8月6日に小説デビュー作『檸檬と蜜柑のラプソディ』が刊行されました。
本作は、音楽朗読劇などで文学×音楽の魅力を綴っているふるたみゆきさんの小説デビュー作。テーマはクラシック音楽×お仕事です。
ヴァイオリンの道を諦めた二十八歳の檸檬が、失意のなか音楽事務所に就職。任されたのは京都出身の天才少女・蜜柑のマネージャー!?
泣いて笑って、明日も頑張る活力になる、そんな作品です。
衝突を繰り返しながらも、少しずつ心を通わせていく二人の奮闘をお楽しみください。
発売を記念して、全2回で第一章を丸々公開いたします。
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第1章 いざなわれて花嵐
「誰なん、その女?」
鏡越しに第一声が放られた。そら来た、とばかりに全員がうつむく。初老の額に汗を光らせながら、社長が姫君の傍にひざまずく。
「蜜柑姫、ご紹介が遅れて誠に申し訳ありません。こちらは新任のマネージャーの」
「ドレミは?」
「鳥羽ドレミは退職しました。でもほら、ご安心ください。こちらの吉田檸檬さんは鳥羽と同じ、東京生まれ東京育ちの二十八歳。なんと、昨年までプロのヴァイオリニストだったんですよ。東京国際音大を優秀な成績で卒業されて、リサイタルの主催も──」
「やかましいわ、ハゲ。何回言うたら分かるん?」
椅子がクルリとこちらを向いた。
天才少女と名高い十歳のヴァイオリニスト、蜜柑。
老舗の音楽事務所ムーサ・ジャパンのトップ・アーティストにして小学五年生の声は可憐だった。京ことばで発せられる悪態はコロラトゥーラ・ソプラノのように魅惑的な抑揚を帯びて、聴く者をうっとりさせるような響きがあった。
「リサイタルの当日にスタッフのメンツ替えんといて。気が散るやん」
「どうもその、よんどころない事情が」
「デリケートなわたしがもし調子崩して舞台に出られへんかったらどうすんのん。わたしのキャリア、東京のお客さん二千人分のチケット。あんたらどう責任取るつもりなん」
額の汗を拭う社長。おろおろと見守るスタイリスト。ゲネプロの開始時間を気にするホール事務局長。
春の嵐さながらの楽屋を、吉田檸檬はやるせない心地で見物していた。この楽屋に着いてから、真新しいパンツスーツがますます窮屈に感じる。午前中の入社式のゴタゴタも相まって、脇の汗が冷たい。
どんな演奏家も、出番の直前には多少なりと神経質になる。鈴木蜜柑が東京デビューリサイタルの当日に癇癪を起こそうが、さして驚くことでもない。
檸檬が衝撃を受けたのは顔だった。蜜柑の顔。
つぶらな瞳は怒りに燃え、眉は嘲笑のかたちを描き、小鼻はこの世のすべてを見下すようにふくらみ、悪態を紡ぎ出すくちびるはへの字に曲がり、それらパーツが絶妙に調和して美の黄金比を奏でている。
音楽の顔だ、と思う。鈴木蜜柑の顔は音楽そのものだ。凡人の嘆願には耳も貸さず、その努力を嘲笑う、傲慢な音楽の顔。
「で、そこのオバサン」
ぞんざいな声を向けられて、檸檬は我に返った。鈴木蜜柑は頬杖をついて、檸檬の顔を指さした。
「元ヴァイオリニスト?」
「吉田檸檬と申します」
「コンクール歴は?」
「日本音芸コンクールで三位を頂いたことがあります。横浜国際は三次予選、ウィーン国際ではセミファイナルまで進みました。演奏活動は昨年やめました」
「ふうん」と、天才少女はたいして興味もなさそうに首をかしげた。
よろしくお願いいたします。と努めて笑顔をつくりながら、檸檬はこれまでの道行きを思い返した。
昨年の八月。二十八歳の誕生日を迎えて、檸檬は国内外の主要なコンクールの出場資格を失った。十年続けた演奏活動にも終止符を打った。『レモネード・クラシック』と題した吉田檸檬ヴァイオリン・リサイタルの最終回は、約六万円の赤字を出した。
もはや躍進の見込めなくなった檸檬に周囲は冷ややかだった。デュオを組んでいたピアニストには今後の演奏活動をやんわり断られ、不定期開催だった弦楽トリオはあっさり解散、大学時代の同窓生にはカルテット加入をきっぱり断られた。一時期アルバイトをさせてもらっていた小中学生向けの音楽教室には講師の枠がなく、トバ・アーツをはじめとした音楽事務所のオーディションは軒並み書類審査で落選した。
もうレッスンに来なくていいわ、と師匠の樫山美千代教授は言った。
