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最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間

2020.06.14 更新 ツイート

コロナに耐え重版決定!

弟子入りした若者に、芦原英幸はどう接したか? 原田寛

コロナ禍による緊急事態宣言の真っ只中に発売日を迎えた『最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間』。
全都道府県の書店が休業を余儀なくされる中での船出という試練に耐え、見事に重版がかかりました。
重版を記念して、本書の一部分を抜粋してお届けします。

故郷を離れ、大志を抱いて松山に向かった原田寛さん。
ところが、思わぬハプニングに見舞われてしまい……。

*   *   *

高校を卒業した年の一九八七年の五月。
ついに私は、松山へ向かう日を迎えた。
夜十時出航の小倉発・松山行きフェリーに乗り込む。

――憧れの芦原先生の元で空手の修行をして、強くなりたい。
 
ただ純粋に、その一心だった。
 
小倉港に向かう列車の中、皿倉山を車窓から見ながら、手帳に小さく「初心忘れるべからず」と書いた私は、やはり緊張していたのだろうか。
 
フェリーに乗り、横になる。枕が小さくて硬かった。だからというわけでもないのだが、不安と希望が入り乱れて眠れなかった。
 
翌朝五時。
ついにフェリーは松山観光港に到着した。
降り立つと、瀬戸内のさわやかな空気が迎えてくれた。
 
港から松山駅行きのバスに乗り込み、早朝の美しいコバルトブルーの瀬戸内の海を見ながら十五分ほどバスに揺られ、JR松山駅に降り立った。
 
バスから降り立ったとき、目に突き刺すほどの朝日がやたらとまぶしかったことを鮮明に覚えている。
 
その輝きの先に、憧れの芦原会館総本部道場があった。
真っ白なその建物を見た瞬間、希望に燃えた。
芦原会館総本部道場への道のりを颯爽と歩いて、正面入口の玄関ドアに手を掛ける。いざ、芦原先生の元での修行の日々が始まる……!

――あれ? 
笑い話みたいで恐縮だが、ドアは施錠されていて開かなかった。
――おかしいな。朝早すぎたかな……?

土地勘もなく、やることもない私は、JR松山駅待合室と会館総本部道場を何度も往復することになった。そろそろ誰かいるかなと思って会館に行っても誰もいない。仕方なく駅に戻る。その繰り返し。何時になってもドアは施錠されたままだった。
 
何往復目だっただろうか?
 
さすがに不安にかられる中、トボトボと松山駅へと戻る途中、ふと横を見ると一匹の犬が尻尾を振りながら、私に付いてくるようになった。
 
紐で繋がれるでもない。自由に行き来している。
 
後に知ることとなったが、その犬は、芦原先生が拾ってきた愛犬「ジョン」だった。
 
芦原先生は、捨てられて野良犬のようになっていた犬を拾って大事に育て、鎖に繋ぐこともなく、放し飼いにしていたのだ。人に対してほとんど吠えることのない犬だった。
 
私もジョンと同じように「拾われし者」である。もしかするとジョンは私に同じ匂いを嗅ぎ取ったのだろうか。ジョンと一緒に松山駅と会館を行き来したあの朝を思い出すと、今でも頰が緩んでしまう。
 
駅との間を何往復もしたが、会館の玄関は施錠されたままだった。
気づけば、午前十一時頃になっていた。
――何らかの事情で今日は不在なんだろうか。だとしたら、今日はどこに泊まればいいだろう……?
 
途方に暮れながら、ジョンとともに駅に向かって十メートルほど歩いたとき……!
「オーイ、オーイ」
と、背後から甲高い呼び声が聞こえた。
振り返ると、芦原先生が手招きをして私を呼んでいるではないか。
「押忍!」
と大きな声で返事をし、芦原先生の元に一目散に走っていった。ジョンも嬉しそうに走って付いてくる。
 
