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世襲 政治・企業・歌舞伎

2022.12.20 公開 ポスト

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安倍晋三元総理の祖父、岸信介は何者なのか中川右介

世襲が目立つ三業界(政・財・歌舞伎界)を徹底比較した注目の新刊『世襲 政治・企業・歌舞伎』(中川右介著)。政治分野は、吉田茂から岸田文雄まで、戦後の総理大臣33人を家系図とともに紹介する本書の中でも、2022年、強烈に蘇ったあの家の歴史をピックアップ。

*   *   *

岸信介(きしのぶすけ)は一八九六年(明治二十九)に現在の山口県山口市に生まれた。総理大臣になったのは六十一歳になる年だ。生家は佐藤家で、二男に生まれ、岸家の養子になった。実弟が佐藤栄作で、兄弟で総理大臣になったのはこの二人しかいない。さらに岸の孫(娘の子)・安倍晋三も総理大臣になる。

まず、信介・栄作の生家である佐藤家と岸家の歴史をあわせてみていこう。

佐藤家の先祖は歌舞伎『義経千本櫻(よしつねせんぼんざくら)』などでおなじみの源義経の家臣・佐藤忠信だというが、これは口伝なので、信憑性には乏しいようだ。

この一族の近代史の始まりは、信介・栄作の曽祖父にあたる佐藤信寛(のぶひろ) (一八一六~一九〇〇)からで、このひとは長州藩の藩士で藩校である明倫館で学び、江戸に出て長沼流兵学も学んだ。吉田松陰の師としても知られる。明治の元勲である木戸孝允(たかよし)・井上(かおる)・伊藤博文らとも親交があり、維新後は浜田県(現在の島根県石見地方)権知事、島根県令などを務めた。

信寛には長男・信彦(信介・栄作の祖父)と二男・包武(かねたけ)、三男・太郎がいた。信彦は漢学者となり、山口県会議員を二期務めた。包武は(つづみ)家の養子となり軍人に、三男・太郎は井上家の養子となり、やはり軍人になった。家督は一人しか継げないので、長男以外の二男・三男は養子に出されるのが普通だった。

佐藤信彦には長女・茂世、長男・松介、二女・さわと、ほかに二人の子がいた。

佐藤家の家督は、当然、長男の松介が継いだ。だが長女・茂世は他家へ嫁がせるのではなく、岸家の秀助を婿養子に迎えて、佐藤・分家(ぶんけ)とした。この夫婦の間に生まれたのが、市郎、信介、栄作の三兄弟である。彼らは分家の子だった。

本家を継いだ松介は医師になり、岡山医学専門学校(後、岡山医科大学、現・岡山大学の前身のひとつ)の教授にもなった。松介の妻・藤枝は、山口県出身の外交官で、満鉄総裁、外務大臣になる松岡洋右(ようすけ)の妹で、この夫婦には娘はいたが息子はなく、松介没後、分家の三男である栄作を、娘・寛子の婿養子にして継がせた。栄作・寛子はいとこ婚である。

二女・さわの夫、吉田祥朔(しょうさく)(はぎ) 藩士の家に生まれ、東京高等師範学校に入り、地理や歴史を学んだ。山口中学校や萩中学校の教員をするかたわら、郷土史研究を続け、『近世防長人名辞典』の編纂をした。祥朔・さわ夫婦の子である吉田寛は、吉田茂の長女・桜子と結婚したが、若くして亡くなった。

つまり、信介・栄作と吉田寛は従兄弟であり、寛の妻の父が吉田茂という関係になる。吉田茂と信介・栄作は血のつながりはないが親戚なのだ。

話は戻って、佐藤家の婿養子となった秀助について記そう。秀助は山口県田布施町(たぶせちょう)の岸要蔵の三男として生まれ、山口県の官吏だったが、佐藤家の茂世の婿養子となったのだ。そして県庁を辞めて故郷の田布施町に帰り造り酒屋を営んだ。

佐藤・分家には三人の男子が生まれたが、二男・三男は家督を継げないので、他家へ出さなければならない。

家督を次ぐ長男・市郎(一八八九~一九五八)は軍人となり、海軍中将で敗戦を迎えた。海軍兵学校では海軍始まって以来の秀才と称され、海軍大学校を首席で卒業した。戦後も政治とは関わりは持たず、弟・信介が首相になったのを見届けて亡くなった。息子がいるが政治には関係していない。