──残念だわ、檸檬さん。私のレッスンは国際的に通用するヴァイオリニストを育てるためのコースだから、あなたはもう育成対象ではないの。もちろん、二十八歳以上でも受けられるコンクールはありますよ。自分の意思で、そういったコンクールに挑戦されるのもよいでしょう。でも、これは私の五十年間の音楽生活から導き出された事実なのだけど……二十八歳を超えていくら努力しても、世界的ヴァイオリニストになれた例はないの。本当に優れた才能のある人は、小学生のうちから国際コンクールで結果を出せるものだし──いま話題の鈴木蜜柑さんみたいに。つらいでしょうけど、これが現実です。
急いで職を探した。ヴァイオリン演奏以外の、なにか。自分がやるべき仕事。東京国際音楽大学ヴァイオリン科卒、二十八歳、独身。職歴は演奏活動のみ。そうやすやすと仕事は見つからない。自称『檸檬ファン』の両親は応援してくれたが、何のなぐさめにもならなかった。
そもそも檸檬の父と母は、クラシック音楽をまるで理解していない。
子供向けのコンサートで美千代師匠のヴァイオリン演奏を聴き、その音色に魅了された檸檬が「アレを弾いてみたい」と楽器をねだったのが四歳のとき。
「コレか。檸檬はセンスがいいなあ」と子供用の小さなヴァイオリンを買ってくれたのは父だが、それから二十年以上経ってもバッハとモーツァルトの区別がつかない。音楽愛好家を自認するわりには音感もさっぱりで、檸檬が音程を外そうがリズムを間違えようが、いつも「うまい、うまい」とニコニコ聴いていた。そんな父である。
母は母で、檸檬がウィーン国際弦楽コンクールのセミファイナルで落選したとき、
「エントリーできただけでもすごいわあ。国際コンクールに出たってことは、オリンピックに出たっていうのと同じことでしょ?」と喜んでいた。誤解を解くため檸檬は再三説明したが、ウィーン国際は中堅クラスの大会で、ファイナルで上位三位に入れなければ履歴書にも書けない──という事実はついに理解してもらえなかった。そんな母である。
ふたりのファンの応援むなしく、不採用通知に埋もれて無残に年は明けた。
そこへ声を掛けてくれたのが、音楽誌『月刊フェルマータ』の実弥子編集長だった。
「ムーサ・ジャパンの社長が困ってるの」
日本音芸コンクールの入賞インタビュー以来、折にふれて連絡をくれる編集長は苦笑した。
「鈴木蜜柑の専任マネージャー、なかなか決まらないんですって。マネージャー職の社員はみんな、他のアーティストのサポートで手一杯。ベテランの社員さんが手を挙げてくれたんだけど、蜜柑姫が『ママと歳の近いおばちゃんは苦手』ってNG。前任の鳥羽ドレミさんて女性はうまくやってくれてたんだけど、一身上の都合で退職。四月に東京のデビューリサイタルも控えてるし、現場経験の豊富なマネージャーが必要なんだけど」
──ありがたいお話ですが、私に務まるかどうか。お子様のサポートをするなら教員免許とかメンタルケア系の資格を持っていたほうがいいと思うんですが、あいにく私は……
「難しく考えなくていいよ。檸檬さんらしく、自然体で接してくれればいいの。親子でもない、姉妹でもない、師弟でもない関係は、きっと蜜柑姫の助けになると思う」
──お仕事の内容はどんな感じでしょうか。
「コンサートの運営や広報がメイン。檸檬さんは自分でリサイタルも主催してたし、裏方仕事に慣れてるでしょう? 企画、資金集め、フライヤー制作、チケット販売管理、司会進行から照明機材のトラブル対応までひとりでこなせる。そんなヴァイオリニストはなかなかいないよ」
──蜜柑さんのご家族は、マネジメントをなさらないんですか。お母様はあの鈴木多果子さんですよね。社会運動家で、元ヴァイオリニストの。
「いろいろあるのよ、経緯と事情が。多果子ママは手元に置きたがってたけど、蜜柑姫の才能を伸ばすためなら、って泣く泣くムーサ・ジャパンに預けたんですって。ご自身は社会活動や音楽プロデュース業がお忙しいし、パパは京都の開業医、お姉ちゃんの柚子さんは京都の大学生。家族だけじゃ、蜜柑姫を世界的ヴァイオリニストに育てるのは難しいからって」
──なるほど。
「そういえば檸檬さん、一人暮らしがしたいって言ってなかった?」
──はい、もう二十八ですし、さすがにそろそろ実家を出たくて。
「この仕事を引き受けてくれれば、ムーサ・ジャパンの社宅に住めるよ。都心の1LDK、駅から徒歩五分、オートロック・宅配ボックス完備、南向きのバルコニー付き、社員割引で家賃は格安」
──ちなみに、お給料はいかほど。
「手取りで月二十五万円」
──やります。
「よかった。檸檬さんはきっと、マネージャーの仕事が向いてるよ。冷静沈着。温柔敦厚。機知頓才」
──それ、褒めてます?
