
まさにに今、全国高等学校野球選手権の青森大会を戦っている、弘前聖愛学院高校野球部。「青森の強豪校」に名を連ねるようになった聖愛の始まりは、驚くほどのへっぽこ集団!?
『1年で潰れると言われた野球部が北国のビニールハウスから甲子園に行った話』より。
* * *
最初の部員は10人。いちばん上手だったのは元体操部の女子だった
聖愛が共学になったのは2000年。その年に野球同好会が発足していました。私が赴任した翌年4月に、それを吸収する形で聖愛高校に硬式野球部が誕生。甲子園出場のために欠かせない青森県高等学校野球連盟(高野連)にも登録されました。
学校からは「グラウンドは準備したから、後は頼む」と言われたのですが、グラウンドはあっても、肝心の部員は10人。
10人のうち、中学までの野球経験者は5人。
しかも全員レギュラー経験はなく、補欠選手でした。
あとの5人の中学時代の部活経験は、体育会系は陸上、剣道、体操が1人ずつ。
残りの2人は文化系の地学部と囲碁部の所属でした。

その中には、足のサイズが32 cmの選手がいたり。体重が42kgの選手がいたり。元地学部の選手に関しては、夏の練習で、練習前なのに熱中症で倒れている状態。
まるで漫画の世界です。野球経験者ばかりが90人も集まっていた弘前工業とはえらい違いでした。
1人だけ女子学生もいました。彼女は体操競技の経験者で、小さい頃から体操をやっていたので運動神経抜群。根っからの野球好きで、ノックを受けさせてみたら、野球経験者の5人より彼女の方が上手でした。彼女は最後までチームに残り、最終的にはマネージャー役を引き受けてくれることになります。
この10人は、野球は下手くそでしたが、本当に愛すべき部員たちでした。
ある部員はバットを持つ手が逆でした。「それは逆だよ」と私が指摘すると、「この方が私には振りやすいんです」と涼しい顔。でも、2~3本素振りをすると手のひらの皮がベロッとむけてしまい、「監督、素振りができなくなりました。野球ができなくなりました。今日は帰ります」と泣きべそをかきました。
地学部と囲碁部の2人は、本格的な運動経験がまったくないようでした。走塁練習のとき、囲碁部出身の部員に出塁時のリードを指示したら、ベース上で陸上短距離のクラウチングスタートのような格好……。
二人に改めて聞いてみると「キャッチボールも生まれて初めてです」という返事が返ってきました。
慣れない硬式でキャッチボールを初体験すると、グローブをしていても相当痛かったのでしょう。地学部出身の部員は「監督、手が痛いので部室に戻ってもいいでしょうか?」と言ってきました。そして戻ってくると、晴れ晴れした顔で「これでもう大丈夫です!」と言います。
彼は部室から取ってきたポケットティッシュを手のひらに当てて、その上からグローブをはめていたのです。硬式の衝撃を少しでも和らげたいと考えたのでしょう。
秋季の弘前地区大会が終わったある日、その彼から「原田監督、ちょっとお時間よろしいでしょうか」と改まって声をかけられました。何事かと思ったら「ここでは人目がありますから」とトイレの裏に連れていかれます。そこで彼から
「わたくし、本日をもって現役を引退させていただきます」と宣言されたのです。
“現役引退”した彼は勉学に励み、大学に進学しました。
10人のうち、一期生の学年で最後まで残ったのは、マネージャーを引き受けてくれた女性部員と、キャプテンになった男性部員だけでした。この後、聖愛が甲子園初出場を決めたときに、「監督、後輩たちがやってくれました!」といち早く差し入れを持って学校を訪ねてくれたのは、この2人です。

