
起訴した事件の有罪率は99%以上、巨悪を暴く「正義の味方」というイメージのある検事。
取調室での静かな攻防、調書づくりに追われる日々――華やかなイメージとは裏腹の検事のリアルな日常と葛藤を、検事歴23年の著者が語り尽くす。『検事の本音』、その真意とは。
本書より、一部を再編集してご紹介します。
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捜査と上司との関係で苦しむ検事の孤独
検事は孤独である、というのが、かつて検事だった私の実感である。
検事時代の私はといえば、朝から晩まで検察庁の職員、警察、裁判所、被疑者ら事件関係者と接するだけの毎日だった。
昼食は検察庁内の食堂か、お弁当。
夕食も、夜の取調べや起案があるため、食堂が閉まる前に早めに食べるか、お弁当や店屋物。
独身時代にはそれが毎日であり、結婚してからも自宅で夕食を食べた記憶はほとんどない。
家族との会話も少なかった。
家族には事件の話は一切できないので、悩みやストレスを聞いてもらうわけにもいかない。
職場でも、みんな事件に追われているので、立会事務官や上司、警察と話すくらいで、雑談する相手もいない。
だから、悩みやストレスがあっても、誰にも相談できず、自分一人で耐えなければならなかった。
他の検事に相談するにしても、それは事件の対応や処理についてであって、それ以外のことは、相手も時間がないので聞いてもらえない。ついつい、心がいびつになる。
そんな中、会話ができなくても、職場で同期の検事と顔を合わせると、それだけで心が落ち着いた。自分一人ではないんだ、と思えるからだ。
居酒屋やカラオケに行くのは、地方で勤務したときぐらいで、東京や千葉ではそんな時間はない。
千葉で勤務したときは、東京から通うため、早朝に自宅を出る。だから、退庁時には疲れきっていて、どこにも寄らずに一刻も早く帰りたいとの思いが強い。
そんなときの唯一の楽しみは、往復の電車の中で爆睡することくらいだ。
必然的に、学生時代の友人とも連絡しなくなる。
当時は携帯電話やLINEもない時代だから、連絡するとなると、自宅や職場に電話をかけるか、手紙を書くしかない。
しかし、気軽に電話できる友人も少なく、お互い転勤で連絡先も途切れてしまうし、ましてや手紙など書く時間もない。
捜査専従の検事は、多かれ少なかれ、昔も今も、同じようなものではないだろうか。
そういう日常にあっては、上司の存在が重要になる。
上司には必ず日に何回か決裁や相談に行って会話をするからだ。
上司との会話の中で、心を平静にし、何とか気持ちを保つしかないのだ。
いいアドバイスをもらったり、褒められたりすると、やる気が出るし、自分の存在意義も再確認できる。相性のいい上司と出会えると、仕事の苦労も忘れ、心が癒やされる。
ところが、そんなこちらの意に反して、上司の中には、なんとなく気が合わない、しっくりこない、意気投合できない、そんな馬の合わない人や、また、お互いの性格や考え方が合わない、そりが合わない人もいる。
だからといって、反論すればするほどこちらは追い込まれ、精神的にきつくなる。
そうなると、ひたすら上司が異動するのを祈ってじっと耐えるしかない。
そんな間も検事としての誇りを失ってはならないと自分に言い聞かせ、自分で自分を叱咤激励する。何より被疑者や参考人の取調べに影響があってはならないからだ。
そうだ、たとえ上司からどんなに自尊心を傷つけられる厳しい言葉を投げつけられても、ひとり部屋に籠もり、しょげている場合ではないのだと。
孤独を癒やした小さな習慣とささやかな楽しみ
そんなとき、私は、ひそかに一時的にでも自分の心を避難させ、慰撫する方法を見つけていた。自分の心を守り、勇気づけるためにしたこと、それは映画を観ることだった。
映画を観る時間がないときは、映画音楽のCDを買って、スクリーンを思い出しながら聴いてヒーリングしていた。
また、成田空港での薬物密輸事件を担当していた頃は、各国の航空機のミニチュアを買って部屋に置いていた。
この程度のささやかな趣味でも、人間はなんとか苦しみを我慢できる。
これだけでも心は癒やされる。
何もしないよりはずっと。
私以外にも、同じように上司との関係で苦しむ検事はたくさんいたし、現在もいる。
報道によると、中には、上司たる検事正から性被害を受け、何年にもわたり家族にも職場でも相談できずに苦しんでいた女性検事もいるという。とんでもないことだ。罪を立件する検事が自ら罪を犯すなんてことは絶対にあってはならないことだ。
先輩の検事の中に、朝から電車内で文庫本を読んでいる人がいた。
目も頭も使って、疲れて仕事に支障を来すのではと心配したが、そんなことはなかったようだ。
彼にとって、通勤の朝の読書は、これから始まる激務の前のリラックスタイムであり、至福のひとときであったのだろうと思う。
忘れじの母の面影
東京で勤務していたとき、郷里の山形に住む母が地元の病院に入院した。私は医師から呼ばれて帰郷した。
そして、病名の宣告を受けた。
新任検事のときに父を亡くしていた私にとって、当時、母は唯一の家族である。私は計り知れない悲しみと苦しさに見舞われた。
一方で、「身柄事件をたくさん抱えているこんな忙しい時期に、なぜこんなことになるのだ」と嘆く身勝手な自分がいた。
私がまだ独身の頃だ。
当時、すでに次席検事から四月一日付けでの名古屋地検への異動の意向打診を受けてこれを承諾していた。
