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血の雫

2021.11.11 公開 ツイート

#6〈ネット民の善意の拡散が人質を殺した!〉- 1年半前の騒動だった 相場英雄

東京都内で連続殺人が発生。凶器は一致したものの、被害者たちに接点は全くなく、捜査は難航を極めた。過去のトラブルで心を壊したベテラン刑事・田伏とITオタクの新米・長峰がタッグを組んだ傑作警察ミステリー『血の雫』(相場英雄著、幻冬舎文庫)から、試し読み最終回をお届けします。(前回 はこちら

*   *   *

8

「起立!」

上田の後に続いて田伏が杉並署の地下一階にある道場に入ると、野太い声が周囲に響き渡った。日頃、杉並署員が剣道や柔道の練習で使う畳敷きの道場には深緑色のシートが敷かれ、折りたたみの机と椅子が並んでいる。

所轄署管内で凶悪事件が発生すると、署内の会議室か道場がにわか仕立ての捜査本部に早変わりするのが常だ。道場の隅に目をやると、複数の給湯ポットや給水機が据えられ、その脇にタワー状に積まれた紙コップ、そして段ボール箱に入ったカップの麺や焼きそばがあった。昨夜から泊まり込んだ捜査員も少なくないのだろう。

田伏の前を上田が足早に幹部席へと進む。すると、上田を凝視する三〇人分の視線が次第に自分と背後にいる長峰に集まるのがわかった。幹部席には、青い制服姿の杉並署の署長、夏物のスーツを着た刑事課長が緊張した面持ちで控えている。

「おはようございます」

刑事課長の隣に座っていた青年が立ち上がり、上田に頭を下げた。今回の事件を担当する本部の第五強行犯捜査・殺人犯捜査第八係のキャリア管理官、秋山修吾(あきやましゅうご)だ。

中京地区の県警捜査二課長から転任してきた三〇代初めの警視だ。キャリアは青白い顔のエリート然とした人間が多いが、この若手幹部は真っ黒に日焼けし、髪型は今風の刈り上げスタイルだ。

「田伏たちは一番後ろにいてくれ」

上田が小声で言った。田伏は、目にかかった髪を気にする長峰を伴い、道場の最後列の席に向かった。田伏と長峰が座ったのを確認すると、上田が咳払いし、口を開いた。

「短期間で二件、殺人事件(ころし)が発生した。都民の安全を守りつつ、治安に関する不安を払拭するよう、犯人(ホシ)検挙に向けて全力を尽くせ」

道場に集まった捜査員全員が低い声ではい、と応じた。

「管理官、現場(げんじょう)の説明および捜査の進捗状況を聞かせてくれ」

秋山が杉並署の若い捜査員に目配せした。若い捜査員が壁にある電灯のスイッチを切り、道場が真っ暗になると同時に、幹部席横の白い壁を簡易プロジェクターの青白いライトが照らす。

「本件被害者(マルガイ)は平岩定夫、年齢は四五歳。職業は株式会社リラックスオートに勤務するタクシー運転手です。現住所は東京都板橋区蓮根……、本籍は福岡県福岡市博多区……」

壁には、黒いセルのメガネをかけた中年男の顔写真が大映しにされていた。分厚い近眼のレンズの下に団子鼻、白い歯を見せて笑っている。タクシー会社が営業車に掲示する顔写真のようだ。

「発見されたのは、杉並区高円寺南三丁目……。近隣のアパートの清掃にきた専門業者の一人が第一発見者」

住所を告げると、顔写真が地図に切り替わった。地図の上部にはJR高円寺駅があり、その下に駅前のバスロータリー、隣接するアーケードの商店街の見取り図が表示された。

「被害者の発見場所は、商店街から住宅街に続く細い小路で……検視官の見立ておよび監察医による司法解剖の結果、死亡推定時刻は昨日の深夜から未明、午前一時から同三時頃……」

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画面が切り替わった。番地表示が高円寺南三丁目の別の番号となり、壁に詳細な住宅地図が拡大表示された。

「監察医によれば、凶器は刃渡り二〇センチ未満のナイフ、または包丁。背中と腹部にそれぞれ二カ所ずつ。致命傷となったのは腹部の二カ所と推察される」

秋山は淀みなく言ったが、一瞬両目が上田に向いた。

「それでは、現場周辺の状況について説明する」

秋山がJR高円寺駅周辺の地理について話し始めた。

高円寺にはなんどか捜査で行ったことがある。駅のガード下やその周囲には昭和の趣を色濃く残す飲食店街や小さなライブハウス等々がひしめき合う。新宿という一大ターミナルからわずか四駅の場所にあるが、副都心のような高層ビルや小洒落た店舗は少なく、下町風情が残る生活感に溢れたエリアだ。

