
反出生主義という、「生きることには必ず苦痛が伴うから、生まれてこないほうがいいし、生まないほうがいい」と考える思想があります。その研究者である、学習院大学の小島和男氏が、『35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる それでも子どもを望むということ』(飯塚理恵著)をご書評くださいました。「子どもを望む」とき、それは自身の子どもである必然性はあるのか? 多くの方に考えていただきたい問題です。
現代日本の「プロトレプティコス(哲学の勧め)」
昨今、「哲学」という言葉に権威主義的なものを感じまくって、モヤモヤしている私だが、それをとりあえずおいておいて、私が読ませていただいた『35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる』という本は、著者である飯塚先生ご本人のおっしゃる通り「エッセイ」であり、尚且つまた、正しく「哲学書」であると、大学にいて上等な立場を得ていてそれゆえ自己嫌悪に悩んでいる、自分としては嫌だけど所謂「哲学者」であるところの私は断言しよう。
遺伝性乳がんであることや、その当事者としての体験、日本で未だ着床前診断がほとんど行われていないという問題、現代日本の医療保険制度の問題、患者と医療関係者の間で起こる認識的不正義の問題について、飯塚氏は全く読者への感情的操作を行わずに語っておられる。飯塚氏は一人の哲学者として(それは英雄でも被害者でもない)、自己の経験を丁寧に言語化し、制度に関わる矛盾点や倫理的な難問を開示していく。それは読者に「どう考えますか?」と考えることを促す。実際、飯塚氏の筆は非常に冷静であり非常に丁寧なので、少なくとも私にとってはその促しは、むしろだからこそ非常に強力に思える。これは同情や共感を強いているのとは全く違う。哲学的な思考を、そして「よく生きるとはどういうことか考えることへの、強い促しなのである。これを古いギリシア語では「プロトレプティコス(哲学の勧め)」という。
現代日本においても、世界でもそうだと思うが、生命倫理の議論は、研究者の上から目線の判断と当事者による生の声は分断されがちである。研究者の中でも、倫理学の分野と医学の分野、社会学の分野で分断されている。勿論つなげようと努力している人たちも知っているわけだが、本書はさらにその倫理学の元となる哲学的思考と現実の世界とを、実際に、どちらに偏ることなくバランスよくつなげている貴重な書だと言えよう。
さて、本書は5章立てになっており、第1章と第2章では、告知から現在までの飯塚氏の思いや葛藤が書かれており、その中で治療法の現在も知ることが出来る。第3章では子どもを持ちたいが、がんになりやすい体質を遺伝させたくないという思いから、胚を選別し、がん遺伝子を含まない胚を選ぶという、着床前遺伝子診断を海外で行った経験が述べられている。そしてそれは第4章に直接つながり、着床前遺伝子診断が日本では「命の選別」と見なされてしまって許可されない現実とその理由や問題点を、飯塚氏は丁寧にひも解いている。日本における、つまり(これは私の言葉だが)ローカルルールの問題で、これだけ出生主義に彩られており、出生が賛美される(一方で、子育てでは女性が酷く差別的な扱いを受け、出生率が下がり続けているのは、選択的夫婦別姓すらも受け入れないミソジニーがその大きな理由の一つなのにもかかわらずそれに無自覚な)日本で、遺伝性がん患者は、世間の風潮では賛美されてしかるべき自己の生殖において自由な意思決定を行えないという非常に惨い現実があるのだ。
第5章では、がん患者の生活における悩みを発端に、患者と医療関係者との間の認識的不正義の問題が語られている。認識的不正義は、誤解を恐れずに至極短い言葉で説明すると、知識を持つ人に当事者の実際の経験が不当に扱われてしまうことを言う。しかし、大学に所属する哲学者である著者、そして同時に当事者であることが、語るときの権威性として作用しているという批判もここではできよう。とはいえそれでもそれを自覚したうえで語らなければならないという決意が、第5章の丁寧な叙述からは読み取れるし、語るべきことを、「当たり前」に考えたことを語っておられる姿勢に胸を打たれる。
さて、本書を読み終わった私たちは何を考えるべきか。勇気あるプロトレプティコスを受けて考えるべきことは「よく生きること」だ。以下、本書への批判も含めつつ、提起されるだろう問題について備忘録的に記しておきたい。
