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往復書簡 恋愛と未熟

2025.10.08 公開 ポスト

人生を「特定の相手とだけ分かち合う」契約としての結婚への違和感ひらりさ(文筆家)

親愛なる綾へ

めまぐるしい週末だった。与党に女性総裁が誕生し、日本初の女性首相となることがほぼ確定した。所信表明で排外主義者のデマを口にしていた彼女を嫌悪する声、夫婦別姓に反対し続けている彼女の政治的スタンスにジェンダー平等の後退を懸念する声、「ワーク・ライフ・バランスを捨てて馬車馬のように働く」という発言に対する賛否両論。ネット言説を追っているうちに時間が溶けた。そんな暇、全然ないのに。

空気が秋らしくなって気温が下がり寝つきは良くなったけれど、2時間くらいで目が覚めてしまう日々が続いている。昨日は夢を見た。20代の頃よく見ていた夢。家に帰る途中、口からどんどん歯がこぼれ落ちていくというものだ。夢占いはあまり信じていないけれど、心身に焦りがあるのは間違いない。ここからどうにか立て直したいところ。

 

綾もだいぶハードなスケジュールで暮らしているね。「全部楽しいから何も諦めたくない!」本当にその通り。占い師に白ごはんを食べてはいけないと言われた話、とても面白かったです。綾とディナーをするときには気をつけないと!

来月、新しい単著が出るのだけど、ここのところその作業の追い込み期間だった。いま近所のカフェで、担当編集から念校を受け取ってきたところ。内容の校正はほぼ終わっており、校正の結果が本当にきちんと反映されているかを最後の最後にチェックするのが念校。英語だと、the very final proofなんて言うみたいだね。紙媒体につきまとう「校了」というやつ、何度やっても苦手だ。単純に細かい作業で神経を使うと言うのもあるし、後戻りできないことへのプレッシャーがある。ポイントオブノーリターン。インターネットだったらいくらでも直せるのに!(実際にはネットでも一度世に出したものにも責任がつきまといますが……)

学生時代から新聞サークルに入っていたわたくし。学生新聞ながら週1ペースで刊行されている由緒正しいメディアだったので、毎週金曜に校了があった。でも、所属している2年間で一度も金曜の部室に近寄らなかったというくらい校了が嫌いだ。だって、殺伐としてたんだもん!(笑) 就職のときに紙の出版社ではなくインターネットメディアを選んだのにも、あのときの恐怖が影響しているかもしれない。

しかし、文筆家として本を出す以上、「校了、やっておいてください」と言うわけにはいかない。歯を食いしばって自分の表現や文章と向き合い、担当編集とゲラの受け渡しのたびに表現についてのすり合わせをし、どうにか念校まで持ってきた。ウェブ連載をもとにした本で、一度はすでに世に出した文章が大半だけれど、紙に印刷するとなると考慮することが増える。綾も日本語のエッセイ集『ロンドンならすぐに恋人ができると思っていた』を出したときに経験したでしょう。日本語ならではの工程が、漢字・ひらがな表記の統一。「体」にするか「からだ」にするか、「私」にするか「わたし」にするか、「付き合う」にするか「つきあう」にするか……。初校で漢字にとじる指定を入れて再校で見たら気分が変わってひらがなに開き直したり、そうこうしているうちにどっちがいいかわからなくなったり。「一人」「1人」「ひとり」「独り」あたりは本当に迷って、作業中、ゲシュタルト崩壊に見舞われました。

何をどこまで詳細に書くかの見直しも念入りにした。実在の人間が出てくるエピソードでその人が特定されそうな要素を書き換えたり、とあるコンビニのとある惣菜に対して愛憎半ばのdisを書いたのだけれど、編集から「わざわざ特定できる形で悪口を言う必要はないのでは?」と朱が入り、そのコンビニの名前を伏せたり……(笑)。

