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凡人のためのあっぱれな最期

2024.03.09 公開 ツイート

61歳、がんで先に逝った妻。なぜ嘆かず恨まず、平然と最期を迎えられたのか? 樋口裕一

1年あまりの闘病生活で伴侶を亡くした樋口裕一さん。家族が悲しみ、うろたえるなかで、妻ご本人はただ一人泰然とし、「あっぱれな最期」だったといいます。なぜ妻のような「凡人」が、そんな最期を迎えることができたのか? その答えを探す思索の旅を綴った新刊『凡人のためのあっぱれな最期 古今東西に学ぶ死の教養』より、その一部を紹介します。また3月16日には「凡人のためのあっぱれな生き方・死に方講座」を開催します。ぜひご参加ください。

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ただ一人、泰然と逝く

2022年8月、妻・紀子が亡くなった。61歳だった。現在では若すぎる死と言って間違いないだろう。妻は私より10歳年下で、しかもほぼ専業主婦。女性でもあり、ストレスなく生きていることから、私の死後30年か、ことによったら40年も生きていくものと思い込んでいたのだったが、私よりも先に逝ってしまった。

2021年の4月に異常出血があり、近くの医院で診てもらったところ、癌(がん)の疑いがあるとのことで大きな病院での検査を勧められ、結果として、子宮体癌が見つかった。

病院で6月に手術。ともあれ手術は成功した。その後、標準治療を進め、8月から抗癌剤治療も行った。少しやせ、髪は抜けたが、その時点では、抗癌剤の副作用も覚悟していたほどひどいものではなく、このまま治療を続ければ、あと数年は少なくとも生きていけるに違いない、うまくすると、癌と付き合いながら天寿を全うできるかもしれないという期待を抱いていた。

ところが、2022年に入ったばかりの1月にMRI検査を受けて再発が判明した。病院での治療は妻に合わず、少しも効果を示さないばかりか、むしろ妻の身体は弱るばかりだった。標準治療だけでなく、怪しげな「先端医療」も試みた。

治療がむしろ体力をなくしてしまうということで、毛髪も再び生えてきたこともあり、しばらく抗癌剤治療を中止して、温泉に行くなどして過ごしていたが、8月に病状が急変して、そのまま入院、すぐにホスピスに入って帰らぬ人になったのだった。

その間、家族はあたふたとし、時に絶望し、検査結果に一喜一憂したのだったが、ただ一人、泰然(たいぜん)としていたのが妻本人だった。

ステージ3――抗癌剤治療始まる

妻が癌を発症したのは、私が大学教授の職を定年でやめ、時間を決められて外出するのは週に3日間ほどだけで、あとは自宅で物書きをしたり、かかわっている機関の仕事をするようになっていた時期だった。

妻は私が印税や教育関係の仕事のために経営している従業員のいない零細企業の経理を担当していたが、たいして収入のない会社なので、それほどの仕事もなく、ほぼ専業主婦として生活していた。経済的に困っているわけではなかったが、もちろんたっぷりの余裕があるわけでもなく、東京多摩地区の駅から徒歩20分ほどかかる郊外に居を構えて暮らしていた。

妻は自覚症状があって産婦人科医院に出かけ、癌の疑いがあると知って、近くの大病院で検査を受けたのだったが、検査の直前まで、夫である私にもそのことは伝えず、何事もなかったかのように日常生活を送っていた。検査の前日に初めて私に打ち明け、驚く私を尻目に一人で検査を受け、一人で結果を聞きに行った。私が同行することを申し出たが、一人で大丈夫だといって聞かなかった。

癌とわかってからも、特に態度に変化はなかった。私に癌を伝える時も、うろたえる私を前にして、きわめて平静だった。確かに、最初は「ステージ1であると考えられる」と聞いていたので、それほど命にかかわる事態とはとらえていなかったのかもしれないが、それにしても冷静そのものだった。

その後、手術を受けると、ステージ3であるらしいことが判明した。抗癌剤治療を始めた。状況によっては数時間、時には一日入院して、治療を受けた。

そのころから病院にはなるべく私が同行するようにしたが、それは妻一人では医師の話を聞き漏らしたり、検査の後の車の運転が危険なのではないかと考えたからだった。診察がなく、危険性のない検査だけの時には、妻は車を使って一人で出かけようとするのが常だった。

その時点では、危惧していたよりは抗癌剤の副作用は大きくなく、自宅にいても、妻はときどき、横になることが増えた以外は、大きく病状が悪化することはなかった。

ただ、副作用によって髪の毛が抜け始めた。妻は元から帽子を愛用していたが、様々なタイプの帽子を購入、またウィッグも注文して、専門店にまで出かけていた。

髪の抜けた頭部を私にも見せることはなかったが、それについても特に気に病んでいる様子はなく、「こちらの方が似合うかなあ」などと言いながら、通信販売で帽子を選んでいた。そして帽子をかぶってあちこちに出かけていた。

市民講座にも参加し、以前と同じような生活を続けていた。妻は服装にはあまり気を遣わず、質素な服装で通し、ほとんどの衣料を通信販売やスーパーで購入していたので、それに安物の帽子のコレクションが増えた形だった。

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イベント開催のお知らせ

3月16日14時~会場&オンライン開催
樋口裕一「凡人のためのあっぱれな生き方・死に方講座」

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関連書籍

樋口裕一『凡人のためのあっぱれな最期 古今東西に学ぶ死の教養』

妻が癌で逝った。61歳、1年あまりの闘病生活ののちの早すぎる死だった。家族が悲しみ、うろたえるなか、妻は、嘆かず恨まず、泰然と死んでいった。それはまさに「あっぱれな最期」だった。決して人格者でもなかった妻が、なぜそのような最期を迎えられたのか。そんな疑問を抱いていた私が出会ったのは、「菫ほどな小さき人に生まれたし」という漱石の句だった。そうか、妻は生涯「小さき人」であろうとしたのか――。妻の人生を振り返りながら古今東西の文学・哲学を渉猟し、よく死ぬための生き方を問う、珠玉の一冊。

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凡人のためのあっぱれな最期

1年あまりの闘病生活で伴侶を亡くした樋口裕一さん。家族が悲しみ、うろたえるなかで、妻ご本人はただ一人泰然とし、「あっぱれな最期」だったといいます。なぜ妻のような「凡人」が、そんな最期を迎えることができたのか? その答えを探す思索の旅を綴った新刊『凡人のためのあっぱれな最期 古今東西に学ぶ死の教養』より、その一部を紹介します。

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樋口裕一

1951年、大分県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、立教大学大学院博士後期課程満期退学。フランス文学、アフリカ文学の翻訳家として活動するかたわら、受験小論文指導の第一人者として活躍。現在、多摩大学名誉教授。通信添削による作文・小論文の専門塾「白藍塾」塾長、MJ日本語教育学院学院長。250万部の大ベストセラーとなった『頭がいい人、悪い人の話し方』(PHP新書)のほか、『65歳 何もしない勇気』(幻冬舎)、『「頭がいい」の正体は読解力』『笑えるクラシック』(ともに幻冬舎新書)など著書多数。

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