トンボはゼロ。ブラシが3本。グラウンドはみんなで力を合わせて整備する
私立の甲子園常連校ともなると、学校から支給される年間予算は数百万円から1000万円程度になることもあるそうです。
他方、学校から聖愛野球部へ支給された年間予算は、初年度10万円。ボールとバットの購入であっという間に消えてしまいました。
グラウンドはあるにはありました。でも、打撃練習に不可欠なバッティングケージもなければ、スタッフルームも雨天用の室内練習場もありません。
そのグラウンドにも、手を加える必要がありました。バックネットが低すぎて、軟式ならまだしも硬式では高さが不十分。外野にはフェンスもありませんでした。近隣との境界は低い土手になっており、外野まで飛んだボールが土手を越えてしまうと、お隣の畑にころころと転がって行く恐れがあります。
そこで、外野にはフェンスの代わりにネットを張りました。部員とその保護者、そして私がすべて手作りでグラウンド改良に取り組んだのです。ポケットマネーを出そうにも、年俸200万円の私に、その経済力はありませんでした。
バッティングケージを作ってくれたのは、大工仕事が得意な保護者。監督やコーチが使うスタッフルームも、保護者がプレハブで建てて寄贈してくれました。バックネット裏にあるストライク、ボール、アウトのカウント表示板は、使われなくなった道路の信号機を払い下げてもらいました。感謝しかありません。
最初はナイター設備もありませんでした。照明設備を寄贈してくれたのは、弘前市内のある企業の経営者。私が部員たちに最初に徹底させたのは元気のいい挨拶だったのですが、「聖愛野球部は挨拶がいい!」とファンになり、「暗くなって練習ができないと不便だろう」とプレゼントしてくれたのです。
グラウンドの凹凸をならすのに欠かせないトンボ(グラウンドレーキ)は1本もなく、ブラシが3本あるだけ。ブラシはトンボの代わりにはなりませんから、保護者に木材を用立ててもらい、ノコギリで切ってみんなで手作りしました。
この伝統は、つい8年ほど前まで続いていました。現在は選手のネーム入りのトンボを注文し、卒業時にはみんなで寄せ書きをしてプレゼントしています。
2対29。5回コールド負けからの出発
2001年7月15日、聖愛野球部は創部わずか3か月後に、夏の県大会予選に出場して初の公式戦に挑みました。
初戦(2回戦)の相手は岩木高校です。
私はこの県大会予選へのエントリーは見送るつもりでした。弘前工業のコーチ時代に、青森県の高校野球のレベルを肌で感じて知っていましたから、未経験者5人を含む10人のチームで挑むのは無謀だと思ったからです。
それでも「野球部に入ったからには、公式戦で戦ってみたい」という部員たちの熱意にほだされてエントリー。
結果は2対29の5回コールド負け。
相手に18安打22盗塁を許し、フォアボールは16個献上しました。聖愛の2得点は、立ち上がりに相手ピッチャーが緊張してストライクがまったく入らず、塁上に溜まったランナーがパスボールで還って挙げたものでした。
翌2002年の夏の県大会予選にも出場したものの、初戦(2回戦)で八戸工業大学第二高に、4対12で7回コールド負けを喫します。
「聖愛って女子校だべ!」「監督の原田って誰よ?」と初めはガン無視状態だったのですが、ボロ負け続きでも夏の県大会予選に出たことで、聖愛に硬式野球部アリと認知されるようになりました。
すると、「聖愛に行けばレギュラーになれるかもしれない」という淡い期待を胸に野球経験者たちが集まるようになります。私も「1年契約の嘱託職員」から「2年契約の契約職員」に“昇格”できました。
創部2年目に入ってきた選手たちの頑張りで、2003年の夏の県大会予選の初戦(2回戦)では、大畑高校に3対2で初勝利。その秋の弘前地区予選では、甲子園に春夏通算5回の出場経験のある弘前実業に4対2で勝利を収め、県大会に初出場できました。
創部3年目で県内有数の強豪校に競り勝ったことにより、周囲の評価はガラリと変わりました。単なる野球経験者ではなく、中学でレギュラーとして活躍していた選手たちが入部するようになったのです。この年、私は佳澄と結婚しました。
選手たちの質が上がるにつれて、聖愛の実力も右肩上がり。創部5年目の夏の県大会では、1年目に2対29で5回コールド負けを喫した岩木高校と初戦(2回戦)であたり、8対1の8回コールドで勝利!
この年、県大会で初めてベスト4まで勝ち進みます。準決勝では光星と初めてあたりましたが、2対7の完敗でした。
これが聖愛の快進撃の狼煙(のろし)が上がった瞬間です。
創部6年目、2006年の秋の県大会は初戦(2回戦)で光星に7対6でついに競り勝ち、創部7年目の夏の県大会では4回戦で再び光星に5対3で競り勝って、2連勝!
光星を倒せるのは山田くらいしかいないと思われていたところに、聖愛が新興勢力として名乗りを上げたのです。

学校が野球部を見る目も変わりました。
ベスト4ともなると、球場のスタンドにほとんどの生徒が集まり“全校応援”が行われるようになります。聖愛は女子校時代、バスケやバレーといったスポーツの強豪校でしたが、体育館で行うスポーツではキャパが限られるため“全校応援”はできません。それが、野球で“全校応援”をすることで、学校としての一体感が生まれるようになり、女子校から男女共学に転身したばかりの聖愛生たちの愛校心を育むことになったのです。
聖愛で甲子園を目指したい。そう思って入ってくれた選手たちが戦力となり、2009年の創部9年目には、春の県大会と秋の県大会ともに決勝まで進出。いずれも光星に敗れて準優勝に終わったものの、光星・山田に次ぐ第3勢力として聖愛が一層知られるようになり、県内でもトップクラスの選手が集まるようになりました。
この年、私はようやく正職員として聖愛から雇用されました。
(つづく)
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校長からは「野球に力を入れるつもりなら、あなたのような無名な人を監督に呼ばない」と言われ、ようやく集めた部員からは、「キャッチボールも、生まれて初めてです」と言われた。
それが、このチームの始まりだ……。
1年の3分の1は雪に閉ざされるため、近所の農家の協力でグラウンドにビニールハウスを建て、冬はその中で練習。
それでも、気持ちは「絶対甲子園に行く!」
しかし、こんなチームでどうやって?
学歴も人脈もナシ! 無名の監督の、思考と検証と挑戦の記録!
弘前学院聖愛高等学校野球部は、優れたスポーツマンシップを発揮した個人・団体を表彰する「日本スポーツマンシップ大賞2025」の「ヤングジェネレーション賞」を受賞している。