
話題作に次々と出演し、舞台でも映像でも鮮烈な存在感を放つ俳優・安藤玉恵さん。その唯一無二の演技力の原点ともいえる、実家のとんかつ屋がある東京・尾久の街と破天荒な家族を綴った『とんかつ屋のたまちゃん』が5月28日発売になりました。なつかしくて、おかしくて、泣ける名エッセイの冒頭を抜粋してお届けします。
定さんとキャンディ・キャンディは子ども時代のヒロイン
阿部定(あべさだ)事件を題材にして一人芝居をした。2020年秋のことだ。新型コロナウイルス感染症が拡大して数ヶ月たった頃。俳優の仕事もいっときは皆無になり、劇場で演劇をするなんて言語道断という雰囲気。不要不急という言葉に心を痛め、ただただ息苦しい日々を過ごしていた。世界中の人たちが。
飲食店もまた大変だった。飛沫で感染するのだから、人とご飯を食べるなんてこちらも言語道断。
私の実家は、東京の荒川は尾久(おぐ)でとんかつ屋を営んでいる。屋号はどん平。ドンペイと読む。昼はとんかつ定食と、麦とろ定食の2択。夜は、しゃぶしゃぶの鍋ができ、50名ほど入るお座敷がある。飲食店の経営は苦しく、どのお店もテイクアウトに力を入れるようになっていた。
明治生まれのおばあちゃんが始めた小料理屋を父の代で「どん平」という屋号にし、今は私の兄が3代目として仕切っている。兄もまた、テイクアウトに力を入れてはいたが、お店の儲(もう)けの大部分は、夜の宴会だった。座敷の宴会場は三十畳と板の間がある。かつて演劇サークルにいた頃、宴会がないときや営業が終わった深夜に、稽古場としてそこを使わせてもらっていた。両親とも演劇活動に理解があった。
コロナコロナで呼吸困難になりそうな雰囲気が社会全体を覆っていたときに、ふと思いついたのが、テイクアウトのとんかつを買いに来てくれたお客さんに、ちょっとした芝居でも見てもらうのはどうだろうか、ということだった。売り上げにも繫がるし、なにしろ自分がそれをすることで役者でいられると思った。
「SAVE THEどん平」と銘打った。チームは、できるだけ人数を減らさないといけない。だって人と会ってしゃべることが一番やっちゃいけないことなんだから。
選択の余地なく、一人で舞台に立つことにした。朗読がいいかしらなどと気軽に考えてはいたが、企画を立て始めると面白くなってきてしまって、台本を新進気鋭の若手劇作家さんにお願いしてみようということになり、劇団「地蔵中毒」の大谷くんに「アベサダの一人芝居を書いてもらえないか」と打診した。以前、彼の創作落語を聞いて感動したことを思い出したのだった。
普段ギャグを得意としている彼が仕上げたものは、定を毒婦と捉えるのではなく一人の恋する女性として存在させていた。とても可愛らしい恋愛もので、ちょっと気恥ずかしい気もするような台本だったが、最後のセリフがとても良く、これはやってみたいと思った。30分強の短い芝居である。スターのディナーショーでもあるまいし、とんかつを買いに来てくれた人に見せるという前提を忘れてはならない。
愛人を絞め殺し、局部を切り取ったことで知られる阿部定事件は、昭和11年、尾久の三業(さんぎょう)通りにあった待合茶屋で起きた。どん平から20メートルほどの場所である。なんならその跡地にうちのおばあちゃんが住んでいた。そう、住んでいたのだ。小さな頃からおばあちゃんに定さんのことを聞かされていたので、私とて、毒婦という印象はなく、当時私が好きだったアニメのヒロイン、キャンディと同じ部類のものとして認識していた。
キャンディを真似て、裏のひこうき公園の桜の木に登ったり、柳の葉っぱを束ねてターザンもやっていた。おてんばでいたずらがだいすきなキャンディがやりそうなことだから。歴代名作のヒロインというのは悲劇で有名な人も色々いるが、ヒロインが少女だったとき「おてんばイタズラ大好き」というのは比較的共通するのではないだろうか。定さんもきっと元気な少女だったに違いない。
三業通りと聞いてピンとくる人はどのくらいいるのだろう。三業地は花街とも呼ばれるから、その方がわかりやすいかもしれない。待合と呼ばれる貸座敷があって、商談の場になったり、男女が密会する場になったり。尾久三業にあった「満佐喜」という待合で石田吉蔵と阿部定は落ち合って、あの事件が起きたのだ。
尾久という土地は、同じ三業地である神楽坂や赤坂のような高級で派手な場所でなく、地図で言えば上野よりももっともっと中心から外れた地域だ。温泉も出たらしいが、比較的安く女性と遊べたのだと思う。現在の土地の価格だって、尾久は都内でも安い地域だと思う。JRや地下鉄の駅からも離れているし。
そんな場所で私は、昭和51年に生まれた。どん平の4軒隣の女子医大第二病院の産科で。ちなみに、今はなき女子医大第二病院は、産婦人科に力を入れていた病院だったと聞いた。花街ゆえのニーズだろうか。三業地にして、この病院あり。たくましいこの歴史が私は好きだ。そんな歴史ある産科で名医高木先生に、引っ張り出してもらった。
昭和の終わり頃の商店街と、そこにいた人たちや私の家族を、自分の子ども時代の記憶をたよりに書いてみたいと思う。色とか匂いとか喧騒とかを思い出すとアングラ遊園地みたいで、それは尾久っていう土地のなせる業のような気もするし、尾久で生まれていろんな大人たちを見てきたことで、今やっている仕事を楽しめているんだろうと思うことがよくあって。あんなに活気があって色も鮮やかだった商店街も、今は戸建ての家が並んで、かつてお店だったことを知らない人たちが暮らしていたりする。それでも道の真ん中に佇んでみれば、堰を切ったように思い出が出てくる出てくる。
廃れた尾久三業通りが私の小学校までの通学路。通りの真ん中にある見番(けんばん)では、これから浅草の演芸場に出ていくのだろう若い芸人さんが小さなステージで漫才の稽古をしていた。下校の途中、ランドセルを背負ったまま勝手に座敷に潜り込み、寝っ転がって芸を見て、「つまんない」とヤジを飛ばして、座布団を投げる。「このクソガキ!!」と芸人さんは怒って座布団を投げ返す。急いで靴を履いて、ゲラゲラ笑いながら三業通りを走って逃げる。当時はまだ三味線の音色も聞こえたし、着物を着たお姉さんも歩いていた。
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続きは、『とんかつ屋のたまちゃん』をご覧ください。
また、6月6日(金)19時より芳林堂書店高田馬場店にて、安藤玉恵さん『とんかつ屋のたまちゃん』発売記念トーク&サイン会を開催します。トークのゲストは、文筆家で<桃山商事>代表の清田隆之さんです。
お申し込み方法は芳林堂書店のイベント情報ページをご覧ください