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もういちど生まれる

2019.07.09 更新

#2 恋人の住むアパートで…直木賞作家の爽快な青春小説朝井リョウ

彼氏がいるのに、別の人にも好意を寄せられている汐梨。バイトを次々と替える翔多。絵を描きながら母を想う新。美人の姉が大嫌いな双子の妹・梢。才能に限界を感じながらもダンスを続ける遙。みんな、恥ずかしいプライドやこみ上げる焦りを抱えながら、一歩踏み出そうとしている……。直木賞作家、朝井リョウの『もういちど生まれる』は、若者だけが感受できる世界の輝きに満ちた、爽快な青春小説だ。その冒頭部分を、特別にご紹介します。

*   *   *

似合ってないんだけどな、その市松模様のメガネ。

「二十四円のお返しになります、ありがとうございました」

(写真:iStock.com/Ztranger)

あたしは、できるだけ相手の掌に触れないように小銭を渡しながら、にこっと笑った。派手なメガネ以外はあまりにも平凡な男は、なんだかちょっと得をしたと言いたげな表情で店から出て行った。あたしの笑顔の裏を見抜いた男は尾崎と風人だけで、それぞれ「うそっぽい」「こわい」と言った。

大学内のパン屋でアルバイトをしている、と言うと、大体の人間は「自分だったら絶対むり」と顔をしかめる。あたしはそういうとき、別にあなたの意見は聞いてないんだけどな、と思う。普段は心の中でその言葉を踏みつぶすけれど、風人が相手のときだけはぼとりと自然に声がこぼれ出てしまった。風人はもう一度「こわい」と言った。

思っていたより、大学内のパン屋でのアルバイトは面白い。嫌がる人は決まって「友達が来たら恥ずかしい」と言うけれど、そもそもあたしには数えるほどしか友達がいない。家から近い、業務は簡単、テスト期間に合わせてシフトの融通が利く、ひーちゃんと尾崎にサービスできる、風人にいじわるができる。むしろいいことばっかりだ。

大学には、文学部で小さなキャンパスがひとつ、理系の学部でキャンパスがひとつ、そしてその他の学部が集まる大きなキャンパスがある。合計三つ、全て歩いて移動できる距離にあるけれど、あたしは心から文学部で良かったと思っている。他のキャンパスは人の多さがここの比ではなく、どこにいたって落ち着かない。テニスサークルが大声で騒いでいるラウンジからは、どうしても「楽しくしてる俺たちを、さあ見て?」というオーラが出ている気がするし、お昼時は学食に座れもしない。他のキャンパスは、ひとりで行動するあたしを受け入れてくれない。

その点、パン屋のセンスもよく、学食もひとりでご飯を食べやすいようにカウンター席が多くなっている文学部のキャンパスは、居心地がいい。ふらっと現れる市松メガネのような存在も、いいスパイスになる。

「おい、おーい」

トングが鳴らすカチカチという音で、あたしは我に返る。

「お前いま、ほんのり笑いながらずっと舌打ちしとったぞ」

「え、ほんとに?」

「うそ」

尾崎は意地悪そうに笑うと、ミルクメロンパンがふたつ載ったトレイを差し出してきた。甘いパンが無骨な短髪と浅黒い肌にまったく似合わない。

「けっこういつもかわいいパン買うよね」同じパンを二つ買うっていうところに、男子特有の食欲と、食欲そのものへのこだわりのなさを感じる。

「俺がベンチに座ってこれ両手で食っとったらかわいいやろ?」

それはおかしい、とあたしはけらけら笑いながら二百五十二円を受け取って、レシートを渡す。一応、ありがとうございました、と礼をしようとすると、

「今日も来る?」

おれんち、と尾崎は言った。染めていない髪と、開けていないピアスと、吸わない煙草と、あたしは尾崎のそういうところが好きだ。ちょっと伸びた顎髭と、弾力のある胸板と、血管の浮いた腕と、くすぐったそうに寝返る背中と、そういうところも好きだ。