まず「命の選別」という言葉についてだが、飯塚氏がその「言葉の意味するところを未だにうまく理解することが出来ていない」と率直に述べられているように、本書では「命の選別」と「選択の自由」についての区別がつけられていない。勿論、私にもつけられないが、「命の選別」を批判する議論の背景を私たちは学ばなければいけないだろう。それは単なる保守的な制約などではない(飯塚氏がそう言っているということではありません)。「障害者権利条約」の背景にもある、歴史的な積み重ねのある当事者の思いだ。それは理屈ではなく、議論にもならないものと受け取る人もいるのかもしれない。しかし、出生前診断というものの存在が、その人の実存を苦しめるそのような立場の人たちは現に存在するのである。これは飯塚氏が、ということではなく、本書の読後の私たちが持たなければならない視点であろう。これからも多くの人が、障害を持って生まれてくるだろう。そうした可能性のある人の尊厳を守るという視点からの意見とも私たちは対話をしていかなければならない。
また、本書の読者は、自己決定権を尊重することを、改めて正しいこととして大事に思うだろう。となると、次に進むべきは、自由な選択と環境による選択の区別(もしくは区別の不可能性)についての議論だろう。真に純粋に自由な決断などあり得ない。制度に阻まれずとも、私たちの選択肢には、環境によって構造的に構築されているという面が否めないのである。
最後に、自分の所謂「血のつながった」子どもを持つという欲求に対する反出生主義的な視点にも目を向けて欲しいと、反出生主義者である私は希望する。反出生主義というと、それに対しては偏見もあり風当たりも強いので、ここでは、人口倫理、環境倫理的な視点と言い換えてもらってもよい。「自分の(自前の)子どもを持ちたい」という希望は、当然のものとして当たり前のものとして語られているが実はそうではないと私は思う。本書で飯塚氏は、子どもを持ちたくない人がマジョリティになる場において、「どうして子どもが欲しいの?」と聞かれる「デフォルトが反転する場」に出くわした自身の経験から、子どもについての欲しい/欲しくないの気持ちは不可侵であるが、その気持ちを出力するプロセスについてはいつだって開かれているとおっしゃってくれている。
私の反出生主義的主張はそのプロセスに踏み込んでいると思って欲しいのだが、日本でも3万人とも言われる里親や養子を必要としているが得られない児童がいる中で、「自分の(自前の)子どもを持ちたい」という欲求はどのような欲求なのだろうかということだ。私には分からない。自前の子どもを持たない道徳的な義務は少なくとも私自身にはあると思っているが。そしてその私自身と他の人が、社会において異なる様々な点において、その義務にどのような違いが生じるのかを考え続けている。
飯塚氏は勿論そのようなことは述べられていないが、母性本能や家族願望や血のつながりを重視し語ることが惨い差別につながるのは明らかだと思われる。自前の子どもを持ちたいという欲望は理解されるが、それが倫理的に最優先されるとは限らないし、子どもが欲しいならば、養子を迎えることが既に存在する子どもにケアを提供できることなのだから、それが倫理的に望ましいと思う。不妊治療に苦しむカップルに「養子ではいけないのか」と再考を促すことは、踏み込み過ぎなことだとは、私にはどうしても思えない。むしろ、現状で、貧困ではないなど、社会でいくつかの点でもマジョリティとして暮らせているのならば、ケアの観点からは、すでに困難な状況にある子どもに対して責任を負うべきなのではないだろうか。これも勿論、飯塚氏に対して批判しているわけではなく、飯塚氏の著作に啓かれた読者に考えて欲しいことである。
そしてこれは、理屈ではなく、議論にもならないものかもしれないが、私個人は、大人である個人の諸々の選好や欲求を差し置いて、「すべての子どもに公平に愛され保護される権利がある」と論じたい。社会的に愛の供給者を用意する制度が必要であり、養子縁組や里親の制度は理想状態からすればプリミティヴかもしれないが、その一つの形として倫理的に優れたものであろう。
私の主張が長くなってしまい恐縮だが、この私の主張に更に反論を加えるためにも、まずは飯塚氏の著作をお読みいただきたいと思っている。
最後に蛇足だが、「すべての子どもに公平に愛され保護される権利がある」なんてきれいごとを言いやがってと思ったそこのあなた、あなたに問いたい。「すべての猫に公平に愛され保護される権利がある」ならば納得するのではないですか? 本当に蛇足ですね。失礼いたしました。