書くことには責任が伴う。それはウェブでも紙でも変わらない。私はあくまで私の人生を残すためにエッセイを書いているけれど、私の人生には無数の関係が巻き込まれているから、書きたいことを的確に掘り下げることと、他人の平穏を侵害しないことの間でバランスをとる必要がある。そのための決断を一冊分の言葉に対して繰り返す校了は、私にとって重要な「成熟」のステップとして機能しているのかもしれない。36歳の誕生日があった今年の夏より、単著を校了していたこの秋がずっと、自分の人生を選び取り責任にコミットした手触りがあった。ちなみに本のタイトルは『まだまだ大人になれません』。大人になれない……という本を世に送り出したら大人になれた気がした、なんて我ながら天邪鬼だね(笑)。

綾にぜひ紹介したいと思った映画がある。ノルウェーの監督ダーグ・ヨハン・ハウゲルードの「DREAMS」「LOVE」「SEX」だ。ノルウェーの首都オスロを舞台にしたオスロ・トリロジーと称される3作だそう。日本ではこの秋「オスロ、3つの愛の風景」と題した3作品の特集上映が行われており、校了で修羅場を迎えているなかどうにか時間を作って(校了以外のことを無理やりすっ飛ばして(笑))映画館に足を運び、3作品をコンプリートした。

トリロジーを貫くテーマは、セックスとセクシュアリティ。どの作品でも、この二つにまつわるとてもゆたかな対話が展開される。

「DREAMS」では、17歳の少女・ヨハンネが書いた彼女の初恋にまつわる手記をめぐり、彼女の母と祖母が語り合ううち、それぞれが経てきた過去のセックスに思いを馳せる。

「LOVE」では同じ泌尿器科で働く男性看護師が明かすゲイアプリを通じたクルージング(男漁り)の話が女性医師にもそれを試みさせ、「セックスすること」「誰かと交際関係をとること」「結婚すること」のグラデーションについて示唆をもたらす。

そうして、「SEX」。主演は、同じ会社で煙突掃除人をやっている二人の男性。ある日、金髪の男が「デヴィッド・ボウイに女として見られる夢を見たんだ」と語ると、聞いていた茶髪の男が「自分は昨日、客の男性に誘われてセックスをした」と話してくる。一度男とセックスしたからってゲイになるわけではないし、この話は妻にも明かしたという茶髪の男。帰宅した茶髪の男を待っていたのは、彼のセックス話にとてつもないショックを受けて憔悴している妻。「新しい自分を見つけたようでつい話したくなった」「浮気というわけではない」と弁明する男は妻の悲しみを目の当たりにし、行為とアイデンティティの関係、そして自分の性がパートナーのアイデンティティや感情と密接に結びついているという、その事実に心揺さぶられていく。

説明文のボリュームからもわかると思うけど、私がいろんな人に感想を聞いてみたいと思った作品は、「SEX」だ。性や体をめぐる期待が個々の人間に与えている抑圧と、人間が個人として生きる上でパートナーシップが障壁になりうる場面があるという問題を、説教くさくなくコミカルに(そして美しいオスロの風景を交えながら!)描く手腕が見事だった。

茶髪の男の主張は、一見、浮気男の言い訳のようにも取れる。一見、どころか、出るところに出たら「言い訳にもならない」と切り捨てられるだろう。大半の国において既婚者が他人との性行為をすることは、離婚事由に該当する。結婚をしていなくとも、パートナー以外とセックスすることは、パートナーを裏切る行為とされている。第一には感情面の話だが、健康面のリスクや、妊娠する/させるという可能性もある。もし女友達から、彼氏からそんな話をされたなんて相談を受けたら、私はきっと「最低な男!」と烈火の如く怒り、女友達に「今すぐ別れたほうがいい」と促すだろう。また、マッチングアプリなんかでいわゆるヤリモクのプロフィールを見ると……かなりイラッとしている。「都合のいい関係を求めています」ってやつ。「世の中に都合のいい関係なんて存在しねえんだよ!!!」と心の中で悪態をつきながら左スワイプしている。

