
2025年7月23日、全国高等学校野球選手権・青森大会の準決勝。聖愛が、青森山田に勝利しました!
実は、去年の夏、聖愛は、青森山田に決勝で敗れています。去年も前半2-0でリードしていました。しかし逆転され…。しかも、そのあとの9回で、信じられない”アクシデント”…悪夢ともいえる出来事が起きたのでした。
そのときのエピソードが、先日発売された『1年で潰れると言われた野球部が北国のビニールハウスから甲子園に行った話』に収録されています。
* * *
フェンスにボールが挟まって負け。それでも「幸運」と言い切れる!
24年夏の青森県大会決勝は、(前半2-0でリードしていたのに)劇的な逆転満塁ホームランで青森山田に2対4とリードを許し、そのまま、9回表の聖愛の攻撃を迎えました。
先頭打者はフォアボールで出塁。送りバントの後、内野安打が出て2アウト1、3塁のチャンスを迎えます。
同点のランナーを置いて、バッターは2年生の4番・原田琉生(筆者と苗字は同じですが、血縁関係はありません)。球場は地元のはるか夢球場(弘前市)。両校全校応援でスタンドは満員。
長打が出れば一気に同点の場面。球場のボルテージは最高潮に達していました。
相手ピッチャーはエースの関。2ボール2ストライクから投げた球は、ウイニングショットのスライダー。フルスイングした琉生の打球は、レフト線への鋭いヒットとなりました。
ランナーが2人とも還ってきて土壇場で同点! スタジアムは沸き立ち、私も思わず、「ヨッシャーッ!」と叫びました。この勢いでセカンドランナーの琉生が還れば逆転できます。
ところが、審判は両手を高く広げタイムを宣告。1塁ランナーのホームインを認めず、3塁へ返す判定をしました。
琉生の打球はレフト線を転がり、外野フェンスの“縦の隙間”に挟まっていたのです。
3塁側の青森山田スタンドは盛り上がり、1塁側の聖愛スタンドは悲鳴を上げていました。
判定はエンタイトル2ベース。1塁にいたランナーは3塁までの進塁しか許されなくなり、4点目は幻となりました。

(写真:干田哲平)
私は判定が覆らないとわかっていながらも、苦し紛れの抗議に出ました。「挟まったらエンタイトルではなくインプレーではないか」「1塁ランナーは盗塁していたので挟まっていなくても余裕でホームインしていたから得点ではないか」。そんな抗議は通らないとわかっていてもそうするしかありませんでした。
当然判定は変わることなく、プレー再開。5番打者が空振り三振に倒れ、ゲームセット。3度目の甲子園出場は叶いませんでした。
県大会決勝で甲子園を逃したのはこれで4回目。
決勝戦の勝者と敗者は、まさに天国と地獄です。勝者は夢だった甲子園出場を叶えられる一方、敗者はあと1歩で甲子園への夢が絶たれてしまいます。決勝戦で負けるくらいなら1回戦で負けた方がマシだと思うくらいです。
甲子園がかかった決勝戦の、最後の9回の場面で、外野フェンスにボールが挟まり同点が幻になるというのは、50年近く生きてきていちばんの理不尽だと感じました。
選手には「試合には負けたが、決して敗者ではないんだぞ」と言うのが精一杯。告白すると、それから2週間くらいは「人生最大の理不尽」「野球の神様なんていねぇ」「甲子園はそんなに聖愛のことを嫌いなのか」と拗(す)ねた気分になったのも事実です。
この決勝戦の舞台は、弘前市内にある「はるか夢球場」。この決勝戦から約4週間後、秋の大会が始まり、この球場で試合がありました。
嫌な記憶を再生したくないという感情と、どうしても自分の目で確認してみたいという感情が入り混じっていましたが、意を決して、安打を打った琉生と二人で“現場”となった外野フェンスを見に行きました。
そこには、1万本打っても1球挟まるかどうかというわずかな隙間が開いていました。
すると途端、憑き物が落ちたように気分がすっきりしました。強がりではなく「このわずかな隙間にボールが挟まるとは、自分たちはなんて運を持っているのだろう」と感じたのです。日頃から高校野球の真の目的は甲子園出場ではなくその後の人生にあると公言していますから(第4章参照)、ひょっとしたら「甲子園の神様」には嫌われていたのかもしれません。でも「野球の神様」には嫌われていなかったと確信できたのです。
あの一打で山田に逆転勝利して優勝していたら、単に浮かれて終わったかもしれません。甲子園でも1勝もできなかったかもしれません。
でも、あそこでボールがフェンスに挟まったおかげで「人生はそんなに甘いものではない」「人生は本当に何があるかわからない」「何があるかわからないことだけはわかった」という人生最大の教訓が得られました。だから、負け惜しみでも何でもなく、心の底から「自分たちはなんて運を持っているのだろう」と思えたのです。
フェンスの一件では、球場側には微(み)塵(じん)の落ち度もありません。私たちが9回までに取れるアウトが取れなかったこと、取れる得点が取れなかったこと、与えられたすべてのチャンスを活かせなかったことが敗因です。
それにもかかわらず、心ない苦情の声が多く球場に寄せられたと聞きました。
私は、球場関係者がいつも献身的に働いている姿を間近で見てよく知っています。ですから、感謝の心を込め、自分の素直な気持ちを書いた手紙を送り、「はるか夢球場が大好きです。今後とも末長くよろしくお願い致します」と締めくくりました。
実を言うと、このミラクルな一球を放った琉生は、対戦相手の青森山田とは浅からぬ因縁があります。

