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そして少女は加速する

2025.09.24 公開 ポスト

春谷風香(1年)

第1章 春(5)女子100mの決勝にいたる一歩手前で失格。憧れの先輩が号泣する姿に――宮田珠己

「陸上青春小説の新たな名作が誕生した!」と、声が上がっている小説『そして少女は加速する』は、4継(4×100mリレー)でインターハイ出場を目指す、高原高校女子陸上部の5人の物語です。

世界陸上を記念して、本書の第1章を特別公開中!

――憧れの先輩のレースを応援する風香だが、そこに残酷な現実が。

*   *   *

春谷風香(1年)

そばに寄るのでさえ怖かった女子部長の柚月先輩が号泣するのを見て、風香は少なからず動揺した。

あんな強い先輩が泣くなんて――。

自分みたいな弱い選手ならともかく、強い選手は泣かないと思っていた。全国高校陸上競技対校選手権、いわゆるインターハイの予選である南関東大会、女子100m準決勝。

東京都、神奈川県、千葉県、山梨県の4都県から勝ち上がってきた選手たちが競う、全国への最後の関門である6月のこの大会は、高幡高校陸上部にとって1年で最も重要な大会と考えられていた。

その決勝にいたる一歩手前の準決勝で、柚月先輩はあろうことかフライングを犯し、失格となったのだ。

この3年間、インターハイ出場を目指して頑張ってきたのが、その一瞬で消し飛び、先輩は見ていられないぐらい泣きじゃくっていた。

それだけこの種目にすべてを懸けてきたということなのだろう。先輩の気持ちを想像すると、胸が苦しくなるようだった。

みんなそのぐらい強い気持ちで、陸上に取り組んでいるのだ。

大会2日目のこの日は、朝から雨が降ってレーンが濡れていたうえ、ホームストレート側で始終向かい風が吹くという、あまりうれしくないコンディションだった。

その重苦しい空気が、柚月先輩の敗退でさらに色濃くなり、幡高メンバーを包み込んでいく。

このあと、全国行きの可能性が高いと言われているもうひとつの競技、女子4×100mリレーの決勝が行なわれる。

風香は、出場するイブリン先輩のサポートにつくよう言われ、アップの段階から先輩の後ろについて、いっしょに行動していた。サポートといってもたいしてやることはなく、アップをいっしょにやり、レース時にスタンドから動画を撮るぐらいで、むしろ大事なのは、選手の緊張を和らげるためにそばにいて励ましたり話し相手になることだ。といっても陸上初心者の自分が、イブリン先輩にかけられる言葉なんて「がんばってください」ぐらいしかない。

もともと口数の多くない先輩の後ろで、風香は他に何と声をかけたものか、迷っているうちに招集時間がきてしまった。

先輩は緊張しているようだ。

「先輩、リラックスです」

そう声を出したものの、自分の言葉が虚ろに感じられる。

風香も先日、初めての大会〈学年別〉に出たが、スタート前の緊張といったら尋常じゃなかった。頭の中で落ち着けと何度も自分に言い聞かせたけど、落ち着くことなんてまったくできなかったし、スタートラインについてピストルが鳴るまで、何を考えていればいいのか戸惑うばかりで、気がついたら出遅れていた。

たったコンマ何秒、反応が遅れただけで勝敗が決してしまう。そう思うから、なおさら緊張した。一方で、もしピストルより先に動いてしまったら、今回の柚月先輩のようにフライングで失格になってしまうのだ。

あの震えるような、だけど逃げることもできない時間を、出場選手たちは過ごしている。あれに耐えて、自分のすべてを、たった12秒かそこらの時間に注いでいる。そう思うと、風香はどの選手にも尊敬の念を覚えずにいられない。

イブリン先輩は今どんな気持ちなのだろう。先輩は第3走者なので、風香はゴール地点からトラックの対角になる位置まで移動した。このあたりのスタンド席には、ほとんど人がおらず、風香と同じような出場チームの選手が数人、応援に来ているだけだった。決勝だというのにこの寂しさ。コロナじゃなければ、もっと応援の観客がいたんだろうか。

風香のそばにはもうひとり、幡高からのサポートがいた。男子マネージャーの羽(は)根(ね)田(だ)先輩で、まわりからはエンジェルというあだ名で呼ばれている。エンジェル先輩は背が高く180㎝ぐらいあって、人当たりもソフトで、1年生の女子の間で人気がある。

「おれが動画撮るから、撮らなくて大丈夫だよ」

そう言って、スマホを構えながらイブリン先輩に手をふる。

部員限定の幡高陸部ブログにアップされる選手の動画は、ほぼエンジェル先輩が撮っていた。

「いいんですか、すみません」

入部したての頃、風香はこの先輩はどうして選手じゃなくマネージャーをやってるんだろうとふしぎに思ったのだが、去年交通事故に遭って大怪我を負い、走ることができなくなったと聞いた。今もなんとなく片足を引き摺(ず)るような仕草が見られるときがある。

走れなくなったら、他の選手が走るのを見るのはつらいんじゃないか、と風香は思うのだが、そんなことを本人に訊くのは憚ら(はばか)れた。

 