タクシー運転手の平岩という被害者が発見されたのは、駅の南口から東京メトロの新高円寺駅に通じる商店街のはずれを西側に逸れた場所だ。

業務中ではなく、私用で高円寺を訪れていたのだという。

「まずは地取り班の報告を」

秋山に促され、幹部席の真向かいにいた中年のポロシャツの捜査員が立ち上がった。

「被害者発見の通報から三〇分後、本部のSSBCによって周辺一キロ四方の防犯カメラの映像が回収されました」

中野坂上で発生した河田の一件と同じだ。

「ただし、今のところ確認できているのは、地元商店のバンや宅配便の軽トラック、住民や学生らばかりでした」

聞き取ったことをメモに記したあと、田伏は新たに一課に加わった長峰がどんな反応をしているのか気になった。

田伏が隣の席を見ると、長峰は両手でスマホを持ち、猛烈なピッチで文字を打ち込んでいた。おい、と言いかけて田伏は口を噤んだ。

娘の麻衣と一緒で、この長峰という今時の青年も会議よりスマホに夢中なのだ。捜査のいろはを教え込む前に、社会人としてのマナーを叩き込まねばならないのか。

「現在、SSBCがさらなる分析を急いでおりますが、六〇カ所以上の映像にめぼしいものはないとの報告を受けています」

「ハイテクがダメなら、直当たりの方はどうなんだ?」

管理官の横で腕組みしていた上田が低い声で尋ねた。

「本部と杉並で計二〇名のチームを編成し、駅前、商店街、そして住宅地を手分けして回りましたが、今のところ有力な目撃情報はありません」

申し訳なげにポロシャツの捜査員が告げた。

被害者(マルガイ)の鑑はどうだ?」

上田が不機嫌そうに言うと、グレーの半袖ワイシャツを着た本部殺人犯捜査第八係の警部補が立ち上がった。

「被害者は一年半前にタクシー運転手になったばかりです。前歴は……」

壁の画像が再び平岩の写真に替わった。八係の警部補は、机に置いたメモを読みながら説明を続けた。

平岩は福岡市博多区で生まれ育ち、地元県立高校を卒業したあと大手自動車メーカー系列のディーラーに就職し、営業マンとして三年を過ごした。

その後、ずっと憧れていたという東京に出て、新宿歌舞伎町の大手キャバレーのボーイとして住み込みで働き始めたという。

「被害者はキャバレーのボーイ、いわゆる黒服を一五年勤め、副店長まで昇格。その後、新宿区内の不動産会社オーナーを後ろ盾に独立。ホステス一〇名程度を常時雇う小規模なナイトクラブを経営していました」

中野坂上で殺された河田は、六本木のキャバクラに勤務していた。同じような水商売だ。二人の間になんらかの接点があるのではないか。

「水商売時代の怨恨は?」

上田が八係の警部補に質問を投げかける。

「なにぶん事件発生直後でして、関係者の割り出しが進んでおりません」

八係の警部補が淡々と報告した。その後、日焼けした秋山管理官が立ち上がった。

「わかっているのはこの程度です。犯人の早期検挙に向け、捜査本部一丸となって調べを進めます」

「くどいようだが、中野の一件の直後に残忍な殺しが起きた。絶対に許されないことだ」

下腹に響き渡るような上田の低い声だった。道場に集まった全員が立ち上がり、敬礼した。田伏も皆と同じように立ち上がったが、隣の長峰の反応が遅れた。

「おい、敬礼だ」

田伏が言うと、長峰が慌てて立ち上がり、一拍遅れて頭を下げた。

「すみません」

長峰が消え入りそうな声で言ったときだった。

「みんな、聞いてくれ」

幹部席で上田が言った。

「少し変則的になるが、第四の田伏と、生安から異動して来た長峰に、あちこちの捜査本部(ちょうば)を行き来させることにした」

上田が言うと、前方にいた杉並署と八係の計三〇名が一斉に振り返った。

「あの……」

上田の隣で、秋山が戸惑いの声をあげた。

「田伏は以前SITにいたが、しばらく休んだ後半年前に第四に復帰した。元々強行犯捜査のベテランだ。長峰はサイバー犯罪対策課にいたが、実地で捜査のノウハウを得るため、しばらく俺が預かることになった」

「わかりました」

秋山が短く言った。その声音からは快く思っていないことは明白だ。同時に八係の面々の一部が声を潜め、自分を見ているのがわかった。次第に拳の中に嫌な汗が湧いてくる。

「中野と杉並の鑑取りの手伝いという位置付けで頼む」

上田が告げると、秋山が杉並署の刑事課長と顔を見合わせ、ゆっくりと頷いた。上田は幹部席から道場の引き戸の方へ向かった。田伏は慌てて立ち上がり、別の扉へ駆け寄った。背中に捜査本部にいる全員の視線が集まっているのがわかる。掌だけでなく、背中全体に汗が流れる。力いっぱい引き戸を開けると、ちょうど一階へ上がろうとする上田がいた。