私は、急遽山形から母を呼び寄せるしかないと思ったが、東京でいったん入院となれば、四月からは母と離れてしまうため、名古屋に異動するまで待ってから異動先の病院に入院させるべきかどうか悩んだ。
ところが、不思議なことに、二月に次席検事から再び呼ばれ、私の人事異動はなくなったと言われた。
異動予定先の特捜部検事が家庭の事情のため異動しなくなったとのことが理由だった。
次席検事は、「こんなことは滅多にないことで、申し訳ない」と私に謝ったが、私にとっては不幸中の幸いで、母を東京に呼び寄せて一緒に住むことにした。
しばらくして、母は都内の病院に入院した。
私は仕事をしながらも、母のことが頭を離れなかった。母にしてみれば、息子の住む地とはいえ、故郷を遠く離れて知り合いもいない都会での入院生活はさぞつらいだろうと思った。
職場でも、私は母のことは誰にも打ち明けず、秘密にしていた。
押しつぶされるような気持ちを自分の胸の内にそっと秘め、平静を装って仕事をしていた。
ましてや、病身の母親に私の仕事のことやグチは言えない。
しかし、一年後、再び異動の話が出たため、上司に母の状況を初めて説明すると、私は地方ではなく千葉地検に異動することになった。
千葉地検には二年間、東京の官舎から通勤した。その間、母は都内の病院への入退院を繰り返した。
元新聞記者であった才女の母は、とりわけ礼儀作法に厳しい昭和の女性だった。病気で入院中にもかかわらず、私が仕事で弱気になっていると、厳しく叱咤激励した。そんな母を見るにつけ、一緒にいてあげられない自分が情けなく、またうとましく、いつも申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。あのときほど、検事という、代理のきかない厳しい職業を選んだ自分を責め、恨めしく思ったことはない。
総理官邸に出入りする仕事と母の最期
その後、森喜朗政権のときに私は、内閣官房副長官補付き内閣参事官として、東京地検から出向することになった。
田舎者の私が、総理官邸に出入りする仕事をするまでになろうとは自分自身、夢想だにしなかった。
官邸に赴いたときは、官房長官室に置いてある茶菓子や官邸マッチを記念に少しだけ分けてもらい、入院中の母親に渡した。母は息子の出世を喜んでくれた。
その後、まもなく小泉純一郎総理に替わり、私は、総理の靖国神社参拝問題なども担当することになった。
当時、小泉総理は、八月に靖国神社に参拝する意向を示し、それが内政だけでなく外交問題にまで発展していた。
総理はいつ参拝するか明言しなかったため、私は、かつて中曽根総理が行ったように終戦記念日である八月十五日に参拝するのではないかと考え、国会答弁、想定問答、総理談話の準備などその対応に連日深夜まで追われていた。
そんな激務の合間にも私は、夕方職場を抜けて、病院に母を見舞った。そして夜遅くに職場に戻る日々を繰り返した。
すると、小泉総理は、世間や私の予想に反して、八月十三日に前倒しして参拝した。
そして、「何人もわだかまりなく戦没者等に追悼の誠を捧げ平和を祈念することのできる記念碑等国の施設の在り方を考える懇談会」が福田康夫内閣官房長官の下に設置され、私は事務局の責任者を拝命した。
それで、今度はこれに関する想定問答や開催準備等にも奔走することとなった。
そんな最中の八月十五日、日本武道館で開催された全国戦没者追悼式に参列した後、夜まで仕事をして病院に寄ったのが母への最後の見舞いになった。
翌十六日朝、母の着替えを持って病院に立ち寄った直後、息子の姿を見届けるように母は亡くなった。
一週間ほどして都内の斎場で通夜を執り行った。母は都内に知り合いがほとんどいなかったので、こぢんまりとした通夜になるはずだった。
ところが、驚いたことに、小泉総理が秘書官、警護を連れてわざわざお参りに来て下さったのだ。
母が知ったらさぞ驚き、喜んだことだろう、と思うと胸が熱くなった。
お通夜の最後に、私は、お参りに来て下さった方々に向かって母への弔辞を読んだ。東京では、母に弔辞を読んでくれる人が一人もいなかったからだ。
これが、検事の仕事にかまけて母に苦労ばかりかけてきた、息子からのせめてもの感謝の気持ちとお別れの言葉となった。
後日、秘書官にお礼に行くと、総理が来たのは、私が母のことを隠しながら靖国問題に奔走していたことを知った総理の強い希望だったことを知り、涙した。
母の死後、遺品を整理していたら、新聞記事などの切り抜きを見つけた。
それは、私が担当した事件に関するものだった。
それらの記事を読んで息子を思い、切り抜いている母の姿を思うと、今でも胸が熱くなるのを抑えることができない。
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冤罪を生まないために、一切のミスも許されない検事の日常を知りたい方は、幻冬舎新書『検事の本音』をお読みください。
検事の本音

起訴した事件の有罪率は99%以上、巨悪を暴く「正義の味方」というイメージがある検事。しかしその日常は、捜査に出向き、取調べをして、調書を作成するという、意外に地味な作業ばかりだ。黙秘する被疑者には、強圧するより心に寄り添うほうが、自白を引き出せる。焦りを見せない、当意即妙な尋問は訓練の賜物。上司の采配で担当事件が決まり、出世も決まる縦型組織での生き残り術も必要だ。冤罪を生まないために、一切のミスも許されない検事の日常を、検事歴23年の著者が赤裸々に吐露する。