二男・信介(一八九六~一九八七)は、中学三年の年に父・秀助の実兄で岸家を継いでいた信政の養子となった。信政に男子がいなかったためで、娘・良子との結婚を前提とした養子縁組だった。信介は山口中学校(現・山口県立山口高等学校)、旧制第一高等学校を経て、一九一七年(大正六)に東京帝国大学法学部に入学し、二〇年(大正九)に卒業した。二十三歳になる一九年に在学中だったが良子と結婚した。卒業すると官僚になる道を選び、農商務省に入り、二五年に同省が農林省と商工省に分割されると商工省(後、通商産業省を経て、経済産業省)に配属された。

三男・栄作は一九〇一年(明治三十四)に生まれた。信介の五歳下になる。山口中学、旧制第五高等学校(熊本大学の前身のひとつ)を出て、信介と同じ東京帝国大学法学部に入学した。五高時代は池田勇人と同期になった。二四年(大正十三)に東大を卒業すると、兄の信介から農商務省に誘われたが、親戚の松岡洋右の紹介で日本郵船へ就職することにした。ところが会社側の事情で採用取り消しとなり、松岡が次に紹介してくれた鉄道省に入った。二六年に、佐藤本家の娘・寛子と結婚し同家の養子になった。分家に生まれたが、本家の家督を継いだわけだ。信介・栄作兄弟は二人とも従妹と結婚し、養子になり、それぞれの家を継いだのである。

史上唯一の、兄弟の総理大臣を出した佐藤・岸家は、曽祖父・佐藤信寛は県令、祖父・信彦は県会議員と地方政治家ではあるが、国政に関わった人はない。代議士という点では、信介・栄作とも世襲政治家ではない。しかし叔父・松介(栄作の養父でもある)の妻が松岡洋右の妹で、栄作は就職の世話をしてもらうし、信介が満州で力を得るのも松岡の後ろ楯があったからだ。東京帝国大学への入学は実力だったとしても、この兄弟が出世できたのは、親族の後ろ楯があったからである。

岸信介は商工省では一九三五年(昭和十)四月に工務局長に就任し、自動車製造事業法の立法に携わった。四十歳になる翌三六年十月、商工省を辞めて満州国国務院に転じ満州へ渡り、実業部総務司長に就任した。満州国国務院では産業部次長、総務庁次長と出世していく。満州では計画経済・統制経済という社会主義的政策を実行した。

満鉄総裁・松岡洋右は岸の親戚である。岸は関東軍参謀長の東條英機、日産コンツェルン総帥・鮎川義介らとも親しくなり、岸、松岡、東條、鮎川、そして星野直樹の実力者五人は名前の末尾をとって「二キ三スケ」と呼ばれた。岸は四十代で満州という国家を自由自在に操縦したのである。

一九四一年十月、岸は東條内閣で商工大臣に就任し、十二月の米英との開戦詔書に大臣として署名した。四二年四月には衆議院議員選挙に山口県第二区から立候補して当選した。この選挙で隣の第一区で当選したのが安倍(かん)(一八九四~一九四六)──安倍晋三の父方の祖父である。

 

安倍家と岸家

安倍家(「二つの血統を引く安倍晋三」)は山口県のいまの長門(ながと)市で大庄屋をしていた大地主で、酒と醬油の醸造も営んでいた。地元では名家として知られる。近代になっての安倍家の当主・慎太郎は一八七九年(明治十二)の第一回山口県会議員選挙に立候補し当選したが、八二年に三十二歳で亡くなった。子がなかったため妹のタメが、やはり地方の名門である椋木(むくのき)家の彪助(ひょうすけ)を婿養子に迎え、この夫婦の間に一八九四年(明治二十七)に生まれたのが寛だった。岸信介の二歳上になる。だが寛が幼い頃に両親とも亡くなってしまい、伯母に育てられた。

寛は一九二一年(大正十)に東京帝国大学法学部を卒業すると、自転車製造会社を東京で経営した。だが二三年九月の関東大震災で工場が焼失し、会社は倒産した。長男・晋太郎が生まれたのは震災翌年の二四年三月だった。しかし八十日後に妻・静子と離婚してしまう。寛は晋太郎を連れて山口県に戻った。