そんな私ではあるが……、映画を見ている間、茶髪の男を非難する気持ちは不思議と湧かなかった。たしかに、彼が後先や家族のことを考えずに、ほぼ素性の知れない男性とのセックスに身を投じたことは、よくないことではある。でもその「よくなさ」は社会的な話。茶髪の男が自身のセクシュアリティやセックスに実感を持つ上で、その行為が必要だったことは、彼の言葉や表情を通じて伝わってきた。彼は自分の体や性の輪郭を探るために、本当にそれだけのためにセックスをしたのだ。(自業自得ではあるが)彼は、妻から自身のセックスの仔細を聞き出されて憔悴し、さらに妻自身が内観するための手記に彼のセックスの内容が書かれたことを聞いて、激しい抵抗の言葉を発する。

「精神科医に、自分の言葉で今回の件を振り返って、私の物語にしてみることを勧められたのよ」

「なぜ僕の身に起きたことを、君の物語にしてしまうんだ? それは僕の物語なのに……」

妻が、「夫に浮気をされて自分を否定されたように感じる」「自分だけが知り、体感する立場にあるはずの、彼の性的な姿が他の人に向けられたということにショックを覚える」という感情は責められない。シスヘテロの男女が排他的性愛関係を取り結ぶことを基盤に作られた婚姻制度と国家制度の中で、彼女がそうした感情を持つことは、自然なことだろう。その感情を克服し、彼との関係を再構築するために、彼女が、自分の言葉で状況を振り返ることを試みたのも、理解できる流れだ。

でも。「僕の物語」という言葉を発したときの茶髪の男の切ない表情には、いたく心を動かされた。

結婚をするとき、交際関係を結ぶとき、あるいは友達関係を結ぶとき。人は何かを分かち合うことで親密になる。というか、分かち合うために関係しているはずだ。親密であるというのは、分かち合うこととほぼイコールと考えられている。分かち合える領域の多い人を好きになったり、自分が分かち合いたいものに理解を示し、尊重してくれる相手を好きになったりする。分かち合えるものを最も多く/濃く持つ相手=パートナーという考え方が主流だろう。綾は共有(share)という言葉を使って表現してくれたあれこれが、そうだね。そして分かち合うことを通じた親密さを強固なものにする上で、また安全に継続的に分かち合う上で、「他の人とは分かち合わない」合意を持つ。ことセックスとセクシュアリティについては、特にそのことが推奨され内面化されている。パートナーを持つ者は、相手との合意内容によって、自身のセックスとセクシュアリティについて制約を持つことになる。そのように相手を絞るからこそ可能になることもあるだろう。でも、そのことに疑いなく生活を築いていった後に、自分のセックスやセクシュアリティに対する制限、あるいは社会や配偶者から受けている期待に、息苦しさを覚えることもある。幸せで、満ち足りたパートナーシップであっても。現代社会を支配している結婚規範の硬直性を軽やかに暴いてみせるその手腕に、めまいがした。

英語、日本語、フランス語と、いくつもの言語で世界と向き合っている綾。そんな綾にとって「無数の自分」を単一のパートナーにどのように分かち合うかが大事な問題だったという話、とても興味深く読みました。パートナーが少しずつ日本語を覚えているという話、いいね。「まじ」「気をつけて」「おじさん」……綾の文章で綾を知っている人からしたら驚くかも知れないけど、たしかに綾と会話している時によく聞く言葉かも(笑)。

(一方で、あまり英語のできない日本人男性ばかりと付き合って日本語でコミュニケーションしていた話も興味深かった。マッチングアプリで知り合った外国人男性の中で「自国で日本人の彼女ができたけれど、彼女が爆速で自分の言葉を覚えてしまったので、日本語を学ぶ必要がなく、日本に来てはいるが日本語が流暢ではない」という人がちらほらいたのだ。この件については会った時に深掘りしてみたいね)