芦原先生に会えた嬉しさのあまり、駅と会館を何時間も往復したことなどすっかり忘れて、
「押忍! 芦原会館北九州支部から修行に来ました、原田寛です!」
と挨拶すると、
「おーそうか? 岡崎から連絡はもらっているよ。良く来たな! 頑張ったら二宮みたいに、アメリカに行って活躍出来るけんな。しっかり、頑張れや!」
 と言うや否や、
「オイ、俺はマスミ(著者注:芦原先生の奥様)と今から銀行に行ってくるけん。留守番しちょれや。事務所のイスに座っとけ。すぐに帰ってくるけんな」
 
と私に命令し、車に乗り込んでビューッと消えていった。

ちなみに、芦原先生がおっしゃった「二宮」とは二宮城光師範のこと。芦原先生の弟子の中でも人気実力ともに抜きん出た存在で、当時はアメリカのコロラド州デンバーで道場を開設し、活躍の場を世界に広げていた。言わずと知れた大スターで、空手少年たちの憧れの的だった。
 
それはさておき……。

――何て人だ……。挨拶もそこそこに、松山に来たばかりの僕に留守番を任せるなんて心配にならないんだろうか?
 
挨拶を交わしてから、ものの数分しか経っていない。留守番を命令された私は呆然とするしかなかった。芦原先生らしい衝撃的な出迎えだった。
 
私は、勝手がわからないながらも事務所の椅子にちょこんと座り、芦原先生が帰ってくるのを待った。くるくる椅子を回すなどしながら時間を潰し、一時間ほどが経った頃だっただろうか?
 
突然「プププー!」と大きなクラクションを鳴らしながら、ものすごい勢いで芦原先生が帰って来た。これが芦原先生の帰宅スタイルであることは後日知ることになるのだが、このときは初めてだったので、何か重大事でも起きたのかと焦ってしまった。

芦原先生がドタドタと事務所に入ってくる。展開の速さについていけない私を気にする様子など全くなく、

「電話も何もなかったか? 九州?」
 
と聞いてきた。「お、押忍!」と答えると、芦原先生はいきなり「バッ!」と上着を脱ぎ捨て上半身裸になり、帽子を目深にかぶって玄関前の椅子にドカッと座ったかと思うと、ウトウトし出した。

「九州、俺はな、三冊目の空手技術書の執筆を無事に終えたばかりで、疲れとるけん。今日は一日ゆっくりすると決めとるんよ。お前、三階に上がって、マスミから技術書の原稿もらって来い。そして原稿の中で何か疑問とか質問とかあったら遠慮なしに俺に聞いてくれ」
 
そう言いながら、目をつむり帽子のつばを下げて本当に眠り始めた。

――お、押忍……。
 
声に出さずに返事をした私は奥様から原稿をいただき、拝読した。寝ているのか起きているのか不明だが、恐る恐る芦原先生に質問をしてみた。

「先生……? 裏拳を出すときの角度や叩き方というのは、どうすればいいのでしょうか……?」
 
芦原先生は、目をつむっていて一見寝ているように見えるものの、
「それは何ページに書いてあるけん」
と即座に答えてくれる。そして、
「お前、この技術書、どう思う? 何冊売れると思う?」
といきなり質問してくるのだ。何冊売れるかなんてわかるはずもない私は、「お、お、押忍」とシドロモドロになってしまった。
 
そうこうするうちに、「押忍! おはようございます」と威勢のいい声とともに職員の先輩が出勤されて来た。
 
芦原先生がパッと目を見開き、その先輩に話しかける。その後、私が公私ともに世話になる里健志先輩である。

「里、こいつ、北九州から来たんだって、今日から、寮に入れてやってくれ。頼んだけん」
「押忍! 里です。よろしくお願いします」 
「押忍! 原田と申します。よろしくお願いいたします!」
こうやって私は、芦原会館の寮に正式に入ることになった。
 
同じ日、実家から新品の布団が届いた。親元から離れたことで、親のありがたみをそれまで以上に強く感じた。両親の思いにくるまれて、朝までぐっすり熟睡することができた。
 
自ら希望した松山での修行。多くの方のお力添えをいただきながらではあるが、その夢が実現した。ついに私は、芦原会館での新生活の日々をスタートすることができたのだ。だが、まだ未成年であるとはいえ、何もかも両親や恩師に頼るわけにはいかない。生活費くらいは自分で稼がないといけない。私は、すぐに求人情報をあたり、松山市内にあるアイスクリーム屋でアルバイトをすることになった。時給は五百円。今では考えられない金額だが、あの頃は自分でお金を稼ぐということが単純に嬉しかった。
 