――行ってくる。

シトシトと雨が降り続くなか、イブリン先輩が、スタンドで見守るエンジェル先輩と風香に軽く手をあげて合図する。

「先輩、ファイトです!」

大声で言ってしまって、風香はあわてて口を閉じる。コロナ禍で声出し応援はダメなんだった。

幡高のライトブルーのユニフォーム、みんなでダサいって悪口を言ったけど、イブリン先輩の手足が細くて長い筋肉質の体にぴったり合っていて、見惚れるほどかっこいい。

同じようにスタンバイしている他校の選手たちもみな速そうで、なんだか怖いぐらいだった。どの選手も自分よりひとまわりもふたまわりも大きく見える。いつも見ているイブリン先輩が、このときはとても頼もしい大人に思えた。

そういえばこの中で結愛も走るんだ。やっぱり結愛はすごい。それに比べて自分はまだまだちっぽけで、この中に入っていいと言われても正直入りたくないし、入れる気もしない。

幡高女子4×100mリレーの予選タイムは46秒84で、タイムとしては決勝進出チームの中で5番目だった。8チーム中6位以内に入ればいいので、ミスがなければ全国行きはたぶん問題ない。けれど、実際にその切符を手にするまでは安心できない。

陸部に入って初めてリレーのバトン練習を見たとき、バトンをもらう側の選手が、走り出したら後ろをまったく見ないことに、風香は驚いた。運動会や体育祭のバトンパスとはぜんぜん違う。まるで機械のように正確に走り出し、「はい!」という掛け声が出た瞬間、パチンとバトンが渡る。奇跡みたいなコンビネーションがあまりにかっこよく、かつ自分にそんなことができるようになるとは思えず、不安になった。ここにいる人たちは、いったいどのぐらいバトン練習を積んできたのだろう。

ライトブルーのイブリン先輩がテイクオーバーゾーン(バトンを受け渡しするゾーン)の入口に立って、半身で構えた。

外側には、すべての光を吸い込むブラックホールみたいな桐山の漆黒のユニフォーム、フラミンゴみたいな翔善のピンク、闇に光る稲妻風の千葉育青の黒とオレンジが並び、そのさらに外側には結愛のいる清々館の、パリコレにでも出るのかって感じのド派手なレインボーカラーのユニも見える。

みんな、鋭いナイフみたいにかっこいい。

戦闘準備完了って感じだ。

新型コロナのパンデミックにより、スタンドに観客はいないが、それでもスタジアム内の雰囲気はどこかピリピリして、レースへの期待が最高潮に達しているのが感じられる。

遠くで「オン・ユア・マーク」と声がする。

いよいよ、始まる。

等間隔に並んで位置につく選手たち。

風香は、ライトブルーのあかねの姿を探す。

「セット」

一瞬の後、選手たちが一斉に走り出すのと、パン! と乾いた音が届くのがほぼ同時だった。遠いので音が遅れて届くのだ。

第1走者のあかねが素晴らしいスタートを見せ、強豪に負けない速さで第2走者の柚月先輩にバトンを繋ぐ。先輩はさっきまで泣いていたのが嘘のように、いとも軽々と外側のレーンの選手に追いつき、第3走者イブリン先輩の待つテイクオーバーゾーンに駆けこんでくる。先輩の走りは、結愛でさえ及ばない異次元の速さで、風香はこのまま優勝するんじゃないかと思ったほどだ。行けー!

精一杯の拍手を送りながら、心の中で叫ぶ。

だが――。

それから起こった思いがけない出来事に、風香は言葉を失った。

(つづく)

関連書籍

宮田珠己『そして少女は加速する』

それは、あまりに儚く、あまりに永い、「一瞬」――。 わずかな一瞬で悪夢に陥る、バトンミス。期待された400メートルリレーで勝利を逃した高校女子陸上部が、どん底から這い上がる!圧倒的感動を呼ぶ、青春陸上小説。

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そして少女は加速する

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それは、あまりに儚く、あまりに永い、「一瞬」――。

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高幡高校陸上部の4継(4×100mリレー)の女子リレーチームは、痛恨のバトンミスによりインターハイ出場を逃していた。
傷の癒えぬまま、それでも次の年に向け新メンバーで再始動する。

部長としての力不足に悩む水無瀬咲(2年)、
チーム最速だが、気持ちの弱さに苦しむ横澤イブリン(2年)、
自分を変えるために、高校から陸上を始めた春谷風香(1年)、
なんとしてもリレーメンバーになって全国に行きたい樺山百々羽(1年)、
部のルールに従わず、孤独に11秒台を目指す手平あかね(1年)。
そして、ライバルや仲間たち。

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宮田珠己

1995年に『旅の理不尽~アジア悶絶篇』を自費出版しデビュー。以来、紀行エッセイを中心に、日常エッセイ、書評、小説なども執筆。『東南アジア四次元日記』で 第3回 酒飲み書店員大賞、『ニッポン47都道府県正直観光案内』で第14回エキナカ書店大賞を受賞。他にも『ときどき意味もなくずんずん歩く』『いい感じの石ころを拾いに』『だいたい四国八十八ヶ所』『明日ロト7が私を救う』『路上のセンス・オブ・ワンダーと遥かなるそこらへんの旅』などエッセイ多数。小説に、東洋奇譚をもとにした『アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険』がある。2作目の小説『そして少女は加速する』で、青春小説に挑戦。賞賛を集めている。
(撮影:干田哲平)

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