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なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか

2020.09.21 公開 ツイート

娘と孫を惨殺されても死刑に反対した父親。被害者感情と死刑制度 森炎

ヨーロッパやアメリカの一部の州では、すでに廃止されている死刑制度。一方、日本はその流れに逆行するかのように、いまだ死刑制度が適用されている。なぜ日本人は死刑を「是」とするのか? 戦後のおもな死刑判決事件を振り返りながら、時代によって大きく変わる「死刑基準」について考察した『なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか』から一部をご紹介しよう。

「殺された被害者のために」は、死刑判決の理由になるか

死刑判断の基本的な観点には「抜きがたい犯罪傾向」と「犯罪被害」の2つがあります。

ここでの「犯罪被害」というのは、被害者の生命を奪い、その尊厳まで破壊するような極限的な犯罪被害のことを意味しています。ですから、被害者の生命と尊厳を徹底的に破壊するようなことをした者は死刑に処せられてもやむを得ないということは、一見すると言えるように思えます。被害者の生命のみならずその尊厳まで奪うようなことをした者は、生命を奪われる死刑以上のことをしでかしているのですから。

(写真:iStock.com/stevanovicigor)

けれども、もう少し厳密に、事実上の終身刑判決を念頭に入れて、これとの対比で考えてみたらどうでしょうか。一生涯刑務所に入れておくことでは足りないのでしょうか。被害者の生命と尊厳を破壊するようなことをした者に対して、一生涯刑務所に入れておくことでは足りないと言えるでしょうか。

一生涯、命が尽きるまで刑務所の中です。言い方はよくありませんが、死ぬまで檻の中です。この場合に、これでは足りなくて、死刑にしなければならないというのは、死ぬまでずっと檻の中に置いておくのでは足りなくて、檻の中から引きずり出して、今すぐ死なせなければならないということです。

しかし、そうすることが正義なのでしょうか。いかに被害者の生命と尊厳が徹底的に破壊されたような場合であっても、そうしなければ、どうしても正義が実現しないのでしょうか。

 

被害者遺族からは、もしかしたら、「今すぐ死なせるのでなければ、どうしても被害感情は納まらない」という声が上がるかもしれません。被害感情としてはそうかもしれません。けれども、それでも、「今すぐ死なせるのでなければ、どうしても社会正義が実現しない」とまでは言えないでしょう。

被害者(遺族)が被害の悲惨さのゆえに「死刑しかない」と言うのはわかるにしても、被害感情と社会の中の正義とは、紙一重のところで違うのかもしれません。

娘と孫を惨殺されても死刑に反対し続けた父親

ここで、この問題を具体的な例を通して見てみましょう。

1999年に開かれたイリノイ州の死刑に関する諮問委員会の公聴会の結果によれば、重大凶悪事件の被害者の多くが、犯人の処刑によって安堵感を味わったと述べたとのことです。アメリカの場合、州によっては死刑執行の場に遺族が立ち会うことができるわけですが、実際に処刑に立ち会って死刑を目の当たりにした遺族の多くが、こう述べているという事実があります。死刑は、現に、遺族の悲しみに終止符を打つ区切りになっているわけです。処刑の結果、「新たな心理的動揺を覚えた」とか、「思ったほど救われた気持ちにならなかった」と述べた人はわずかだったということです(スコット・トゥロー『極刑―死刑をめぐる一法律家の思索』〔指宿信・岩川直子訳〕岩波書店)。

これが、犯罪被害者にとっての真実であることは否定できません。

(写真:iStock.com/sauletas)

しかし、他方では、1982年のクリスマス直前に起きたフェルトマン事件のような例もあります。ハリウッドの映画脚本家だったノーマン・フェルトマンの娘とその赤ん坊(フェルトマンの孫)がメッタ刺しにされて殺された事件でしたが、フェルトマンは事件を知った直後から一貫して死刑に反対しました。

この事件は、3人組の男がフェルトマンの娘の家に侵入して、屋内を荒らし回り、最後には母子を刺殺したものでしたが、その殺害状況は、赤ん坊の命乞いをする若い母親の目の前で赤ん坊を刺し殺し、母親のほうをレイプしてからメッタ刺しにするという凄惨極まるものでした。

それでも、フェルトマンは、犯人が死刑になるより終身刑になるほうが多くの可能性をもたらすと言い、「それは心の問題だ」と述べています。

 

どうしたら、ここまでの心境になれるのでしょうか。それはわかりませんが、これもまた、犯罪被害者にとっての真実なのでしょう。この社会には、現実に、こういう心境になれる人が存在するわけです。

そうだとすれば、両方を包摂した社会全体としての「正義」は、やはり、前者のような復讐的な被害感情とは、わずかにせよ違わなければならないのでしょう。

 

一般に、被害感情と正義観念の関係については、次のように言われています。

もともと被害者側には復讐の権利があるとされていましたが、国家が成立して、刑罰や裁判制度が整備されるにつれて、私人の復讐は次第に制限されていき、近代国家では一般に復讐は禁止されています。

なぜ、私人の復讐を禁止する必要があったのかと言えば、それは復讐の連鎖を断ち切るためですが、これは、また、被害者の個人的な被害感情を国民の客観的な正義観念に洗練させ、法的確信にまで高めるためのものだったとも言われています。これによって、被害者の「主観的な被害感情、復讐本能」が、国民の「客観的な正義観念、法律的確信」に昇華したなどと考えられています。

言い換えれば、生の被害感情と正義観念を同一化することはできないわけです。もし、これを同一視した場合には、歴史を逆行する過ちを犯すことになるでしょう。

「犯罪被害」という事柄も、たとえ、それが被害者の生命とその尊厳を破壊するような極限的な犯罪被害だったとしても、実は、死刑の十分な理由になるか疑問があるのです。

 

先ほど出てきたフェルトマン事件では、フェルトマンは、死刑を求めない自分の心境をインタビューされて、犯人たちが養護施設で育ち、仕事もなく、街中をうろついて過ごすしかなかった、その生きがいの持ちようのない生活について触れ、殺人者をモンスターとして処刑しても自分たちの傷は癒されない、かえって傷口が広がるだけだという趣旨のことを述べています(イアン・グレイ&モイラ・スタンレー『死刑★アメリカの現実』〔菊田幸一監訳〕恒友出版)。

ところで、「犯罪被害の極限性」という基本的観点では、そこで想定されている社会の姿は、犯罪被害者への共感を中心とした「共感の社会」でした。あるべき社会の姿として「共感の社会」はよいとしても、厳罰を求める被害者感情への共感に偏りすぎるとすれば、疑問が残るわけです。

※2020.9.25 タイトルと小見出しを「妻子を~」としていましたが「娘と孫を~」の誤りだったため、修正しました(編集部)

関連書籍

森炎『なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか』

EUは廃止、米国でも一五州で廃止された死刑制度を未だ適用するわが国で昨今、死刑基準に変化が生じている。そもそも死刑基準と言えば、一九八三年に最高裁が永山事件で示した「被害者の数」「犯罪の性質」「犯人の年齢」などが指針とされてきたが、近年では少年犯、一人殺害でも死刑になる可能性が高まっている。国民の誰もが死刑裁判に立ち会う可能性がある今、妥当な死刑判決はあり得るのか。戦後の主立った「死刑判決」事件を振り返りながら、時代によって大きく変わる死刑基準について考察する。

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