「課長、いきなりすぎますよ」

「あと半日ほどの辛抱だ。俺の読みでは、例の凶器は一致する」

上田が低い声で言った。

「凶器が一致すれば、中野と杉並は否が応でも連携せざるを得ない。そのとき、おまえには扇の要になってもらう」

「しかし……」

「例の件で心底応えたのはわかっている。だが、そろそろ現場の勘を取り戻してもらわんとな」

今まで有無を言わさぬ口調だった上田が、口元に笑みを浮かべていた。

「長峰をよろしく頼む」

新たな相棒の名を聞いた途端、田伏は我に返った。自分の身の処し方に気を配るだけでなく、素人の面倒もみなければならないのだ。

「あの手の若手というか、オタクっぽいのはどうも苦手でして」

田伏が本音を漏らすと、上田が首を振った。

「ちょっと変わり者だが、見所はあるらしい。犯罪者の心理を実地で会得できれば、最強のサイバー捜査官になれる」

ばんばんと田伏の肩を叩くと、上田は駆け足で階段を上っていった。遠ざかる上司の後ろ姿を見送ったあと、田伏はすごすごと道場に戻った。

捜査本部では、今後の捜査方針について打ち合わせが始まっていた。

道場の後方に目を向けると、神経質そうに前髪をつまんだ長峰が、手元の大きな画面のスマホを凝視していた。

「長峰。ちょっと、いいか?」

「なんでしょうか?」

長峰が間の抜けた声で応じた。新しい相棒の肩に手を置くと、田伏は声を潜めた。

「捜査会議の間中、ずっとスマホを見ていただろう」

「そうですけど」

「うちの中二の小娘じゃあるまいし、みっともないぞ」

田伏が言うと、長峰が首を傾げた。

「お言葉ですが、仕事していましたよ」

長峰は子供のように口を尖らせた。

「ずっとスマホだったじゃないか」

「ゲームじゃありません」

長峰がスマホを田伏の眼前に差し出した。液晶画面を見ると、メールの画面が立ち上がっていた。画面の上半分には宛先や差出人のアドレス、件名を打ち込む欄があり、下半分には矢印やバツ印、改行などのファンクションに挟まれたひらがなのキーボードがある。

「会議のメモを自分宛にメールしていました」

不服そうな言いぶりで、長峰がスマホを手元に引き寄せた。ついで、猛烈な勢いで画面を下方向にスクロールする。覗き込むと、細かい文字がびっしりと並んでいた。上田、秋山管理官の言葉のほか、高円寺の番地や被害者の名前も書き込まれている。

「まさか、あの状況で?」

「こちらの方がずっと速いですから。それより、田伏さんって、結構大変な目に遭われた方なんですね」

「なんだ?」

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長峰が画面を切り替えたと同時に、田伏は立ちくらみに似た感覚に襲われた。

 

〈ネット民の善意の拡散が人質を殺した! 〉

一年半前、田伏が巻き込まれた騒動が長峰の手の中のスマホ画面にあった。

〈警視庁、まさかの事態に困惑=誘拐捜査に限界も〉

〈拡散希望! これが間抜け刑事の顔だ〉

先ほどは背中を汗が流れ落ちたが、今度は額にじっとりと脂汗が浮かんだのがわかった。

次第に呼吸が苦しくなる。

「この一件で俺はSITを外された」

なんとか声を絞り出すと、田伏は道場の隅にあるパイプ椅子にへたり込んだ。触れられたくない傷だ。

「色々と心中お察しします。大丈夫ですか?」

長峰が隣の椅子に腰を下ろし、言った。顔を向けると、言葉とは裏腹に長峰の口元に薄ら笑いが浮かんでいた。

「なんでもない」

田伏はムキになって言った。

*   *   *

続きは幻冬舎文庫『血の雫』(相場英雄著)でお楽しみください。

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血の雫

沸騰する自意識と承認欲求――。SNSが怪物を生む。スマホが、人間を、社会を壊してしまうのか!? 『震える牛』『血の轍』の著者、最新作『血の雫』(幻冬舎文庫、10月7日刊)、怒濤の試し読み。

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相場英雄

1967年新潟県生まれ。元時事通信社記者。主な著書に『震える牛』(小学館文庫)、『血の轍』、『KID』(ともに幻冬舎文庫)、『トップリーグ』  『トップリーグ2/アフターアワーズ』(ともにハルキ文庫)。近著は『血の雫』(幻冬舎文庫)、『レッドネック』(ハルキ文庫)、『マンモスの抜け殻』(文藝春秋)、『覇王の轍』(小学館)、『心眼』(実業之日本社)、『サドンデス』(幻冬舎)、『イグジット』(小学館文庫)『ゼロ打ち』(角川春樹事務所、2月下旬発売)。

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