空手の稽古とアイスクリーム屋でのアルバイト。
 
今にして思えば不思議な組み合わせだが、何もかもが新鮮で楽しかった。松山の空気もきれいに感じられた。スタートは上々。私は故郷を離れた寂しさを忘れるほどの充実感を抱きながら、松山での修行の日々をスタートさせた。
 
アルバイト先のアイスクリーム屋さんには、芦原先生がご家族と一緒に来店してくださることが時折あった。

「おー、九州、頑張ってるな。俺にもアイスもらえるか? 頑張るんだよ」
 
と励ましの言葉も掛けてくれた。
 
自分のアルバイト先にあの芦原英幸が来るなんて……と緊張したが、そうやって声を掛けてもらえることは素直に嬉しかった。
 
後から先輩達に聞いたのだが、弟子のアルバイト先に芦原先生が顔を見せるというのは、非常に珍しく稀なことであったらしい。
「原田、おそらく館長に相当気に入られとるぞ」
寮の先輩達からそう言われて、舞い上がるような気持ちだった。より一層の気合いを入れて修行に取り組むようになった。

月日が流れ、秋に移ろうかという時期だったと思う。芦原先生から、
「九州、これから新たな取組みを開始するけん。お前、職員のアルバイトとして、九州に帰るまでの間、俺を手伝ってくれんか? アルバイト代出すけん」
と言われた。思いもよらない誘いの言葉。何をやるのかよくわからないままに、
「押忍!」
と即答した。その後、何度も繰り返すことになる芦原先生への「押忍」。湧き起こる喜怒哀楽の全てをその言葉に凝縮させて、私は芦原英幸に仕え続けた。今思い返すと、無性に懐かしくなる。
 
もちろん、そのときの「押忍」は喜びの感情を凝縮させた「押忍」である。
――憧れの芦原先生の元で、一緒に仕事が出来る!
嬉しくて嬉しくて、飛び上がりそうだった。
 
こうして私は、晴れて正式にアルバイト職員に抜擢された。一九八七年十月のことだった。アルバイト職員の期間は、故郷に帰るまでの二年間。二年間の空手修行を終えたら、郷里に帰ることを両親と約束していた。二年なんてあっという間に思えるが、当時の私は十八歳。「二年も芦原先生と一緒に仕事ができる!」という興奮のほうが大きかった。
 
初任給は三万円だった。二ヶ月目から七万円をいただき、飛び上がって喜んだ。
 
だが、お金のことより何より、憧れの芦原先生の元で働けることが何よりも嬉しかった。
「よし、頑張るぞー!!」

何の憂いもなく、希望に燃えていたあの頃の私は、芦原英幸に仕えるということがどういうことか、まだよくわかっていなかったのである。

*   *   *

続きは『最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間』でお楽しみください

関連書籍

原田寛『最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間』

直弟子だから知っている 人間・芦原英幸の真実!   ・天才空手家・芦原英幸の光と影 ・師匠・大山倍達への愛憎渦巻く思い ・二宮城光師範との涙の別れ ・知られざる闘病生活の実態 ・芦原会館の跡目問題 ・葬儀の際の貫禄の立ち居振る舞い 石井和義 ・芦原英幸暗殺未遂事件の真相 ……など 「先生と過ごした命懸けの日々を知ってもらいたい」――著者

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最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間

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原田寛

1969年、福岡県北九州市生まれ。国際空手道連盟如水会館館長。”ケンカ十段”の異名で知られた伝説の空手家・芦原英幸の最後の直弟子として修行。独立後、日本をはじめ十ヶ国以上に道場を展開し、空手道を通じた青少年健全育成と国際交流事業に力を注ぐ。愛媛県松山市在住。

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