「もちろんよ。落ち着きがあり物事に動じない。和やかで情が深い。いざという時に機転がきく。あなたとあの子は相性がいいと思う。だって檸檬と蜜柑は、同じ柑橘類でしょう?」
四月一日、こうして東京赤坂グランドホールの楽屋で本人を目の前にしても、その言葉はぴんと来ない。相性? まさか。
「ああ、気分わる」
檸檬が顔を上げると、十歳のヴァイオリニストは鏡に向かってあくびしていた。
楽壇の登竜門たるパガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールで史上最年少の優勝を飾った小学五年生。檸檬が二十四年かかっても立てなかった東京の名門、赤坂グランドホールでデビューリサイタルを行なう天才少女。クラシック音楽界のアイドルとも称される鈴木蜜柑は、コンサートホール事務局長に向かって大げさな溜息をついてみせた。
「指揮者は自分の都合で遅れて来たやん。わたしかて都合があるんやから、タイムスケジュール調整してや」
「大変恐縮ではございますが、これ以上押しますと開演時間に差し支えます」
「ていうか指揮者、わたしに謝りもせんと舞台に行かはるって、さすがにどうなん?」
「パリからのフライトが遅れてしまったそうで、空港から急いで来られたので……」
「わたしのリサイタルなんやから、まずわたしの楽屋に謝りに来るのが筋やないの?」
「もう舞台でスタンバイされていますので、こちらにお連れするというのは」
「わたしは昼寝するワ。こんな気分悪いまま舞台に上がられへんもん」
「タイムスケジュールが三十分も押しておりますし、いろいろと都合が」
「都合、都合ってなんやの」と鼻白む蜜柑。
「オケの都合でゲネしかできひんのに、それはわたしが譲歩したやん。今日は今日で、指揮者の都合で動かなあかんの? わたしのリサイタルなんやから、少しはわたしの都合も聞いてくれたってええやんか」
時計の針が十二時三十一分を指した。檸檬にもようやく状況が呑み込めてきた。
察するに──今日の鈴木蜜柑ヴァイオリン・リサイタルは、通常行なわれるはずの前日リハーサルがなく、本番当日のゲネプロのみという強行スケジュールだった。
理由はコンチェルトで共演するオーケストラの多忙。日本三大オーケストラの一つ、東京セレスティア交響楽団は、毎年四月が繁忙期に当たる。海外の大御所指揮者を迎えての定期公演、東京上野の音楽祭ほか、団員それぞれが出演するコンサートも多々ある。蜜柑もしぶしぶ事情を汲んだ。
そして今日。指揮者、オケ、蜜柑いずれも十一時半に集合予定。オケのセッティングとチューニングが済み次第、指揮者と蜜柑が舞台に呼ばれ、十二時からゲネプロという段取りだった。
ところが、これまた多忙な指揮者が遅刻。集合時刻を三十分過ぎて、慌てて舞台に直行した。ようやく準備が整ったものの、ないがしろにされつづけた蜜柑が爆発。そこへムーサ・ジャパンの社長と新任マネージャー──吉田檸檬が到着した。
「どうなってんの、ほんまに。馬鹿にするにもほどがあるやろ」
荒れる蜜柑に、檸檬とて同情しないわけではない。
いくらプロ同士とはいえ、初共演の面々のリサイタルで前日のリハーサルがないのは、ソリストにとってなんとも心許ない。
指揮者の遅刻は不可抗力だが、やろうと思えば時刻どおりにゲネプロは開始できた。オケには若手の指揮者がアシスタントとして付いている。フライトの遅延が判明した時点で指揮者が知らせてくれれば、アシスタントが指揮を代行できた。そのような調整をしなかったのは、オケと指揮者にとって鈴木蜜柑ヴァイオリン・リサイタルがさして重要な仕事ではないからだ。馬鹿にされたと蜜柑が怒るのも無理はない。
「さっさと調整して、ハゲ」
「蜜柑姫、ここはどうかひとつ、私どもを助けると思って」
「わたしのことは誰も助けてくれへんやん」