琉生はうちのご近所さん。私の次女とは保育園も小学校も同じでしたから、家族ぐるみの交流がありました。琉生の母親は、私の妻が経営するケアマネージャーの会社で働いてくれていました。
琉生が小学6年のとき、その最愛の母親が病気で亡くなります。琉生はずっと野球をやっていました。小学校卒業後は聖愛中学から聖愛高校へ入り、野球部に入ってくれると勝手に期待していましたが、家計の負担を減らすことも考えて寮生活ができる青森山田中学へ進学。硬式野球部(青森山田リトルシニア)に入り、野球を続けていました。
このチームは、琉生が中学2、3年のとき、日本リトルシニア日本選手権大会を連覇しています。中学3年のとき、聖愛付近を走っていた琉生を見かけた私は思わず声をかけました。「日本一に2回ってすげえじゃん。山田がまた強くなるじゃん」と冗談めかして言ったら、琉生は小さな声で「本当は聖愛に行きたいんです」と打ち明けました。びっくりしてワケを尋ねると「山田では野球ばかりになる。本当は聖愛に入り野球以外にもいろいろ経験して、人として成長したい」と答えました。
高校野球の指導者が中学生に接触するのは禁じられています。これはスカウト目的でも何でもない、ご近所同士の会話でした。琉生は中学卒業後に聖愛へ進学し、野球を続けました。決勝で戦った山田のメンバーには、琉生の中学時代の同級生もいます。その琉生が山田戦で奇跡の一打を打つことになるとは、誰一人想像できなかったでしょう。
(ほかにも、様々なエピソードが本書に収録されています。)
1年で潰れると言われた野球部が北国のビニールハウスから甲子園に行った話

校長からは「野球に力を入れるつもりなら、あなたのような無名な人を監督に呼ばない」と言われ、ようやく集めた部員からは、「キャッチボールも、生まれて初めてです」と言われた。
それが、このチームの始まりだ……。
1年の3分の1は雪に閉ざされるため、近所の農家の協力でグラウンドにビニールハウスを建て、冬はその中で練習。
それでも、気持ちは「絶対甲子園に行く!」
しかし、こんなチームでどうやって?
学歴も人脈もナシ! 無名の監督の、思考と検証と挑戦の記録!
弘前学院聖愛高等学校野球部は、優れたスポーツマンシップを発揮した個人・団体を表彰する「日本スポーツマンシップ大賞2025」の「ヤングジェネレーション賞」を受賞している。
(取材・構成:井上健二 撮影:干田哲平)