎藤利三が弔ったという京都府亀岡市「聖隣庵」の首塚、岐阜県岐阜市「崇福寺」の首塚がある。

偉人には、神秘が宿りやすい。

本能寺最大の謎は、四百年以上を経た今日も、われわれの前に残されている。

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乃至政彦 歴史家

1974年生まれ。高松市生まれ。歴史家。著書に『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』『信長を操り、見限った男 光秀 史上もっともミステリアスな武将の正体』(河出書房新社)など多数。書籍監修や講演でも活動中。

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