「そんなことはないですよ。ね、このとおり有能な新しいマネージャーさんが来てくれて、今後は助けてくれますから。次のリサイタルは、指揮者もオーケストラも、蜜柑姫のスケジュールにぴったり合わせますよ。でも今日だけはどうかお願いします」
コンサートの現場において、指揮者とオーケストラと音楽事務所は微妙なバランスの上に成り立っている。しがらみもあれば力関係もある。ムーサ・ジャパンは表立って蜜柑の肩をもつことはできない。
したがって、いま目の前で繰り広げられている対処法──振り回される被害者を演じ、関係者の同情をかいつつ、蜜柑の機嫌がなおるのを待つ──がベストなのだった。
新任マネージャーたる吉田檸檬に期待されているのは、蜜柑のご機嫌をとること。やさしげな笑みを浮かべ、お愛想を言い、社長の隣で頭を下げることだ。
でも。と檸檬は背筋を伸ばした。
この現場で、自分にはやるべき仕事がある。実弥子編集長が紹介してくれた仕事。二十八歳の元ヴァイオリニストを歓迎してくれた職場。その恩に報いたい。
「ちょっと、オバサン。新しいマネージャーのあんた。聞いてんの?」
「大人相手にそれだけ元気な口がきけるなら大丈夫ですね」
言った。努めてほがらかに。はっと顔を上げるスタッフ全員。流れ落ちる社長の汗。鈴木蜜柑のぽかんと開いた口。
「五分後にゲネプロを開始します。私の伝達ミスでタイムスケジュールが押したことにするので、みなさん口裏を合わせてください」
小さな暴君の顔がみるみる真っ赤になる。
「何様のつもりや、あんた」
「私の名前はオバサンじゃありません、吉田檸檬です。私と蜜柑さんは同じ柑橘類の名前をもっていますが、親族関係はありませんので、オバサンという呼びかけは不適切です。
本日は蜜柑さんのリサイタルですが、だからといってすべてが蜜柑さんの思いどおりに運ぶわけではありません。不利な状況でもベストを尽くすのが音楽家です。ベートーヴェンも言ってるじゃないですか、『私は決して運命に屈しない』。
社長に向かって『ハゲ』はやめましょう。仮にそのニックネームが社長のお名前、五藤初郎さんのイニシャル『HG』のドイツ語読みであったとしてもです」
「吉田さん!」
止めに入る社長をするりとかわして、檸檬はヴァイオリンケースをつかんだ。はじかれたように蜜柑が立ち上がる。
「ちょっと、返してや楽器!」
「舞台袖に準備しておきます。蜜柑さんの演奏がS席一枚七千円に値するレベルかどうか、今日はじっくり聴かせていただきます」
言い捨てて楽屋を後にした。こけつまろびつ社長が追いかけてくる。
「困りますよ吉田さん……!」
「お叱りは後で受けます。社長は蜜柑さんを舞台に連れて来てください」
「もし蜜柑姫が舞台をボイコットしたら、うちの事務所は大打撃なんですよ。このリサイタルのホール代、オケと指揮者の謝礼、広告宣伝費、諸々合わせて軽く数千万円は飛んでるんですから」
「蜜柑さんは舞台に上がりますよ」
檸檬はエレベータのボタンを強く押した。右手に提げたヴァイオリンケースが重い。パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールの優勝プライズとして鈴木蜜柑に貸与されたストラディヴァリウス、時価推定三億円。
「初対面の元ヴァイオリニストにあれこれ言われて、腹を立ててるでしょうね。今夜は最高の演奏をしてくれると思いますよ、私を捩じ伏せるために」
社長の頭から湯気が立つ。わなないて、悲鳴のような声を絞り出した。
「聞きしに勝る有能ぶりですな、あなたは……!」
檸檬と蜜柑のラプソディ

2026年8月6日にふるたみゆきさんの小説デビュー作『檸檬と蜜柑のラプソディ』が刊行されます。
刊行記念として、著者インタビューと第一章を丸ごと公開いたします!