風人にはないものばかりで、尾崎はできている。

「……ん、今日はやめとく」

笑いながら言って、あ、と思った。

あたしの笑顔はうそっぽいんだった。

「わかった。また連絡するわ。舌打ちしてんなよ、バイト中」

手を振って出ていく尾崎に、舌打ちはしてないから、とあたしは手を振り返す。昨日あたしがキスをした背中も、薄いTシャツの布一枚隔てて見るだけで、なんだか全然ちがうものみたいに見えた。

いまから行くね、とメールをしておくと、高円寺に着くころには、尾崎は改札の前に立っていてくれる。昨日の夜は尾崎のアパートに泊まった。中野で止まる電車に乗らなければ、私のアパートの最寄り駅から高円寺までは地下鉄一本で行ける。

もう一年近く付き合っているからアパートまでの道はさすがに覚えているけれど、尾崎はいつも改札まで迎えに来てくれる。来なくてもいいのに、とあたしが言うと、「ついでにアクエリ買うからさ」と答えながら、ついでにあたしの好きなシュガーコーンも買ってくれる。二リットルのアクエリアスの重さに、すこし硬くなる右腕が自分のものなんだと思うと、そのたびあたしはいつもうれしくなる。

ドアを開けると、ベッドの上に置いてあるジョージ朝倉の漫画が目に付いた。あたしが無理矢理貸したものだ。「読んだんだ」と笑うと、「借りたんやから、誰でも読むやろ」と尾崎は恥ずかしそうにそれをあたしのカバンの近くに置いた。「けっこうよかった。少女マンガって感じがせんくて」少女マンガなんて読んだことない、という尾崎にそう言われ、あたしはまたうれしくなる。

パスタを茹でてカルボナーラソースと和える。麺が熱いうちに細かく刻んだチーズを混ぜると、味が濃くなっておいしい。「そんなことばっかしとると早死にすんぞ」尾崎はそんなことを言いながら、あたしの口の周りをティッシュで拭いてくれる。はじめは照れたけれど、いまでは「ありがと」と答える余裕ができた。そのあとシュガーコーンを食べて、無印の大きなソファクッションに無理やりふたりで座っていると、自然に、尾崎はあたしに触れてくる。シャワーを浴びる前のリハーサルのようなこの時間が、あたしは好きだ。

当然のように尾崎があたしを触ることに、お互いを触り始めるその瞬間に、あたしはとてつもなく安心する。家族のいない東京という場所であっても、自分は誰かと生きているのだと、急に実感する。

(写真:iStock.com/Leks_Laputin)

電気が消えると、尾崎の部屋は宇宙になる。高校のときに夏休みの課題で作ったというへたくそなプラネタリウムがぐるぐるぐると回って、尾崎の体を星が通っていく。

星に見守られながら、あたし達はソファに埋まってゆく。尾崎の唾液はあったかい。たぶん、あたしの唾液もあったかい。あったかいものとあったかいものが合わさると、とても愛しくなる。

