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 あたりまえだけれども、散歩と旅は違う。けれど、半径3、4キロ歩くだけで「これはもう旅だ」と感じることも少なくない。
 私の場合、近くてもそう感じる時の共通点がある。「行き先未定・初めて歩く道・時間制限なし」の三つである。

 家人と毎朝、一時間ほどウオーキングをしていた頃があった。自宅のある下北沢から東西南北、その日の気分で方向を選んで無計画に歩き出す。 
 北は幡ヶ谷、南は三軒茶屋、東は代々木上原、西は豪徳寺。一度、歩きすぎて仕事に間に合わなくなり、祖師ヶ谷大蔵から電車で帰ったことがある。夏の盛りで、通勤姿の乗客のなか麦わら帽子にTシャツ・短パン姿の中年夫婦はひどく浮いていた。
 あれは私にとって紛れもなく小旅であり、とくに忘れられないのが三軒茶屋で忽然と現れた竹林に遭遇したときである。

 下北沢と三軒茶屋は「茶沢通り」という一本の道でつながっており、歩いて30分足らずだ。たまに買い物や食事に行くこともあり、知らない街ではない。
 ところがその日、三宿を経てたどり着いた三軒茶屋界隈の住宅地は、全く違う顔をしていた。

 うねうねと狭い路地を分け入っていくと、遠くにさやさやと葉がすれの音がする。一本や二本の木ではなく、複数の木々らしい涼やかな音だ。
 住所を検索すると、「太子堂」とある。暑くなる前にと、あわてて飛び出した夏の朝。酒場通りが幾筋もある街と、森のさざめきのようなものとのギャップに、狐につままれたような気持ちになった。

 車も入れない、この先は行き止まりかという道の先をおそるおそる進むと、突然竹林が現れた。あまりの爽快な緑に心を奪われ、しばらく立ち尽くす。
 ふだんはメインストリートしか歩かないから、気が付かなかった。店という目的地しか見ていないと、こんな近くに桃源郷のような場所があっても、知らぬまま人生は過ぎてしまうんだなと、小さく興奮する。

 と、脇になにか気になる小路がある。人ひとりがやっと通れる狭さで、電柱の傍らには錆びた自転車が無造作に止められている。奥に、今時珍しい古い木造に瓦屋根の長屋が見えた。大きなイチョウの古木の傍らに、ひっそりと小さな案内板があった。<林芙美子旧居 此の路地奥の二軒長屋は、林芙美子の不遇な時代の寓居です>
 えっ、と声をあげたと思う。隣には壺井繁治・栄夫妻が住んでおり、『放浪記』にもここでの生活が記されている、とある。
 切り離された一軒は駐車場になっていて、どちらが林芙美子の家だったかはわからない。今もどなたかが住んでいる様子だったので、ジロジロ眺めるのを控えた。

 三軒茶屋駅から徒歩一〇分。

 放浪記の時代にタイムスリップしたような古い長屋が、住みつがれていることにも驚いた。なにより、昭和を代表する作家の住まいの前に、今自分が立っている不思議。ここで平林たい子などさまざまな作家と交流し、刺激を受け、最初の作品「放浪記」を書き上げたのか。そのうえ、お隣さんが『二十四の瞳』の壺井栄なんて!
 味噌醤油の貸し借りや、夜な夜な文学談義をしたんだろうかとあれこれ想像を巡らす。
 ここを目的地にしていたら、ゴールの達成感はあろうが、これほどの感激、胸が震えるような興奮はなかっただろう。

 計算したら十八年経っていた。グーグルマップで検索すると、竹林も長屋も、もうない。壺井栄の愛読者と思われる方のブログに、<1925年、太子堂の森かげに新築の家を見つけ、引っ越した>という一文を見つけた。きっと、あの竹林のことだ。かつてはもっと大きな森だったのかもしれない。

 夏の朝の、竹林を渡る風の音を思い出した。私が感じたのと同じように、長屋に暮らした作家たちの目と耳も癒やしていたと思うと、あらためて感慨深い。陽の光が葉のすき間を縫って、地面に落ちていた。竹の幹は空に真っすぐ伸び、賑やかな飲み屋街と隣り合わせの場所に、信じられないような清涼な緑の世界があった。ありありと浮かぶあの静謐の光景は、私と林芙美子と壺井栄だけが知っているんじゃないか。そんな都合のいい錯覚にとらわれる。

 なぜ「18年前」とはっきり書けるかと言うと、下の娘が小学校に上がった年だからだ。それまで息子を小学校に送り出し、娘を保育園へ送りに行っていた慌ただしい朝8時が、ぽっかりと空白になった。0歳から二児合わせて11年間、大げさに言うと戦争のように忙しかった朝、夫も私も急に手持ち無沙汰になったのである。では始業前の1時間ほど、健康のために歩こうということになった。

 ウォーキングというより知らない街を探索するあてどない散歩は、今思えば不意の出会いに満ちた小旅であった。春夏秋冬を歩き、長雨が続いたタイミングか何かで、習慣としてはいつしかついえてしまったが、小旅といえるほど堪能できたのは、やっと手に入れた朝の自由がよほど嬉しかったからに違いない。

 今でも「行き先未定・初めて歩く道・時間制限なし」の三条件が揃うと、東京の街を、小旅感覚で歩く。
 さて次回は、ほんの数時間なのに、旅人気分をぞんぶんに味わった池袋についてのお話を。

海外でも9割が目的なしの路地歩き。硬い道の街歩き用に開発された特殊なソールのサンダルは必需品。2018、タイ

 

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ある日、逗子へアジフライを食べに ~おとなのこたび~

早朝の喫茶店や、思い立って日帰りで出かけた海のまち、器を求めて少し遠くまで足を延ばした日曜日。「いつも」のちょっと外に出かけることは、人生を豊かにしてくれる。そんな記憶を綴った珠玉の旅エッセイ。

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大平一枝

文筆家。長野県生まれ。大量生産、大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に「東京の台所」シリーズや『人生フルーツサンド』『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』『そこに定食屋があるかぎり』など。「東京の台所2」(朝日新聞デジタル&w)、「自分の味の見つけかた」(ウェブ平凡)、「遠回りの読書」(サンデー毎日)など各種媒体での連載多数。

HP:https://kurashi-no-gara.com/

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