さて、私の中にも、綾ほどではないけれど「いくつかの自分」がいる。まあ、大半の人間はそうだよね。会社員をしているときの自分とか、文章を書いているときの自分とか、恋愛をしているときの自分とか。私のなかの「いくつかの自分」は全員、綾と違ってみんな日本語話者だけど(笑)、実のところ完全に同じ言語を操っている訳ではないのだ、と綾の文章を読んで気づいた。方言、くらいのバージョン差があるかな? そんなバージョン差があれど「いくつかの自分」のことを隠さずに分かち合おうとするのが、本来、すこやかな態度なのだろう。でも、私は、やっぱり違う。特に、恋愛、セックス、セクシュアリティについて共にする相手と分かち合いたいその他の領域というのが、かなり限られているなと気付いた。具体的に「これだけを分かち合いたい」と言えるほどは整理できていないのだけど……。つまり私は、分かち合うことで縛られることを恐れているし、「私の物語」を私だけの領域に留めておきたいのだと思う。

ああ、ちょっとわかってきたかも。私は恋愛関係に関して、セックスとセクシュアリティについて惜しみなく分かち合えることを重視している。セックスやセクシュアリティを分かち合う上で安全な相手だと感じられる人間性も求める。身体の好みもある。一緒にいるときの会話のウィットも求める。そちらをものすごく重視しているので、仕事を理解してくれるとか、私のぜんたいを理解してくれるとか、そういうことは求めていない。そういう意味では、「恋をするセックス・セクシュアリティ領域の私」は、他の「いくつかの私」とかなり違った世界を生きており、かなり異なったバージョンの言語を用いているのだろう。

そうして私は「いくつかの自分」を生きている自分のあり方を、他者に縛られたり、勝手に解釈されたり、型に嵌められたりすることを恐れている。突き詰めると、「都合のいい関係」を求めているってことになるかも知れないね(笑)。

他者に対してもそうだし、世界に対しても、そういうふうに思っているのだと思う。だからやっぱあれだな、結婚ってしたくないんだろうな私、と「SEX」を鑑賞していたら腑に落ちた。これまでは、結婚できないんじゃないかな私、と思っていて、できない私を認めたくなくて、結婚や排他的パートナー関係に向けた活動をとったりしていたけれど、結婚したくないなら仕方ないよな。
「ひらりさは、最近、恋愛や人生の何かについて、手放した期待や理想はある?」

そんなわけで、わずかながら残っていた「安定したパートナーシップを築き、結婚でき、なんでも分かち合える相手に愛されている自分」への期待を手放したところです。まあ、これを判断している私は、文筆家を生きている私なので、べつの私が気まぐれを起こす可能性もなくはないんだけれどね(笑)。

私は、私の人生を、「それぞれの自分」を理解してくれるそれぞれの他人と深く分かち合えれば十分だと思っている。

とは思いつつも……先日、東京都が主催している卵子凍結助成金についての説明会に出てしまった。つまり、子供を産んで人生を分かち合うことについて真剣に検討しようと思った。書いていることとやっていることがバラバラすぎるな、我ながら。パターン1としては、向こう数年のうちにやっぱり結婚することにして、その相手と使う。パターン2としては、なんらかの方法で誰かに精子を提供してもらい、一人で使うことを想定している。

ナイーブな話題だけど、独身でパートナーがいない女性が卵子凍結すること、選択的シングルが子供を育てることって、綾はどう思う?

* * *

本連載は今回で終了です。このあと未公開で交換を続け、来年春ごろ書籍化の予定です。詳細が決まりましたら、お知らせいたします。お楽しみにお待ちください。

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鈴木綾『ロンドンならすぐに恋人ができると思っていた』

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ひらりさ 文筆家

平成元年、東京生まれ。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーとして活動するほか、女性の人生やフェミニズムにかかわるトレンド、コンテンツについてのレビュー、エッセイを執筆。単著に『沼で溺れてみたけれど』(講談社)、『それでも女をやっていく』(ワニブックス)など。

 

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