安倍寛は一九二八年の衆院選に山口一区から立候補したが落選した。日置(へき)村長、山口県会議員などを務め、三七年の衆院選で初当選、四二年の衆院選でも当選した。この四二年の衆院選はいわゆる「翼賛選挙」だったが、安部寛は軍閥主義に反対し、大政翼賛会の推薦を受けずに立候補して当選した。すでに大臣となり国家の中枢にいた岸信介とは政治的には対極の立場にいる人だった。

岸信介は東條内閣の商工大臣だったが、東條とは対立し、一九四四年の東條内閣倒閣運動に関与し、七月に総辞職に追い込んだ。開戦時に閣僚だったので岸は敗戦直後の四五年九月に、A級戦犯として逮捕され巣鴨プリズンに入れられたが、「反東條」だったことが認められたのか、不起訴となり、四八年十二月に出所した。

一方、佐藤栄作は一九二四年に鉄道省に入ると四〇年に監督局総務課長になり、翌年、監督局長となった。戦争末期の四四年四月には大阪鉄道局長となったが、これは陸軍と対立したために左遷されたらしい。兄・信介のように政府中枢にいたわけではないので、戦後も公職追放にはならなかった。四七年には運輸次官という官僚としての頂点に立ち、四八年三月に退官した。十月に発足した第二次吉田内閣では、国会議員ではなかったが、内閣官房長官に抜擢された。その前の片山内閣でも、西尾末広から内閣官房次長にという打診があったが、これは断っていた。社会党の内閣に入るつもりはなかったのだ。

一九四八年十二月、巣鴨プリズンを出所した岸信介は、その足で首相官邸を訪ね、「官房長官(佐藤栄作)に会いたい」と告げた。だが守衛は身なりの怪しい岸を不審人物と思い、なかなか取り次いでくれなかったという逸話がある。

年齢差五歳の兄弟は、当然、兄のほうが先に官界に入り、出世して大臣にまでなって敗戦を迎えたが、戦中の栄華が戦後は一転して「罪」とみなされた。官僚として不遇だった弟は、戦後は吉田茂に引き立てられ、官房長官になっていたのである。そして兄弟の出世競争の舞台は、政界へと移る。

安倍寛は戦後は日本進歩党に入り、一九四六年四月の衆院選の準備をしているさなかの一月三十日に、心臓麻痺で急死した。五十一歳だった。長男・晋太郎(一九二四~九一)はまだ二十一歳だった。岡山の第六高等学校から四四年に東京帝国大学法学部に進学したが、海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊した。もし戦争が続いていたら特攻隊で散っていたはずだ。敗戦後、大学に復学したとたん、父が亡くなったのである。

晋太郎は四九年に卒業すると毎日新聞社に入り、五一年に岸信介の長女・洋子と結婚し、その二男・晋三が内閣総理大臣になる。

関連書籍

中川右介『世襲 政治・企業・歌舞伎』

日本の企業数は約三六七万社、そのうち九九%が中小企業で、規模が小さい「家業」ほど世襲率は高くなる。本来、実力ある者が後継すればいいだけなのに、システムとして不合理で無理筋、途絶や崩壊の可能性が高い「世襲」はなぜ多いのか。破綻を回避する術はあるのか。世襲が目立つ三業界――公職の私物化が進む政界、基幹インフラ産業の自動車・鉄道、藝は一代限りともいいながらほぼ世襲の歌舞伎界――を比較研究。このグローバルな時代にいつまで「家業」を続けられるか。実例でみる栄枯盛衰の世襲史。

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世襲 政治・企業・歌舞伎

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中川右介

一九六〇年東京都生まれ。編集者・作家。早稲田大学第二文学部卒業。出版社勤務の後、アルファベータを設立し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版(二〇一四年まで)。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガ、政治、経済の分野で、主に人物の評伝を執筆。膨大な資料から埋もれていた史実を掘り起こし、データと物語を融合させるスタイルで人気を博している。『プロ野球「経営」全史』(日本実業出版社)、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『国家と音楽家』(集英社文庫)、『悪の出世学』(幻冬舎新書)など著書多数。

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