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35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる

2025.05.21 公開 ポスト

「年齢が若いから遺伝子検査もしましょうか?」結果は陽性…遺伝カウンセラーのもとへ飯塚理恵(哲学者)

32歳の不妊治療中に遺伝性乳がんが発覚した哲学者である飯塚理恵さんが、その治療の経緯と子どもを諦めたくない気持ちを綴ったエッセイ『35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる それでも子どもを望むということ』が発売になりました。本書の一部を抜粋してお届けします。

狂乱の6月は終わらない

前日行った左胸の生検の後処理として胸の包帯を取るために病院を訪れると、看護師から「先生が診察に呼んでいますよ」と言われた。予約が入ってもいないのに主治医に呼ばれるということは、何か悪い話なのではないか。こういうときの予感は大抵的中する。

心の準備も整わないまま、わたしは遺伝性乳がん卵巣がん症候群を告知された。不意打ちのような告知だったが、遺伝性とわかれば、遺伝性ではない乳がんと比べて治療方針が大きく異なってくるために、急を要したのだろう。

そもそも、遺伝子検査を受けると自分で同意したのだから、こうした結果が出る可能性はあったのだ。しかし、わたしは自分の家系にがんが特別多いとは思っていなかったので、予想に反する遺伝子検査陽性の結果に、愕然としてしまった。遺伝性乳がん卵巣がん症候群は、英語のHereditary Breast and Ovarian Cancerの頭文字をとって、日本ではHBOC(エイチビーオーシー、またはエイチボック)と呼ばれる。

HBOCは、乳がんや卵巣がんにかかるリスクが顕著に高くなる遺伝病だ。BRCA1、または、BRCA2と呼ばれる遺伝子に病的な変異があることが、その原因とされる。2010年代の初め、俳優のアンジェリーナ・ジョリーが、乳がんになりやすい遺伝子を持っていることから、がんになる前に両胸を全摘したことがニュースになった。彼女の母親は卵巣がんで亡くなり、母方からその遺伝子(BRCA1)の変異を受け継いでいるために、彼女は自身ががんになる前に両方の胸を切除したのだ。そのニュースを見た記憶はあるが、まさか自分が彼女の仲間の一人だとは思いもしなかった。

わたしがもらった遺伝子検査の結果表には、「BRCA2遺伝子の病的変異が陽性」と書かれていた。BRCA2遺伝子の変異を持つ女性が80歳までに乳がんにかかる確率は約7割(69%)、卵巣がんになる確率は約2割(17%)、さらに、膵臓がんやメラノーマ(皮膚がん)になるリスクも上がるとされている。

男性の場合は、男性乳がんや膵臓がん、前立腺がんのリスクが上がるとされる。変異のないBRCA遺伝子は、わたしたちの細胞が勝手に増えすぎたり分裂しすぎたりしないように防いだり、DNAが傷ついたときに修復したり、細胞の遺伝子情報を安定させる役割を担っている。しかし、わたしのようにBRCA遺伝子に病的な変異があると、そうした修復がうまくいかなくなり、結果としてがんのリスクが上がるというわけだ。HBOC(遺伝性乳がん卵巣がん症候群)はがんになりやすいと言われるが、その内実は、体ががんを抑えることが苦手になってしまう、遺伝子の変異と言えそうだ。

HBOC(遺伝性乳がん卵巣がん症候群)を告知された日、主治医に今から時間があるか、遺伝性乳がんについて詳細を知るために遺伝カウンセリングを受ける気があるかと聞かれ、わたしは肯定的に応えた。担当医はその場で阪大病院内の別の課に電話した。電話の相手先は遺伝子診療部である。主治医は電話先の認定遺伝カウンセラーにHBOC(遺伝性乳がん卵巣がん症候群)の患者が出たために遺伝カウンセリングが必要なことを伝え、乳腺外科まで迎えに来るよう伝えた。

異なる診療科同士がよく連携しているなと感心していると、電話をしてから数分後には、もう遺伝カウンセラーが本当に乳腺外科までわたしを迎えに来てくれた。まさか遺伝カウンセラーが直々に迎えに来てくれるとは思わず、VIP対応だと笑ってしまったのを覚えている。そうして、胸の包帯を取りに病院に来たはずのわたしは、そのまま、遺伝カウンセラーの元に送られた。

HBOCは50%の確率で遺伝する疾患であり、遺伝カウンセリングの対象となる。遺伝カウンセリングでは、訓練を積んだ専門の認定遺伝カウンセラーが、受診者の要望に合わせて、遺伝にかかわる情報を正確にわかりやすい言葉で提供してくれる。その際、受診者が抱える問題や心配事に対して、遺伝カウンセラーは直接指示を与えないことが決まっているので、患者に寄り添った態度で接してくれる。あくまでも、わたしたち遺伝病の当事者が今後の治療や家族への告知など、遺伝にかかわるさまざまな選択をする際に、自分の意思で選択を行えるようにサポートしてくれるのである*2。

関連書籍

飯塚理恵『35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる それでも子どもを望むということ』

子どもがほしい。でも病気は遺伝させたくない。 32歳の不妊治療中に発覚した遺伝性乳がん。今の日本では、子どもに病気を遺伝させない技術が使えない。なぜ――? 遺伝性がん患者の着床前診断は本当に「命の選別」なのか? わたしは哲学者として、答えのない問いを考え続けなければならない――。日本社会が長く目を逸らしてきた問題に勇敢に挑む。

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35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる

『35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる それでも子どもを望むということ』について

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飯塚理恵 哲学者

広島大学共創科学基盤センター 特任助教。1989年北海道生まれ。2012年お茶の水女子大学文教育学部卒業、2014年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、2020年エジンバラ大学にて博士号を取得。専門は、現代分析哲学、認識論、倫理学、フェミニスト哲学。2022年に遺伝性乳がんが発覚。自身ががん患者・遺伝病であることを生かしながら生命倫理学やELSI/RRI研究を行い、当事者の視点を社会にどう反映させられるかという観点から研究に取り組んでいる。

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