
葬式に200万円――そのお金、本当に「必要な弔い」のために使われていますか?
宗教学者・島田裕巳さんが日本人の死生観や葬儀の歴史をたどりつつ、葬式の「常識」を根本から問い直すベストセラー『葬式は、要らない』より、一部を抜粋してお届けします。
「寺」と「檀家」の意識の違い
宗教教団を支えるのは信者である。信者というと、多くの人は、新宗教の信者のことを思い浮かべるであろう。新宗教の教団では、メンバーシップが確立していて、教団に所属している人間は信者としての自覚をもっている。信者ならば、会費を支払っている場合もあれば、教団の発行する定期刊行物を購読している場合もある。
そして、新宗教の信者となった人間は、教団の勢力拡大のために活動する。家族や親族、知り合いを教団の会合などに誘い、新しく信者になるよう説得する。教団の行事にも積極的に参加し、運動を盛り上げていくことに貢献しようとする。
それに対して、既成教団の場合には、信者であるはずの人間もその自覚をもっていない。どこかの寺の檀家になっていれば、それはその寺が属している宗派の信者になっているわけだが、その意識はほとんどもっていない。寺との関係も、店と客のような感覚でとらえていて、葬式などのサービスを提供してもらうことで、料金を支払っているかのように考えている。
しかし、寺は宗教法人であり、檀家はその法人を構成するメンバーであり、つまりは信者である。その点で、寺は檀家のものである。檀家のものであるということは、寺をもり立てていくために活動しなければならないことを意味するが、そうした行動をする檀家は少なくなってきた。とくに都会では、檀家意識は相当に希薄なものになっている。
檀家の布施がなければ、本来、寺は成り立たない。広い土地を所有していて、その地代で潤っているような寺院もないわけではないが、それは特殊で、多くの寺院は檀家の葬式の際の布施や戒名料から維持費を捻出している。ほかに収入源がなければ、葬式に頼るしかない。
現代の仏教寺院がおかれた状況を考えれば、葬式仏教化は必然であり、ほかに寺を成り立たせていく手立てはないとも言える。
寺院経営は「戒名料」で成り立っている
葬式仏教を実践するなかで、とくに葬式の機会は重要である。年忌法要への関心が薄れ、盆や彼岸などに墓参りするときを除けば、檀家が寺を訪れる機会はほとんどない。檀家は、墓参りのときに掃除料などをおさめるが、その額は少ない。
そうした状況のなかで、寺院経営において、葬式の際の読経料や戒名料という布施は、その重みを増している。寺としては、葬式の際の布施に頼るしかなく、そこでどれだけの布施をしてもらえるかで、経済基盤が安定したり、危うくなったりする。
布施のなかでも、読経料の方は人件費に近い。導師として何人の僧侶に来てもらったかで、読経料の額も変わってくるが、特別な志がある檀家でなければ、高額の読経料を布施することはない。
それに比較して、戒名料の方は、高額の布施を期待できる。世の中には、とくに都会では、戒名料は高く、そのランクに応じて額が変わってくるという感覚が広がっていて、檀家も、院号居士などランクの高い戒名を授かるなら、高額の戒名料を布施しなければならないと覚悟している。
そこには檀家の側の見栄も働いていて、高額の戒名料をとられたと嘆く人の発言を聞いていると、実際に支払った額をあげるケースが多い。そこには、戒名料の額を周囲に示すことで、自分の家にはそれだけの財力があることを暗に自慢しているところがないとは言えない。
寺の側としては、こうした檀家の心理も利用しつつ、高額な戒名料を布施として得ている。しかも、ランクの高い戒名を授けるには、格別費用もかからない。ランクの高い戒名を授けるなら、葬式も豪華になるし、寺の本堂を改築するときなどにそれに応じて献金額を上げることができる。
戒名料ほど、寺の経済基盤の安定に寄与するものはない。戒名のあり方や戒名料に対する批判があっても、十分な改革が行われないのは、こうした寺院経営の問題が深くかかわっているからである。
* * *
この続きは幻冬舎新書『葬式は、要らない』でお楽しみください。