「ねえ」

ん? とやさしく答えながら、尾崎はあたしのブラジャーを外した。尾崎とあたしの体から、同じボディソープのにおいがする。

「あたしってきれいじゃん」

「わっ。いまびっくりして反射的に声でたわ」

なにそれ、と笑うと、そのままベッドに連れていかれる。さっきまで体を委ねていた低反発のソファは、あたしと尾崎の形のまま凹んでいる。

上にいる尾崎と目が合う。

「そんでね、きれいじゃん」

「俺のクラスのヤツが、パン屋の店員かわいーってほざいとったから頭殴ったった」

「そのひと市松模様のメガネしてない?」あたしはちょっと体を起こす。

「しとらん。なんで?」

「なんでもない。それでね」

あたしは一呼吸おいて、もう一度ベッドに体を委ねた。尾崎が、あらわになったあたしの胸にキスをする。愛しい気持ちが脳の中まで湧き上がってこないうちに、

「同じクラスの男の子にキスされた」

なんでもないことのように言ってみた。

尾崎があたしの胸から顔をあげる。あたしは尾崎の目を見つめた。

「キスか」去年まで、地元の本物の星空をじっくりと見つめてきたという目を、つくりものの星が通りすぎる。

「そんなにたいしたことじゃない」

口の中に残っていたアイスのコーンの欠片が、歯と歯の隙間から落ちてきた。あたしは、明日の朝、シュガーコーンをもう一本食べようと思う。

そういうことを思っていないと、涙が出そうだった。

「どんな野菜でもシーザードレッシングかけたらうまいやろ。それと同じ、どんな男でも汐梨を見たらキスしたくなんの」

言っていることは最初から最後まで意味がわからなかったけれど、あたしはそのままおいしく食べられた。風人のキスを思い出した瞬間、いつもより強く胸を吸われた気がした。そのあとは口の中に残っていたアイスの後味をなめとられ、口の中が尾崎の風味でいっぱいになった。

あたしは何も、上手に伝えられない。成長しない日々が積み重なって、あたしはこんなふうにあたしを満たしている。

七限の講義がある日は、教授の話が終わるとともに一日が終わる。話が延長して、本来の終了時刻である九時半を回ることもしばしばだ。次の授業がないから、教授も好きなことを好き勝手話すのだ。七限の授業には、それまでと違ってスーツ姿の男性や博識そうなおばさんや、なぜかセーラー服の女子高生がいたりして、すこし世界から外れたにおいがする。いや、そういうにおいを醸し出そうと、みんなでがんばっているにおいがする。人と人との間にはちゃんと距離があって、皆それを認識している。世界とこの教室そのものにもしっかりと距離があって、たぶんあの女子高生などは特に、それを認識したくてたまらないのだ。

暗闇を含んだ夜の大学は、どこか秘密めいている。たくさんの人を吐き出したあとのその姿は、いてはいけない場所のようで、あたしはいつも少し早めに歩く。もうすぐ大学が閉まる時間だ。サークルの部室や練習施設にいた学生たちが、携帯電話で終電を検索しながら居酒屋へと歩いている。あたしはひとりスーパーに寄ると、アパートへ帰った。

ひとつも信号に引っ掛からなかったことがうれしくて、こんな時間なのにまだ甘塩の鮭の切り身が残っていたことがうれしくて、軽やかに鍵を差し込む。がちゃり、と、金属の内臓をえぐるような音に、

「おかえり」

ひーちゃんのアルトが重なった。

「えっ」

「遅くない? 今日七限だったんだっけ?」

今日もひーちゃんの声は揺れない。

「七限は七限だったけど……今日はなにしてんの?」

ひーちゃんは昨日もおとといもこうしていましたみたいな顔をして、つややかに立ち上がっているお米を茶碗によそっている。風船のようにぱんぱんにふくらんだお米から漂う湯気を、大切そうに顔じゅうに浴びているひーちゃんを見ていると、動揺しているあたしの方が間違っているように思えてくる。

「なにしてんのって……ごはんでも食べようと思って」

「ごはんでも……ね」

「あと鮭も」

ひーちゃんはあたしの左手を指さした。西友で買った鮭の切り身が入ったビニールぶくろは、あたしより先にこの状況を理解したのか、何かをあきらめたようにだらんと力無い。

あたしは降参して靴を脱いだ。こんなの、今日がはじめてなわけじゃない。去年の冬なんか、ひーちゃんはこの部屋で、一人で勝手に鍋をしていた。そのときに比べたらまだマシだ。

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関連書籍

朝井リョウ『もういちど生まれる』

彼氏がいるのに、別の人にも好意を寄せられている汐梨。バイトを次々と替える翔多。絵を描きながら母を想う新。美人の姉が大嫌いな双子の妹・梢。才能に限界を感じながらもダンスを続ける遥。みんな、恥ずかしいプライドやこみ上げる焦りを抱えながら、一歩踏み出そうとしている。若者だけが感受できる世界の輝きに満ちた、爽快な青春小説。

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朝井リョウ

1989年、岐阜県生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。2009年『桐島、部活やめるってよ』で第22回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年『何者』で第148回直木賞受賞。14年『世界地図の下書き』で第29回坪田譲治文学賞受賞。

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